「カリスマ」(上)−中内とダイエーの『戦後』−/2001年5月、新潮文庫
これはいわゆる経営者の成功物語ではない。兄弟の中でも成績の悪かった影の薄い青年が、戦死率73%というフィリピンの野戦をかいくぐって生き延び、死線を通ってきた原体験を通して別人となり、一部の人間を惚れ込ますカリスマ性を帯びる一方、兄弟とは対立し、「衆議独裁」制(つまり合議制ではない)を経営哲学として、売上高第一主義で狂ったように戦後日本を駆け抜け、ダイエーを事実上の破綻まで肥大化させる悲喜こもごも、激動のノンフィクション・ドキュメンタリーだ。
自分の軍刀で傷口を切り開いて手榴弾の破片を摘出したり、古くなった靴を水洗いして小さく刻み、飯盒で煮て食べ、ガムのように噛みつづけたりといった戦中のエピソードは凄まじい。死線から這い上がった者が一転、戦時体制への批判心から怨念にも似た思いで、突っ走って行く様が描かれている。激務からか、中内に近い人間ほど早く世を去っていくというのもさもありなんである。
「神戸高商で努力して学んだ様々な哲学も、芸術も経済学も文学も、いずれ戦地に赴かされる自分にとっては、まったく役に立たなかった」と卒業アルバムに書いた中内。「敵弾を受けて、天皇陛下万歳なんていうヤツは、勲章が欲しいヤマ師だな」と述べる中内。私はその節々に、権力に対する健全な批判精神を持ち続けた中内に共感を覚える。
極め付けは、「戦後はまだ終わっていないんや」という中内の主張だ。日本はまだ1940年体制が基本的に続いている。規制を撤廃して自由な流通を実現すれば物価は半分になる、と中内はいう。私は権力起点の圧倒的な情報の流れを変えることによって戦後を終わらせるべきだと思っている。中内と方法は違うが、現状認識は全く同じなのだ。ジャーナリスティックで挑戦的な人生は尊敬に値する。
中内の人間味あふれるところも魅力的である。「スルメが国内で品薄になったとき、僕は一計を案じて韓国から格安のスルメを輸入した。いまから二十五年以上も前のことで、当時の買い付け値は2億円もした。ところが荷が着いてみると、ほとんど全部にカビが生えとった。これじゃまったく売り物にならん。僕がクビを覚悟して、辞表をオヤジ(中内)のところへもっていくと、オヤジはたった一言『お前、ええ勉強したなあ。もう2度とこんな間違いはするなよ』といっただけだった。あれには涙がこぼれた。そしてこのオヤジにはどこまでもついていこうと思った」。絶対に経営書には出てこない最高の「ケース」と言えよう。
GHQの通訳あがりの藤田田(日本マクドナルド)、米軍キャンプのコックあがりの江頭(ロイヤル)、そしてアメリカ仕込みのスーパーを日本に移植した中内。藤田田を師と仰ぎ、18歳の時に通い詰めて会い、進路の相談を持ちかけた孫正義。戦後の日本にとって、アメリカは富と名声をこの手につかませてくれる夢の王国だったのだ。戦後日本の軌跡を考える上でも絶品の著作といえる。(2002.4)
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ここで個人的な事柄をいわせてもらえば、東京下町の零細商店のせがれに生まれた私は、ダイエーという重戦車を押し立て、零細商店街を容赦なく蹂躙する中内の姿を、中学高校時代、遠くから匕首を呑む思いで眺めていた。‥私が大学を出る頃、私の家はほぼ商売をたたみかけ、かつてにぎわいをみせた商店街には閑古鳥が鳴いていた。
「生産と消費を結ぶ非常に大きな機能だ。ところがこの国において、流通という概念は存在しなかった。要するに物をつくって輸出だけ、戦争になると軍需産業が興って、缶詰一個から毛布一枚に至るまでがんじがらめの規制のなかに入っていった。そんななかでは、流通というものが生まれるわけがない。配給はあったけど、流通はなかったわけや。いまの流通だって、通産省はじめ各省庁がつくったガイドラインのなかだけの流通であってね。本当の自由な流通じゃない。本当の自由な流通、完全ボーダーレスの流通がなければ、21世紀の日本は生き残れない。この狭い国土のなかで、いまさら工場をつくるわけにもいかんしな。われわれのような物品販売業をはじめ、サービス業も全部含めて、生産と消費以外は、すべて流通という帯があるわけよね。‥」‥中内は太平洋戦争の原因も、元はといえば国家間の石油の奪い合いで、本当に自由な流通があれば、戦争は回避できたかもしれないといった。中内が私とのインタビューで繰り返し述べたのは、戦後も戦時体制がつづいている、だから戦後はまだ終わっていないんや、ということだった。
現在の日本の経済社会の仕組みは、昭和15年を中心とした1940年体制という戦時体制に、いまだ縛られている。あのときつくられた国家総動員法から、日本銀行法、食管法、アルコール専売法など規制だらけの法律が生まれた。日銀法は金融機関を戦争目的に協力させようと民間から金をかき集めるためにつくった法律だ。それがいまもつづいている。労働組合も大政翼賛会の傘下におさめられ、それが現在の企業組合のスタートラインになっている。年功序列、終身雇用も戦時体制のなかでつくられた。源泉徴収も同じだ。税金の天引きという世にもおかしな制度は、戦時体制ではじめてでてきた。われわれは戦時中の官僚が編み出した官僚統制のなかから、いまだ脱出できていない。要するに日本では、まだ市民社会というものが誕生していないんだ。だから、タックスペイヤー(納税者)という考えが、日本では定着しない。税金は一方的に御上に召し上げられる。まだ、税収配分を五公五民とした江戸時代の方がマシだった。いまは7割ももっていかれる。江戸時代にこんなことをやっていたら暴動が起きる。いまの日本で暴動が起きないのが不思議なくらいだ。政治の55年体制は大して問題がないけれど、40年体制は確実に日本の活力を奪っている。いま問題になっている業界の談合体質だって大政翼賛会以来、各業界が新規参入を認めない業界団体をつくってきた名残りだ。日本ではODAでも何でも談合で決めている。40年体制から生まれたこれら様々な規制をすべて撤廃すれば、日本の物価は間違いなくいまの半分になる。別に価格破壊とか何とか恐ろしいことをいいたてなくても、自然にノーマライゼーションして、世界中が1つのマーケットになってくる。中内はおおむねそんなふうにまくしたてた。私は中内のしごくまっとうな意見にうなずきながらも、それがまっとうであればあるほど、疑念がわいてくるのを禁じえなかった。
戦前の神戸を語るときに忘れてならないのは、この新興都市が労働組合運動の発祥の地であり、その過程から、日本ではじめて生協運動、消費者運動がまき起こった土地柄だったということである。さらにいえば、百貨店の進出に反対する小売商組合がいちはやく結成されたのもこの都市だった。‥中内ダイエーは、よく灘神戸生協(現・生活共同組合コープこうべ)と比較される。1995年度の実績で、売上高3995億円、組合員数128万人、神戸市内の組織率84.4%という日本最大のこの生協組織を創立したのは、神戸生まれのキリスト教社会運動家の賀川豊彦だった。賀川は、20代のころから神戸葺合の新川と呼ばれる日本最大のスラム街に住み込み、献身的な奉仕と伝導を行った。ここには浮浪者、乞食、売春婦、アル中、ごろつき、ばくち打ちなど、社会の最底辺であえぐ人々約6000人がうごめいていた。賀川はこの貧民窟での生活を、発売後たちまち百万部をこす大ベストセラーとなった自伝的小説「死線をこえて」のなかで克明に描いている。
‥1921年4月に、神戸消費組合(後に神戸生協)、同年5月に灘購買組合(後に灘生協)を設立し、本格的な生協運動に入っていった。
これまで私は、かなり多くの人物を取材してきたが、少年時代の彼らのふるまいには、後年の片鱗が、共通して、どこかしら感じられた。しかし、中内の場合、戦前と戦後をつなぐ線が、みごとなほど欠如、というより消失していた。
私は神戸三中時代の中内のあまりの「影のうすさ」に、ある種失望を感じたが、その反面、戦後の中内の旺盛な活動は、戦前の自分の「影のうすさ」に、強烈な隈どりを与えたいという衝動が陰に陽に働いていたのではなかったのかとの思いにとらわれ、却って興味をおぼえた。
卒業アルバムの末尾に、卒業生1人ひとりの言葉が載っている。‥中内は、神戸高商で努力して学んだ様々な哲学も、芸術も経済学も文学も、いずれ戦地に赴かされる自分にとっては、まったく役に立たなかったと痛烈な皮肉をこめて書き付けているのである。
中内のすぐ下の弟の博によれば、中内は子供の頃から勉強に不熱心で、父親の秀雄も母親のリエも中内に対し、「弟の博を見習え」と、口癖のようにいったという。ちなみに博は子供の頃から秀才の誉が高く、中内が受験に失敗した神戸商業大学時代も、ずっと特待生で通した。‥文字通り「愚兄賢弟」を地でいくこの挿話には、弟に対しての、おそらくは学力の差のひけ目からくる抜きがたいコンプレックスが、透かしたように語られている。‥中内の学歴に対するコンプレックス、とりわけ自分と違って大学に進んだ弟たちへの根強いコンプレックスは、戦後、商業をはじめてから、神戸大学経済学部の夜間にわざわざ通ったことにも物語られている。結局、商売の方が忙しくなり、途中退学せざるを得なかったが、‥。
「士官適」「下士官適」とされた中内の神戸豪商時代の同期生たちは、軍隊で最初から幹部候補生として扱われ、最低でも少尉の階級をもつ士官として敗戦を迎えた。これに対し中内は一介の陸軍初年兵として入営し、敗戦時の階級は軍曹でしかなかった。中内は、大学受験の失敗だけでなく、「兵適」という烙印を押されることによって、周囲に対する屈辱感と、その裏返しとしての敵愾心を、さらに根深くもたらされることになるのである。
中内は、フィリピンの戦闘を振り返って次のように語っている。「敵弾を受けて、天皇陛下万歳なんていうヤツは、勲章が欲しいヤマ師だな。傷が浅いから、そんな山っ気を出す。本当に瀕死のヤツは、『やられた』とか、『お母さん』とか『助けてくれ』といって、泣きよるだけです」‥‥「前線で弾丸が飛んでくるなかで、恐怖心を忘れたかのように勇敢に突撃していく部隊もいました。しかし、われわれのような少しばかり教育を受けた者はたいてい卑怯でした。なるべく弾が当たらんようにと祈って、勇敢な兵士たちの後からついていくようなことが多かった」
中内が配属された大石正義陸軍中佐率いる1218部隊は、532名中389名の戦死者を出した。中内は戦死率73%という激戦をかいくぐって生き延びたのである。1万3156名いた盟兵団全体では、戦死、行方不明者は1万1427名にも及んだ。中内を含め、生存者はわずか1729名だった。盟兵団全体の損耗率は86.9%にものぼった。中内は極寒のソ満国境から灼熱のフィリピンに送られ、そこに置き去りにされた上に、完全に見殺しにされた。
戦場で戦友が死ぬと兵士はどういう行動をとるか。中内はいう。「すぐに死んだ兵隊の靴をぬがし、自分のととっかえて履くんですわ。古くなった自分の靴は水洗いして小さく刻み、飯盒で煮て食べる。飯盒を失ってからは、水にひたしてガムのように噛みつづけました」中内の歯が若い頃からすべて入れ歯なのは、このとき軍靴を噛み続けたためである。
中内は「フィリピンの野戦でいったん死線を通ってきたのが私の原体験」と口癖のようにいい、つづけて「人間は幸せに暮らしたいと常に考えています。幸せとは精神的なものと物質的なものとがありますが、まず物質的に飢えのない生活を実現していくことが、われわれ経済人の仕事ではないかと思います」と述べている。「人間の生活で最も大切なのは、詩でも俳句でもない。物質的に豊かさをもった社会こそ豊かな社会ではないか。好きなものが腹いっぱい食えるのが幸せです。観念より食べることが先です。動物的なものが満たされて、はじめて人間的なものがくると思ったわけです」
「ボクが助かったのはウジのおかげです。患部は腐って、そこにハエがたかる。卵をうみつけるものだから、すぐにウジがわく。そのウジが腐食部分を喰ってくれた。気持ちのいいもんではなかったが、ウジのおかげで、手も足もなんとか切断せずにすんだ」中内は傷口が癒えると、自分の軍刀でそこを切り開き、手榴弾の破片を摘出した。
中内がフィリピンで最初に配属となった大石正義陸軍中佐率いる一二一八部隊は、前出の市川の調べによれば、532名中389名の戦死者を出し、生存者は143名にすぎなかった。だが、中内を含む一二一八部隊の生存者はその後、別の部隊に配属がえとなり、中内が最終的に配属となった部隊の員数は6百名あまりだった。そのうち敗戦まで生き残ったのは、中内を含めわずか20名だけだった。
中内一家は約5年間にわたってブラックマーケットからうま味を吸い上げた。この「非合法時代」は、まさしく中内一家の「原資」蓄積過程そのものであり、中内一家が、その後のダイエーを含めた「合法時代」に突入するための欠くべからざるプロセスだった。
「‥ワシの後には大阪中の消費者がついとるんや、と思い直して、また仕入れに走った。つくる方が勝つか、売る方が勝つか。トコトン勝負したろやないか。安売りやとして生きていく腹が、本当に固まったのはあの頃だった。」
力が関西主婦連の本部をたずね、ことのいきさつを詳しく話すと、主婦連では大いに賛同し、この話を機関誌1ページを使って大きくとりあげてくれた。いままでこの問題を無視していた一般紙も、関西主婦連が動いたということで、メーカー対現金安売り問屋の問題を大きくとりあげるようになった。それから3日後、力に大阪府衛生部から呼び出しがかかった。衛生部の担当者がいうには、薬品の価格問題については衛生部はもう手を引く、あとは業界同士の話しあいでやってくれ、とのことだった。中内ダイエーが他の大手スーパーに比べ格段の注目を集めてきたのは、売上の爆発的拡大という経営上の数字もさることながら、マスコミを巧みに使ってそのつど時流の波に抜け目なく乗ってきたためでもある。一般大衆がいま何を求め、誰を敵視しているかを敏感にかぎわける「天才的時流屋」の嗅覚は、消費者団体をリードして新聞各紙まで味方につけた、この40年以上前の出来事にまで遡ることができる。
吉田ら小売業者たちの前に大きく立ちふさがったのは、生協運動と百貨店の目ざましい復興だった。商人に頼らない消費者の自立的配給機構の確立という目標をかかげ、戦域、地域に利用促進を図った生協運動は、戦中の1940年、全国で242組合、組合員数40万3000人、売上高も、その年の伊勢丹の売上高の3.3倍に相当する約7500万円にものぼったが、その後は、統制経済の強化と組合活動の弾圧により、ほとんどの消費組合が活動停止に追い込まれていた。敗戦から3ヶ月後の1945年11月、消費者運動の生みの親で,中内ともなにかとゆかりの深い賀川豊彦は、いちはやく日本協同組合同盟を結成し、48年11月には、生活協同組合法を成立させていた。その組織は全国で、50年、1118組合、組合員数221万人、55年には戦中のピークの8倍近くの1516組合、組合員数310万人と著しく伸び、員外利用まって、地域の小売業者をおびやかす存在となっていた。
日本NCRの名が日本の小売業者の一部で囁かれるようになったのは、53年12月、東京・青山で青果を扱っていた紀ノ国屋が、同社のキャッシュレジスターを入れ、同社の指導の下、日本におけるセルフサービス第一号店としてスタートを切ってからである。戦前、宮内庁御用達の「高級八百屋」だった紀ノ国屋が、アメリカ流のセルフサービスの店にリニューアルすることを決意したのは、1つはその立地条件のためだった。紀ノ国屋のある青山から表参道の広いとおりを進み原宿の駅を超えると、そこにはアメリカ軍人の宿舎の代々木ワシントン・ハイツの広大な敷地が広がっていた。64年の東京オリンピックで選手村として使われ、いまは代々木公園に生まれ変わったこの場所は、戦前は代々木練兵場があり、二、二六事件の青年将校たちもここで処刑された。ワシントンハイツに住むアメリカ軍人たちは、GHQ公衆衛生福祉局の指導によって化学肥料のみ使用して栽培したレタスなどの「洗浄野菜」を、東京都内で一番早く販売した紀ノ国屋を愛顧していた。その顧客の1人に、日本NCR現地法人社長のジョージ・ヘインズ夫人がいたことが、紀ノ国屋がセルフサービスの店にきりかえる直接のきっかけだった。
1956年3月10日、丸和フードセンターは、八幡製鉄病院内分配所に少し遅れてオープンした。肉,野菜、魚の生鮮3品をはじめ、瓶缶詰、味噌、醤油、油、ちり紙、コップ、石鹸にいたるまで置き、120坪の売り場面積をもったこの店は、アメリカ流スーパーの要件をすべて満たしたわが国最初のスーパーだった。
‥その後、日本NCRで開いた講習会にも必ずきた。中内さんはきまって一番前の席なんです。そこでノートを広げ、一心不乱に講師のいうことを逐一メモしていた」中内が並外れたメモ魔であることはよく知られている。その昔は、名刺の裏、タバコの空き箱、チリ紙、紙ナプキンまで、身のまわりにあるものをなんでもつかんでは、片っぱしからそれにメモした。
中内は見合いの席からして商売の都合ですっぽかし、一週間の予定で出かけた別府・阿蘇への新婚旅行も3日で切り上げて帰り、仕事をはじめるような男だった。神戸から別府航路で新婚旅行に出かけた中内夫妻は別府で地獄めぐりをしたあと、ホテルに泊まった。中内は新婚の妻に「きみはそこへ寝とれ」といって、別室に入った。気がつくと、中内がほうぼうにかけているらしい電話の声がする。しばらくすると客が現れ、襖ごしにクスリがとうのこうのという会話が聞こえた。客は入れかわりたちかわり8人も表れた。中内は新婚旅行先でも、商談をしていたのである。忙しさにかまけ、子供にも何一つ親らしいことをしてやれなかった。とりわけダイエー一号店がオープンしたときに生まれた長女の綾には、ずっと不憫な思いを抱いてきた。中内は、いまでもときどき小学校を皆勤賞で通した綾のランドセル姿を思い出して涙ぐむという。
神戸は賀川豊彦が心血を注いで育てあげた生協運動発祥の地である。神戸市民の間には戦前から、他の都市にはみられない消費に対する意識の高さがあった。加えて、神戸には種々雑多な外国人が渾然一体となって住んでいる。それだけに、どんな新しい物でも呑み込んで消化してしまう旺盛なエネルギーを兼ねそなえていた。逆にいえば、植民地的な性格を開港以来もたされてきたこの街は、流行に敏感でおっちょこちょい、新しいものなら何でも飛びつくという精神風土をもっていた。
吉田は将来、各地に散らばった「主婦の店」の各店舗を、ボランタリーチェーンにまとめあげる構想をもっていた。だが、「主婦の店」はこの時点ではまだ、各店同士のゆるい同志的結合体にすぎなかった。ボランタリーチェーンとは、任意連鎖店とも呼ばれ、同じ業種の小売店が経営的には独立しながら、商品の仕入れや販売促進などを共同で行う形態のことをいう。
セルフサービス方式をどこようりも早くとりいれる先見性をもちながら、明治生まれらしく、どこかいつも「商道」にこだわりつづけた吉田と、大正生まれで、若い頃は新聞記者を目指していた中内との差は、つまるところマス・メディアの利用法を心得ているかどうかの差だった。1960年代に澎湃として起きてきたわが国の「流通革命」の背景として、大量生産システムの確立、消費能力の向上、都市新中間層の増大などに代表される社会構造の変化、労働時間の短縮にともなう余暇時間の増加などがあげられる。だが、もう1つ忘れて成らないのは、マス・メディアと広告宣伝活動の急速な発達である。
牛肉は必ずスーパーの目玉商人になる。この中内の読みはズバリ的中した。三宮店の牛肉売り場の前は連日、黒山の客が押しかけ、その重圧で3ヶ月に1度ショーケースのぶあついガラスが割れ、肉を運ぶ三輪トラックは肉の重さで半年に一度はつぶれた。
生前、ウエテルは私にこう語っている。「オレは中内という男に心底ほれ込んだ。これまでの取引先を全部失ってダイエーに枝肉を卸したときには、中内と心中するつもりやった」その言葉にウソはなかった。
中内が牛肉の安売りをはじめた1959年当時、ダイエーの安売りに抗議する問屋やメーカーなどの業者団体はひきもきらなかった。中内はこれに対し、3宮店の事務所にこんな張り紙をして自らの姿勢を示した。<日用の生活必需品を最低の値段で消費者に提供するために、商人が精魂傾けて努力し、その努力の合理性が商品の売価を最低にできたという事が何で悪いのであろうか?>これは言うならば中内ダイエーの「宣言1つ」だった。この「価格破壊」宣言が消費者の圧倒的支持を集めたことは、その後のダイエーの倍倍ゲームの成長に象徴的に現れている。
欧米各地から約3000人の関係者が集まったその会場に、当時アメリカ大統領だったジョンFケネディから、次のような祝福のメッセージが届いた。アメリカとソ連の差はスーパーマーケットがあるかないかである。マス・マーチャンダイズ・メソッド(大量商品開発方式)こそ、アメリカの豊かな消費生活を支えるものであり、スーパーマーケットを通して豊かさが実現されていく社会こそ、全国民が願い求めている社会である。1時間で買えるバスケットの中身の違いこそ、米ソの違いである。中内はこのメッセージの一言一言に、目の前が開けていくように感じ、心のなかで「これだ。これこそ自分が進むべき道だ」という思いをかみしめ、感動で涙が出てきそうだったと告白している。
ロイヤルでは倉庫はカミサリー、会議室はコンファランスルームと呼ばなければならない。江頭にシャツをめくって腹をみせてもらったことがある。そこにはひきつれたような7つのメスの跡が生々しく残っていた。12指腸潰瘍、直腸潰瘍、胆石、胃潰瘍、盲腸、堪能壊疽、それに肝炎の手術跡だった。それらはすべて、メニュー開発のため、自らに課した1日10食という過重な試食がもたらしたものだった。胃は親指大、直腸も半分に切り取られ、それでもなおアメリカ流のファミリーレストランを日本に移植すべく、1日二本の浣腸を使用しながら試食に励む江頭の姿は、滑稽などという言葉を通りこして、むしろ凄絶だった。アメリカはそれほどまでに江頭をとらえていた。GHQの通訳あがりの藤田にとっても、米軍キャンプのコックあがりの江頭にとっても、アメリカは富と名声を、この手につかませてくれる夢の王国だった。そしてその2人に先行する形でアメリカ仕込みのスーパーを日本に移植した中内が、外食に関して2人に後れをとったのは、1つには、中内がこの次期スーパーの版図拡大にあまりにも忙しかったためだろう。
過重な労働と激しい心労が重なるせいだろうか、中内の周辺にいる社員は、中内に近ければ近いほど早く世を去っている。一度やめた鈴木をわざわざ愛媛まで行って遺留した牧原は、55歳で死去しているし、中内の神戸3中の同級生で、川崎製鉄から中内に引き抜かれてダイエー入りした加古豊彦(元・副会長)も、64歳で鬼籍に入った。私は生前の彼らの疲れきって土気色した顔を知っているだけに、中内ダイエーは彼らの「生血」を吸ってここまで巨大になったような気がしてならない。取締役人事室長に抜擢され、初のプロパー役員の誕生と話題になった80年当時、鈴木に会ったことがある。そのとき鈴木はこんなことをいった。「社長にこういわれたことがあります。オレは戦争で九死に一生を得た男だ。もし、水爆が落ちるようなことがあっても、オレと電信柱だけは立ている」その一言で、一生この人についていこうという気になったと、鈴木はいった。初期のダイエーが財務全般をみていた専務の力の学友たちによって支えられてきたとすれば、高度成長期のダイエーは、中内をカリスマと仰ぐ大卒定期採用組が、推進力の中核となった。
1965年にダイエーに入社し、V革戦士の中核メンバーの1人だった平山は、V革後のあまりにも露骨な「潤体制」への移行に反発して退社することになったが、入社した当時の中内の「カリスマ性」の大きさを、いまでも感動をもっておぼえている。「スルメが国内で品薄になったとき、僕は一計を案じて韓国から格安のスルメを輸入した。いまから二十五年以上も前のことで、当時の買い付け値は2億円もした。ところが荷が着いてみると、ほとんど全部にカビが生えとった。これじゃまったく売り物にならん。僕がクビを覚悟して、辞表をオヤジ(中内)のところへもっていくと、オヤジはたった一言『お前、ええ勉強したなあ。もう2度とこんな間違いはするなよ』といっただけだった。あれには涙がこぼれた。そしてこのオヤジにはどこまでもついていこうと思った」ダイエーの店頭も沸騰していたが、それを支える社員の気持ちもまた沸騰していた。
私はどんな質問にも理路整然と答える力の態度に、今日の基礎となる初期ダイエーは、中内功というイケイケ一本槍のアクセルと、中内力という合理的で冷静なブレーキとの絶妙なコンビネーションによって運行され、急成長の道に入る端緒をつかんだことをあらためて認識させられた。
私はいまでもいっているが、企業の方向づけは「衆議独裁」でいくべきだと思っている。論議は尽くしてもらうが、あくまで合議制ではない。最後の決は社長がとる。これが私の経営哲学だ。もう1つ、力と意見が合わなかったのは、私が「売上第一主義」で、売上がすべてを癒すという哲学をもっていたのに対し、彼は「安定成長」を主張した。この点でも、彼とは相容れなかった」衆議を尽くさせて、最後は独裁で決定する。ある意味で、独裁政治の最終形態ともいうべき「衆議独裁」制は、いまもかわらぬ中内の「経営哲学」となっている。