平成14年(ネオ)第730号 懲戒処分無効確認等請求上告事件

上告人    

被上告人 株式会社日本経済新聞社

 

上告理由書

 

2002年11月29日

 

最高裁判所 御中

 

上告人訴訟代理人弁護士     塚原英治

   同           早瀬 薫

 

 上記当事者間の頭書上告事件について、上告人は、次のとおり上告理由を提出する。

 

 原判決は、憲法21条の解釈適用を誤り、憲法21条に従って解釈されるべき民法90条、709条の解釈適用を誤った結果上告人の請求を認めなかったものであるから、破棄を免れない。

 


第1 総論 − 新聞記者の言論の自由が問われている

 はじめに

 本件は、上告人が言論活動の一貫として続けてきたホームページの作成及びインターネット上の掲載に関して、被上告人からなされた懲戒処分の違法・無効、及び懲戒処分に引き続いてなされた懲罰的配転命令の違法・無効を争うものである。このように、本件においては、上告人の私的言論活動に対して直接なされた懲戒処分、配転命令が争われているのである。

 しかしながら、原判決は、憲法上保障されるべき言論活動の自由(憲法21条1項)に対する一切の考慮をしていない。また、原判決が引用するところの第一審判決も「仮に懲戒処分の対象となる労働者の行為が憲法上保障される場合であっても、憲法上の権利保障は労働者と企業との間の労働契約関係に直接に規律する効力を有するものとは認められないうえ、企業秩序維持の観点からこのような行為を懲戒処分の対象とすることが当然に公序良俗に反する許されないものとも解されない」と述べ、単に言論活動を懲戒処分の対象としうるか否かという、非常に抽象的な次元でのみ論じているだけである。

 以下、第1 総論 では、憲法上保障されている言論の自由が、新聞記者である上告人と新聞社である被上告人との間で、いかに考慮されるべきであるかを1で論じ、新聞社ないし企業が、新聞記者ないし労働者の言論活動を制限できる場合はいかなる場合かを2で論じる。

 その上で本件処分については、第2以下で次のように考察する。

@取材源は公開が原則であり、上告人の取材過程の開示や取材源の開示行為は処分されるべきではない。

  第2で論じる。

A表現は、「全体の趣旨」や「原因」とのバランスで判断すべきであり、上告人の表現行為は本件のような処分には値しない。

 第3で論じる。

B本件処分と配転は見せしめであり、言論の自由に対して威嚇効果を持つものであるので違法である。

 第4で論じる。


 1 新聞記者の言論の自由

 (1)言論の自由は私企業の中でも通用する大原則である

 憲法上、「言論、出版その他一切の表現の自由」が保障される(憲法21条1項)。内心における思想や考察は、外部に表明され、他者に伝達されてはじめて社会的効用を発揮する。その意味で、言論、表現の自由はとりわけ重要な権利である。

 ところで、このような憲法上の基本的人権の規定は、従来公権力との関係で国民の権利・自由を保護するものであると考えられてきた。しかし、資本主義の高度化にともない、社会の中に企業、経済団体、職能団体などの巨大な力をもった国家類似の私的団体が数多く生まれ、一般国民の人権が脅かされるという事態が生じている。「人権は、個人尊厳の原理を軸に自然権思想を背景として実定化されたもので、その価値は実定法秩序の最高の価値であり、公法・私法を包括した全法秩序の基本原則であって、すべての法領域に妥当すべきものであるから、憲法の人権規定は私人による人権侵害に対しても何らかの形で適用されなければならない。」(芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法(第3版)』岩波書店・2002年106頁)のである。

 したがって、本件の懲戒処分について判断する場合にも、企業と労働者との問題というだけで、憲法上保障された権利であることを軽視してはならず、懲戒処分が言論の自由を制限するものである以上、憲法上保障されている言論の自由の価値に見合った判断がされなければならない。

 (2)新聞社の中ではとりわけて言論の自由が保障されるべきである

   @ 本件で争われているのは、社会の言論活動の中枢としての新聞社がその言論活動を支える新聞記者に対してなした懲戒処分である。もとより、新聞記者である場合と、一般労働者である場合とで、私的活動における言論の自由が保障されるべきことに違いはない。しかしながら、言論活動を標榜する新聞社内において、その言論活動を支える新聞記者の言論活動は一層保障されてしかるべきであり、そうでなければ、逆に社会の言論活動自体が非常に萎縮したものとなってしまうであろう。

 A 先例としての山陽新聞社事件

 山陽新聞社の労組が経営方針を批判するビラをまいたことを理由に組合役員が解雇された事件に関する広島高裁岡山支部昭和43年5月31日判決は、報道機関において会社の信用を害する内容のビラを配布してもその内容が労使関係に関し真実を伝える限り正当な組合活動といえるとして、解雇を無効とした。そこでは、「企業が公共的性格をもつ場合にはその営業方針は直接・間接に国民生活に影響を与えるものであり、その企業内事情を暴露することは公益に関する行為として、それが真実に基づくかぎり企業はこれを受忍すべきである」と判示されている(判例時報547号89頁)。

 組合が配布したビラには見出に「真実の報道を要求しよう」と書かれ、@ 経営者は(新聞作成上)「少々かなづかいがおかしくてもほっておけ」「読者へのサービスが低下してもいたしかたない、紙面もいいかげんでいいといっている」、A 百万都市推進の宣伝をくる日もくる日も気狂いのように続けている、B 記者の書いた原稿を書きなおし、白を黒にしたウソの報道をしたり、百万都市や一月大合併への皆さんの疑問や反対の声を正しく伝えることをこばんでいる、C 独占本位の三木県政のご用をうけたまわる広報紙になりさがつている、D 良心的な記者が不当な配転を押しつけられている、E 山陽新聞を兵営や刑務所のようにしようとするファッショ的な就業規則、などと記されていた。

 上告人は、公共性の高い全国紙において、実態を改善すべく批判活動を行っていたものであって、書かれたことは真実である(被上告人も内容の真実性は争っていない)。

 本件は、自社批判およびマスコミ全体の問題点を情報開示した事例である。本件のように企業が公共性をもつ場合、その営業方針は直接・間接に国民生活に影響を与えるものであり、その企業内事情を開示することは公益に関する行為として、被上告人はそれが事実に基く限り受忍すべきである。


 2 言論活動に対する懲戒処分には必要最小限の原則と明確性の原則が適用される

 このような言論活動の価値に照らし、仮に、企業秩序維持の観点から言論活動を懲戒処分の対象とすることが可能であったとしても、そのような制限ないし処分は、必要最小限度に留めるべきであるし、そもそも、言論活動に対する処分規定は明確に規律され、新聞記者ないし労働者が容易に認識できるものでなければならない。

 しかし、被上告人の「編集方針」あるいは「取材源秘匿の鉄則」なるものは、第2で述べるとおり、内容の不明確性、あるいは不合理性からそのような規定としての適格を欠いていた。

 


第2 取材源は公開が原則であり、上告人の取材過程の開示・取材源の開示行為は処分されるべきではない

 1 処分理由とされた取材過程・取材源の開示

 原判決は、上告人のホームページについて、「『誤報の裏で』は、福岡市の水道料金の値上げについて被控訴人を含む新聞各社が誤報をしたことがあり、その原因に各社のスクープ合戦があることなどを指摘し、これを批判する内容のもの、『夜回り』は、福岡証券取引所の前上場部長の詐欺疑惑を取材した際の取材方法を批判した内容のもの」、「捏造記事」、は「マスコミの体質を批判した内容であったこと」、「オーナー企業」は「被控訴人を含めマスコミ報道(の内容、見方)には留意する必要があることを訴えたもの」、「社会的立場」では、「情報提供者から苦情を受けたことの顛末を紹介したもの」等、そのホームページの趣旨について、一定程度触れ、「控訴人が一般論として被控訴人の悪しき慣行を批判することは言論の自由として許される」とした。しかしながら、結果として、これらの各ホームページが「具体的な取材の過程や取材源を被控訴人の了承もなく個人的に公表」していることを理由に、被上告に会社の「編集方針、経営方針」に違反しているとした。

 かかる判断は誤りである。以下、2で取材源秘匿の性格を、3、4で処分規定としての不明確性、不合理性を、5で本件表現の必然性を明らかにする。


 2 取材源秘匿の性格

(1)原判決の判示

 原判決は、「取材源を秘匿することが控訴人の指摘するようにマスコミの悪しき慣行であるとしても」と、取材源秘匿が「守られるべき鉄則」などではないことを承認している(6頁)。

 ところが、原判決は、「取材源や具体的な取材の過程を公表することにより、実際問題として被控訴人の今後の円滑な取材活動が妨げられるなど、被控訴人の業務に支障が出るおそれがある以上、その公表は、雇用者である被控訴人の判断に委ねられるべきであり、」との判断をしている。

 そのうえで、「控訴人が一般論として被控訴人の悪しき慣行を批判することは言論の自由として許されるとしても、従業員である控訴人の一方的判断で、控訴人が、被控訴人の新聞記者として行った具体的な取材の過程や取材源を被控訴の了解もなく個人的に公表することが許されないのは明らかであって、それが被控訴人の経営、編集方針であることは、(中略)容易に認識できたと言うべきである」としている。

 「悪慣行」が「編集方針」として遵守を強制されるというのは、法治国家の論理ではない。取材源の秘匿と開示が全て会社の判断に委ねられるという「悪慣行」は法的根拠のないものであるから、是正されねばならない。

 5で詳論するように、そもそも批判は具体的でない限り説得力がない。上告人は一般論の批判では意味が無いから、批判の文脈の中で具体例を挙げたにすぎないのである。

 (2)取材源は明示するのが国際原則

 当時の被上告人の「取材源の秘匿」についての考えは、むしろ国際的な記者のルールに反するもので、普遍的なものではない。原判決が安易に取材源秘匿の必要性・合理性を承認したことには大きな問題がある。従来、裁判で取材源秘匿が問題となったのは、権力との関係において取材源を守るべきかという問題であり、本件のようなケースとは全く異なることに留意しなければならない。

 「欧米のメディアでは、『情報源(取材源)の明示』こそが原則であって、『情報源(取材源)の秘匿』は例外とされている」のである(甲21号証・山口意見書5頁)。たとえば、ワシントン・ポストの記者ハンドブック(甲24号証)は「取材源を特定することが取材源の安全を危険にさらさないかぎり、すべての情報源を公表することを旨とする」とし、「情報源を明記するため適切なあらゆる努力」をし、これが不可能な場合は、「情報源の身元を明記できない理由を求め、これを記事に入れることを相手に告げなければならない」としている。AP通信社加盟の編集局長会綱領も取材源の扱いに関してほぼ同様の内容を定める(甲25号証)。いちいち紹介しないが、これらの規定はインターネットで瞬時に取ることができる(前澤猛『新聞の病理』岩波書店・200年。甲26号証199頁参照。前澤氏は元読売新聞論説委員)。「公正な報道のためには情報源(取材源)の明示は不可欠、というのがジャーナリズムの国際的な常識」なのである(前澤猛・甲12号証)。

 その理由は、山口意見書においても述べられている通り(甲21号証5頁)、情報源の明示はその記事の「信用性」に関わるからである。読者は情報源の明示によって、記事に書かれた情報の取材過程を知り、情報の「確度」を知りうるのである。公正な報道のためには情報源の明示は不可欠なのである。北村意見書においても「『関係者』などといった表現は読者にとって分かりにくく、また記事の信頼性を疑わせることにもなる」と情報源を明示しない記事の問題を指摘している(3頁)。浅野意見書も同様に、「情報源の明示は、外国のジャーナリズムでは重要な原則とされている客観報道(objective reporting)の主要な要素」(甲23号証19頁)として、取材源の公開・明示こそが原則であることを指摘している。

 そこで日本のジャーナリズムにおいても、日本新聞労働組合連合(新聞労連)は「秘匿の約束がある場合のみ」に守秘義務を負い、それがない限り取材源は明らかにすべきとの見解をとっている(甲6号証15頁)。

 共同通信社が98年10月に発行した「STYLE BOOK」第5条の「情報源」でも、「例外を除いて、通信社の記事は、適切な人物あるいは情報源を明示して、信用できることを立証する必要がある」と定められており、これは「世界中のまともな報道機関の決まり」(甲23号証・浅野意見書19頁)なのである。

 昨今、インターネット上の掲示板サイトなどで、匿名による情報源も明示しない無責任な情報が氾濫し社会問題となっているが、取材源を明らかにして情報発信者が氏名を名乗った上で事実を基に論じるという国際的なジャーナリズムのルールが守られれば、風説の流布や名誉毀損といった問題も発生を防げるのであり(前澤猛『新聞の病理』甲26号証84?97頁参照)、上告人はそれを実践したのである。

 (3)新聞紙面に載らなかった取材源は全て秘匿しなくてはいけないのか

 原判決は、「(取材源)の公表は、雇用者である被控訴人の判断に委ねられるべきであり、」とする。しかし、記事の中に取材源が明示されなかった場合が全て「取材源を秘匿すべきだと会社が判断した場合」になるわけではない。会社は日本のジャーナリズムの悪しき慣行に従い、取材源の明示を怠っただけなのである。

 新聞紙面で特定しない取材先を特定したことをもって「取材源の秘匿」違反とするのは「被告のジャーナリズム機関としての認識不足」(甲21号証・山口意見書6頁)であって、鉄則ではない。「本件のような場合に『取材源の秘匿』を持ち出すのは、いいがかり」(甲18号証・北村意見書4頁)というべきである。


 3 「編集方針」は明確でなかった

 (1)「編集方針」の不明確性

 そもそも、就業規則上規定されている「会社の編集方針」「経営方針」は文言上全く抽象的な意味しか示していない。被上告人は「会社の編集方針」なるものを明示したことはないしその解釈規定もない。被上告人が主張する「取材源秘匿の鉄則」も、文書で説明された事実は一度もない(佐々証言14頁)。本訴のなかでさえ、主張が変化しており、証言にも明らかなように、守屋証人は「(取材源を)公表してもいいというような考え方もあるようですけれども、この点については被告会社としてはどのような考え方でいるわけでしょうか」との質問に対し、「新聞記事でニュースソースを明らかにするということは非常に重要なことだと思います。新聞記事の中でソースをきちんと明示するということは非常に重要なことだと、それは我々も認識しております」として、取材源を特定することの意義・重要性を強調し、被上告人として取材源明示という考え方を支持する趣旨の証言をしている(同証言19頁)。このように、そもそも経営・編集方針とは曖昧模糊としており、それを根拠に懲戒処分しかも言論の自由を制限するような懲戒処分をなしうるような確固とした代物ではないのである。

 (2)「編集方針」は明示されていない

 仮に、被上告人が、自己の「編集方針」を懲罰をもって徹底しようとするのであれば、その具体的内容の明示は、最低限の要件である。しかしながら、上告人は、記者教育の中で、被上告人の「編集方針」を教育されたことはなく、被上告人の理解する「取材源の秘匿」を教育されたこともないのである。上告人が、口頭で具体的な説明を受けたのは、1999年2月の「退職強要面接」が初めてのことであった。上告人が、「退職強要面接」などにおいて、何度も繰り返しているように「どこまでがよくて、どこまでがダメなのか」、最後まで明確にならなかったのである。

 さらに、就業規則上の「編集方針」が「新聞記者として行った具体的な取材の過程や取材源を被控訴の了解もなく個人的に公表することが許されない」ことを意味するものではないことは、他の実例からも明らかである。控訴審準備書面(1)でも紹介したが、例えば読売新聞社記者の第一勧銀事件の取材結果が、読売新聞社社会部『会長はなぜ自殺したか』という本になって新潮社から刊行されるなど(1998年)、取材した新聞社が「責任を持って発行する」媒体以外から公表されることはいくらでもある。新聞の取材に応じたものは、単行本化に際し、承諾を求められることもない。被上告人の記者である田勢康弘氏などは、被上告人の記者であることによって得られた取材結果をもとにして、覆面(黒河小太郎のペンネーム)で政治小説(『総理執務室の空耳』)を発表したり(甲29号証の3)、新潮社からジャーナリズム論(『政治ジャーナリズムの罪と罰』『ジャーナリストの作法』)を公刊し、取材過程を明らかにして論じている(甲29号証の2)が、被上告人社内で問題にされた様子は全くない(佐々証言13頁、守屋証言13頁)。

 また、被上告人は、上告人に対する処分後、「業務外のホームページ等に関する規定」(甲7号証)なるものを施行したが、このような事実自体が、本件処分当時、社内に従業員のホームページ開設に関するルールが確立していなかったことを露呈するものといえよう。


 4 「悪慣行」を守られるべき規範としての「編集方針」とする原判決には論旨の飛躍がある

   原判決は、取材源秘匿の慣行が「被控訴人の経営、編集方針でもあることは、控訴人が公開している文章の問題点を上司から指摘され、ホームページの閉鎖を求められたことからも容易に認識できたというべきである(甲第17号証の2及び乙第22号証によれば、控訴人は、前記『誤報の裏で』と題する文章中で、『新聞業界には「?営業課長によると」などと書いてはいけない習慣がある。読者の重要な判断材料となる情報源は、明かされない仕組だ。』と記述していたことが認められ、控訴人自身、取材源の秘匿がマスコミの慣行であることは十分に認識していたものである。)。」と判示している。

 慣行があると認識したことが何故遵守を強制される「編集方針」だと認識できることになるのか、論旨に飛躍がある。悪慣行は是正されるべきであり、それが処分の規範となると認識せよとすることには無理がある。

 取材源秘匿が国際常識に反することは、2で述べたとおりであり、上告人にその認識・遵守を期待することはできない。

   以上のように、処分の根拠となる規定は明確ではない。このような不明確な基準により言論行為を処分することは、憲法21条に違反する。


 5 「編集方針」に違反するとされた文章の趣旨、内容の検討

 原判決の前記1の判示は、いずれも上告人のHPの内容を十分に斟酌せず、その言論活動を著しく軽視するものである。

 一般に一定の物事について、批判的な文章を作成する場合に、単に抽象的な批判を展開するだけでは何ら説得力がないことは自明であろう。本件において、被上告人さらには広くマスメディアの「悪しき慣習」等を批判する場合、実際にその悪しき慣行の中で取材に当たった体験談をもとに議論を展開することこそが、説得力に富む内容となり、また同時に人々の関心を大きく引く最大の方法なのである。(読者の感想特集。甲17号証の2、271頁?273頁参照)。その意味で、実際の事案の紹介は不可欠なのであり、そうであるからこそ、被上告人は、各文章について実際の事案を紹介し、自らの体験を被瀝して、言論活動を行ってきたのである。

 また、上告人の各HPでは、いずれも「事業部長」「捜査二課長」「水道局の営業課長」といった役職名の記載に留めている文章がほとんどであり(ちなみに、これらの役職名は、HP内で紹介された事案からして、仮に明示しなくとも読者にわかる程度のものである)、取材対象者の実名を挙げている文章は極一部であることにも留意しなければならない。

 すなわち、「誤報の裏で」(甲17号証の2の266頁、乙第22号証)は、水道料金の値上げ金額に関し、誤報が生じたことについてその原因につき分析を加えたものであるが、国内外のジャーナリズムの常識に従えば、「水道局の営業課長」という取材先は、「本来は記事の中で明示されるべき情報源」(甲21号証・山口意見書5頁)であり、「値上げについて知っているのは水道局の営業担当者であり、この文書が『取材源の秘匿に反する』というのは全く言い掛かり」(甲23号証・浅野意見書12頁)である。取材源が担当者であることは誰でもわかることであり、上告人は個人名を出して攻撃しているわけではない。上告人はこの文章において誤報の真の原因を分析し、「スクープ合戦」が繰り広げられ、「権力からのリーク」の結果として誤報が生じたとしても、「リークした側も報じた側も責任をとらない権力に都合の良いシステム」の問題を論じているのである。取材先(肩書きである)を明らかにしなければ、その問題点は明らかにならない。

 「夜回り」(甲17号証の2の206頁、乙第19号証)は、夜回り取材の概要を紹介し、県警幹部の私邸に疑問なく情報を取りに行くという記者の姿勢を批判したものである。国内外のジャーナリズムの常識に従えば、「捜査二課長」という取材先は、「本来は記事の中で明示されるべき情報源」(甲21号証・山口意見書5頁)であり、「本来、公表すべき事案である」(甲18号証・北村意見書3頁)。「被告の新聞社が取材先の県警幹部を『紙面で報じない』ことこそが、事実の正確な報道という新聞倫理に違反している」(甲23号証・浅野意見書10頁)のである。


 6 名前の創作の開示は、上司によるコメントの改ざんを告発するものとして相当性を有する

  原判決は、「控訴人の『握造記事』と題する文章は、記者である控訴人自身が自らの記事の一部(取材対象者の名前)に創作があったことを吐露したものであり、それ自体は些細なことであっても、被控訴人の記事には記者によって創作された部分が日常的にあるのではないかとの不信感を広く読者に与えかねないものであり、これをホームページに掲載することが同号に反することも明白であり、」と判示する。

  しかし、この頁は、虚心に読めばわかるとおり、筋書き通りに現実をあてはめて強引に記事を作るという新聞社の慣習を、自らの体験を踏まえて批判しているものである。控訴人は確かに「哲雄」という名前を創作したが、問題なのは、上告人の行為ではなく、予定した記事にあてはめたり、あるいは上司が記者のとってきたコメントを勝手に改ざんする行為である。それこそ、まさに「記者の倫理」に反する捏造行為である。このような予め記事を作ってしまう「コメントの捏造」こそが新聞不信の原因の一つである(前澤猛『新聞の病理』甲26号証50?54頁を是非参照されたい)。

  原判決は、このような新聞社の日常的「コメントの捏造」は問題にせず、何ら実害のない「人名の創作」(仮名であっても何の支障もなく、上告人が記事に書いた名も、記事中で「仮名」としておけば、何の問題にもならなかったはず)を、「編集方針を害している」と決めつけている。これは、著しくバランスを欠いた判断である。

  原判決は、「被控訴人の記事には記者によって創作された部分が日常的にあるのではないかという不信感を読者に与えかねない」ことを処分理由としている。しかし、「コメントの捏造」とデスクが書きたい内容に記事を整理してしまうことこそが、「日常的に」行われている。それが事実であれば「不信感」を招くのは当然である。「不信感」を取り除くためにはそのようなことをやめるべきなのであり、内部告発をし実態を暴露したものを処分することで隠蔽することは正しい解決ではない。上告人の行為は内部告発であり、第1で述べた新聞社の公共性から見て処分されるべきものではない。

 


第3 表現の程度は、「全体の趣旨」や「原因」とのバランスで判断すべきであり、上告人の行為は本件のような処分には値しない。

 1 処分理由としての「流言」であるとされた文章

 原判決は、「『悪魔との契約1ないし4』と題する文章は、被控訴人を『悪魔』あるいは『屍姦症的性格を帯びた邪悪な企業』と呼称するものであり、被控訴人のマスコミとしての信用を害するものであって、同就業規則35条2号において、『会社の秩序風紀を正しくよくしていくために』遵守すべきとされている『流言してはならない。』に反するものであるというほかない」と判示する。


 2 本文章は「根拠のない風説」を意味する「流言」には該当しない

 しかしながら、懲戒処分の判断としては、上告人のHPが書かれた経過と「悪魔との契約1」「悪魔との契約4」の全体を見るべきであろう。

 これらは、被上告人会社によってHP全面閉鎖を強いられ、その結果個人の大切な表現の手段を不当に奪われた上告人が、その不当性を批判する手段をもつことも許されないという状況の中で書かれたものであり、そもそも被上告人会社の不当な命令を批判する目的で書かれたものである。

 つまり、これらの文書全体は、自らのHP閉鎖命令の経験をもとに、「人事権をちらつかせて部下を脅す」行為を批判し、「言論機関であるはずの新聞の記者に言論の自由がない」という新聞社としての根幹に関わる問題を批判をするものであり(「悪魔との契約1」)、不当なHP閉鎖命令を出した被上告人会社に対する正当な批判の文書である。従って、これらの文書は、「根拠のない風説」(『広辞苑(第5版)』)や「根も葉もない噂」(『新潮現代国語辞典(第2版)』)である「流言」には該当しない。


 3 全体の文章の中で「表現」を理解すべきである

 原判決が指摘する部分は、いずれも上告人が会社を批判する中で用いた一連の「表現」の一部にすぎない。

 すなわち、上告人は、被上告人会社からHP全面閉鎖命令を受けたことを批判する中で、言論を抹殺し、自浄作用がない組織である点を「悪魔」「屍姦症的性格を帯びた邪悪な企業」と表現したにすぎず、このような「表現」自体は行き過ぎの感があるとしても出勤停止のような処分をなすべきものとは言えない。

 会社を批判した書籍の出版を理由になされた戒告処分が、無効とされた三和銀行事件・大阪地裁平成12年4月17日判決(労働判例790号44頁)においても、「本件出版物の表現には、露骨で扇情的なものが含まれる。しかし、その多くは異なる体制を標榜する者の労働運動において使用者側に対してされる常套文句というべきもので、専制支配といったり、奴隷を(ママ)記載したとしても、それがその本来の意味で使われているとは、読者の誰も考えないであろう」として、使われる文脈、状況の中で文書の「表現」を理解している(労働判例790号64頁)。

 労働者から大企業に対しなされる会社批判においては、いきおい感情的になるなど、表現が強くなることはままあることである。上記三和銀行事件においても、大阪地裁判決は、「『魑魅魍魎』の世界」、「社畜」「人間の仮面をつけた鬼」というような不当な部分があるとしても、問題とすべき部分は僅かであるとして、その文章全体の中で表現行為を捉えている。本件も同様にとらえるべきである。


 4 原因を作ったのは被上告人である

 「悪魔との契約1」の文章全体としては、HPを閉鎖しなければ希望する部署に推薦しないという守屋編集部長の説得方法に怒りを感じ、その結果として、記者としての経験を積むために、現実といったん妥協することを自虐的に表現しているものである。

 原判決が是認した第一審判決は、HP全面閉鎖命令は「業務命令権の範囲を逸脱した無効なものであ」り、「就業規則上何らの問題のない文書を含むHP全体を閉鎖するよう命じたものであって、到底許されないもので」あるとして(35頁)、その不当性を認めている。違法行為を先に働き、上告人がこのような表現をする原因・動機を作ったのは、被上告人である。上告人の文章のみを切り離して議論するのは公平ではない。第一審判決が認定したこのような事情を考慮すれば、仮にこの記載部分が就業規則違反に形式的に該当するとしても、懲戒処分の相当性の判断においては、その非難可能性を低く斟酌すべきなのは当然である。

 


第4 本件処分と配転は見せしめであり、言論の自由に対して威嚇効果を持つものであるので違法である

 1 本件懲戒処分の相当性

 (1)原判決の内容

 原判決は、

@上告人が「被控訴人の就業規則33条1号によって従業員が遵守すべきこととされている『会社の経営方針あるいは編集方針を害するような行為をしないこと』に故意に反した」こと

A「そればかりか」、人名の創作を吐露し、悪魔などと記載したことなど

B「その内容に鑑みれば、14日間の出勤停止処分である本件懲戒処分が不相当であるということもできない。」とする(7頁)。

(補記)なお、原判決は、その理由において付記すると称して第一審判決を要約しながら、上告人が処分理由としたもののうち、「機密」漏示に関する部分については、これを付記から除いている。上告人が記載したことは、社会常識から言って「機密」などといえないものであることは控訴審準備書面(1)で詳論しているとおりであり、「機密」漏示による処分が難しいことを認めたものとも解される。もっとも、原判決は第一審判決の第3を全て援用しているので、この点の批判については、前記準備書面及び甲31号証を参照されたい。

 (2)上告人の認識

  前述の通り、上告人が「会社の編集方針」に故意に違反してHPを再開したとする点は事実誤認である。

 原判決が是認する第一審判決も認定しているとおり、1997年4月頃に、守屋部長からHP全面閉鎖命令を受けた時から、上告人は、HPを作成する際に何がよくて何がダメであるのか、という点をたえず質問し、「ルールを決めてもらえばそれに従う。基準を作ることを条件にHPを閉鎖する」と反論していたのである(第一審判決20頁、原判決3頁)。上告人は、守屋部長が「削除すべき部分を特定することなく」(第一審判決35頁)、闇雲に全面閉鎖のみを命じたために、経営・編集方針を認識できなかった。何が許されない行為かについて理解していなかったからこそ、被上告人に対し、ルール作りを主張してきたのである。

 上告人がHPを再開した1998年5月においても、認識は同様であった。それまでの間、被上告人はルールを作ることもなく、議論さえしていなかったのである。守屋部長は、上告人が最初にHPを閉鎖する際に述べた「HPのルールを作って欲しい」という要望を、現場レベルで隠蔽し、本社人事部に上げていなかった。佐々証人は、HP規程の制定を担当したが、西部支社からそのような要望があったことはなく、上告人が規程の作成を求めていたことも知らなかったと証言している(佐々証言12頁)。被上告人が「業務外のHP等に関する規定」を策定したのは、懲戒処分後の1999年9月である。このように、当時は特定された経営・編集方針や就業規則が存在しなかったことから、守屋部長の指示には反するとしても、会社規定には違反するものではないと考えたからこそ、上告人はHPを再開したのである。

 原判決が、会社の全面的なHP禁止を違法とする第一審判決を前提にしていながら、「被控訴人の了解を得ないままホームページの公開を再開し」などと記載するのは矛盾である。ホームページの公開には会社の了解など不要のはずである。

 (3)処分の相当性

  個々のHPの内容については、前述の通りであり、問題と指摘されている上告人のHPの多くは、新人の記者の立場からジャーナリズム及びマスメディアが抱えている問題を批判する目的で書かれたものであること、被上告人会社において当時HPに関する社内規制が整備されていなかったこと、1998年から1999年当時のインターネット技術においては、上告人のHPの読者は限られていたこと、実際に「害」と認定される事実は一切発生していないことからすれば、本件処分(不当配転を含む)を社会通念上相当と判断する理由はない。

 本件が上告人の言論行為を理由とした処分であることから、被上告人の懲戒処分は憲法21条の趣旨を考慮し、民法90条により、無効と解すべきものである。


 2 本件配転命令の不当性

 (1)原判決の内容

 原判決は、被上告人会社と上告人の労働契約は、職種限定契約とは認められないとした上で、本件懲戒処分が有効であること、懲戒処分の事由が記者としての取材活動に関連して行われたものであることなどから、「その判断には合理性があり、本件配転命令が違法であるとは認められない。」とする。

 (2)労働契約の内容

 しかしながら、@被上告人会社においては、募集職種として「新聞記者部門」・「出版編集部門」・「技術部門」と区別され、この区別に応じて採用されていること、A記者は人気職種であり、一流大学卒業生が50倍から100倍の倍率(競争率は司法試験より高い)で選抜されている(佐々証言9頁)ものであること、B新聞社において、記者職で採用された記者が取材活動からはずれる「資料部」に配属されるのは、「健康を損ねた」「年齢が高くなり体力的に無理になった」などの明確な理由がある場合か「左遷」かであり、これは新聞社に勤務する者にとって常識となっていること(甲21号証・山口意見書、甲18号証・北村意見書、甲23号証・浅野意見書、上告人自身も当時から整理部への配転を「左遷」と捉えている)等からすれば、上告人と被上告人会社の労働契約は、職種限定契約ないしは、健康上などの正当な理由がない限り記者職から外さないことを内容とした「準職種限定契約」であると認められる。したがって、被上告人会社の配置転換権も、上記のような観点から限定されなければならない。

 佐藤厚『ホワイトカラーの世界』日本労働研究機構・2001年(甲31号証)「職業キャリア」(109?112頁)記載の通り、新聞記者として採用されたものは、管理職となる場合の他は記者業務以外の業務に就くことはないのが通例である。

 (3)本件配転の評価

 本件懲戒事由が理由のないものであることは前述の通りである。「同処分の前提となる懲戒処分事由が記者としての取材活動に関連して行われたもの」(第一審判決39頁)であるならば、懲戒処分が違法である以上、それを前提とした不当配転は到底、認められないことになる。

 むしろ、上告人のように若い記者の資料部への配転命令については、「若い記者が本人の希望以外で資料部に配置された例は、私の勤務する新聞社(読売新聞社)では聞いたことがない。」(甲21号証・山口意見書8頁)という程、異例である。

 「要は『社を批判した』ことによる異動としか考えようがない」(北村意見書5頁)のである。「これからという新聞記者にとって、新聞社における資料部への異動が『ペンを取り上げられる』という印象を持つことは事実」(浅野意見書21頁)であるため、「新聞記者の場合、こうした形で非取材部門への異動を共用されることは『社を辞めろ』と通告されたことと同じであり、『一種の死刑宣告』である」(甲18号証・北村意見書5頁)。「資料部への異動人事は、記者として『殺される』ことを意味する」(甲21号証・山口意見書8頁)。取材・報道の現場から排除され、ジャーナリストとしての活動が一切できなくなるからである。だからこそ、資料部への異動が「見せしめ」の効果を持つのである。上告人がHP上で「殺される」と書いているのは、決して誇張ではないのである。20代にして、そのような部署に異動させられた上告人の怒りと絶望感は、記者経験の長い山口正紀記者や北村肇氏、浅野健一氏には痛いように理解できるものである。

 本件配転は、上告人にあからさまに退職を強要するものであった。懲戒手続の中で、守屋部長が上告人に対し「もう日経の記者としてはおしまいだから、辞めた方がいい」という発言をし(原告本人16頁)、「君が10年後にジャーナリストとして名をなしているなら私の方から連絡するよ」と話をした(守屋陳述書乙28号証8頁)ことは、このような退職強要の人事を裏付けるものである。

 そして、上告人は、配転が半年上続いた時点で、このような「飼い殺し」の状況が続くことに耐えられず、被上告人会社のねらい通り、退職届けを提出した。

 本件配転命令は上告人の言論行為を理由としたものであるから、憲法21条の趣旨を考慮し、民法709条の違法性を有するものと解すべきである。

 


おわりに −  裁判所に期待されるもの

 本件のような処分及び見せしめ人事が、原判決により「正当」であると認められたことの影響は重大である。懲戒処分と配転は大きな威嚇効果を持っているのである。本件は氷山の一角であり、社内言論の不自由を感じながらも不当人事を怖れてモノを言えない記者は、新聞社内に沢山いることを理解していただきたい。本件訴訟は、言論の自由をその存立基盤とする新聞社が、社員の言論の自由を正当な理由なく奪ったことを争っているものである。

 個人の言論の自由が保障されない国は、健全な民主国家から程遠い。最高裁判所が、原判決の誤りを正し、憲法に保障された「言論・表現の自由」の理念に則し、公正かつ賢明な審判をくだすことを心から願うものである

以上