「国際政治」/高坂正崇/66年、中公新書
◆三〇年前に書かれたものだが、本質は時代を選ばない。国際社会と言えども国家で構成され、それを構成するのは人間である。人間の性質から国際社会のあり方を考える視点は有効である。従って、本書であげられる本質は、国内社会、企業社会でも十分に役立つ。1つの企業内にも正義は複数存在し、その中で平和を保つにはどうすべきか。1つの組織は、力、利益、価値の体系だ。そこには、やはりホッブズ的恐怖の状況があり、権威があり、人々はその国家(企業)の価値体系から離れて能力を発揮することはできない。
国際社会を日経新聞に置換えてみると面白い。終身雇用と年功序列で仕事のみが幸福と考える正義、自由で多様な個人の生き方を認める正義。正義は複数ある。世論(社員)に対する受容性は著しく低く、権威は失墜しており、「いっさいの悪は弱いことから生ずる」というルソーの言葉を実感させてくれる。こうなると冷戦は当然の結果であり、鉄のカーテンを作り封じ込めるしかないのである。勿論、共産主義者は部長であり、デスクである。ただ、国際社会と違う点は、地球外(企業外)に逃れることが可能なことだろう。
---
「戦争の原因をある特定の勢力に求め、それを除去することによって平和が得られるという善玉・悪玉的な考え方は、われわれ人間が行動力には勤勉でも、知的には怠惰な存在であることに原因している。昔から、困難な状況に直面したときの人間の態度は、いつも判で押したように同じであった。そんなとき人間は、いつも非難すべき悪い人間や悪いものを見出して、それを血祭にあげてきたのである。そしてそれは、二重の意味で人間の知的労働を省いてきた。まず、それは単純明快であった。次にそれは、普通の人々のほうは何も変化しなくてもよく、それまで通りの生活を続けることを可能にするものであった。…ドイツの皇帝カイザーとその軍国主義体制、ヒットラーとファシズム、資本主義、共産主義の新帝国主義などが悪玉にされ、それと戦うものが善玉を自認した。…こうして次々に悪玉が作られ、それを打破った善玉が次々に期待を裏切ったことは、善玉・悪玉的な考え方をゆさぶってきた。」
「国家は、力の体系であり利益の体系であると同時に、価値の体系でもある。我々は自分の欲する行動をとって生活している。しかし、それが社会に混乱をもたらさず、多くの人とのつながり保っていくことができるのは、そこに共通の行動様式と価値体系という目に見えない糸が、我々を結びつけているからなのである。…国際社会にはいくつもの正義がある。だからそこで語られる正義は特定の正義でしかない。…各国家は力の体系であり、利益の体系であり、そして価値の体系である。従って、国家間の関係はこの三つのレベルの関係が絡み合った複雑な関係である。国家間の平和の問題を困難なものとしているのは、それがこの三つのレベルの複合物だということなのである。しかし、昔から平和について論ずるとき、人々はその1つのレベルだけに目を注いできた。」
「ホッブズ的恐怖の状況 極限的情挙において考えた場合、軍備縮小はその根幹に、イギリスの歴史家ハーバード・バターフィールドが『ホッブズ的恐怖の状況』と名付けたジレンマを持っていることがわかる。人々の行動を管理する権威のない自然状態において、人々がいかに恐怖によって動かされるかは、ホッブスがあざやかに分析したところであるが、同様の問題をバターフィールドは国家間の関係にも見出す。ここに、おたがいにあまり好意を持っていない2人の人間が、それぞれピストルを持って部屋のなかに閉込められていたとする。この場合、その1人があなたであったとして、2人はともにピストルを窓から投出せば、殺し合いの危険を除去することができるということは知っている。しかし、どうしてそうすることができるのかがわからない、もしあなたが先にピストルを窓の外に投出したならば、相手はなにも自分のピストルを捨てなくても自分は安全だから、約束を破ってピストルを捨てないかもしれない。たとえ同時にピストルを捨てる約束をしても、自分は正直に投げるが、相手は投げるかっこうだけしてほんとに投げないかもしれない。また相手はポケットにもう1つのピストルをかくしているかもしれない。しかも相手もまた、あなたが同じような裏切りをするかもしれないと疑っていることもありうる。こうして、2人ともピストルを放り出してしまえばよいことを知りながら、それを実行することができないで、不安な状況が続くということになるのである。…つまり人間は、将来を予見することができるために、お互いがお互いを恐れる状況、すなわち、お互いがお互いを傷つけうる能力を持ち、それゆえに傷つける意図を持つという状況において、その能力を除去して相互の恐怖をなくするという単純な方法を実行することができないのである。」
「ミュルダールは、福祉国家の理念を国民国家の境界を越えて世界に適用し、福祉世界を建設する必要を説いた。少数の富めるものと多数の貧しいものへの社会の分裂というマルクスの予言は、国内社会についてははずれたのに、より大きな規模において、すなわち、世界全体を舞台として実現しつつあるようにさえ思われると彼は言う。富める国と貧しい国とのあいだの格差は恐るべきものであり、しかもさらに拡大しつつある。だから、かつて資本主義社会の貧富の問題を解決する手段となった福祉国家の理念を、世界に適用しなければならないというのである。…その場合、各国のエゴイズムが障害となって現れてくる。人は自分を豊かにしようと思って働くので、他人のために働くのではない。正確に言えば、人は自分が他人よりも豊かになろうとして働く。それだからこそ、人はいかに豊かになっても、さらに豊かになろうとするのである。経済交流が平和をもたらすという考え方に批判的であったルソーの、第2の論点はここにあった。彼は人間の情欲と呼ばれるものを自愛心と自尊心の2つに分けた。自愛心はみずからの生命を保存しようとする心であり、自然で善いものである。それは『自身にのみ関するものだから、我々自身の必要を満たすだけで満足する』しかし、人間は自己と他人とを比較する自尊心を持っている。それは決して満足しないし、また、満足するはずがないのである。子供は生れつきは自愛心しか持っていない。しかし彼の人間関係が拡大するにつれて、自尊心が生れる。…不幸にして人間がそうであるように、国家もまた、自愛心によってではなく、自尊心によって動く。ルソーは国家間のやむことなき権力闘争の原因をここに求めた。」
「南北問題との関連において、先進国と発展途上国とをあわせて考えてみると、そこに一見矛盾した事情が存在することがわかる。すなわち経済活動という、人間の極めて重要な活動を規制するものとしての国家は、先進諸国の場合には強すぎることが問題であり、発展途上国の場合には弱すぎることが問題なのである。そのことは、国民主義が野放しにされてはならないことを示すと同時に、国家の必要性が厳然として存在することを明らかにしていると言えるであろう。人々はその国家の価値体系から離れて能力を発揮することはできないからである。」
「世論の力が平和を守ると言切ることができるほど世論の力は強くもないし、またそれほどその機能は単純ではない。この場合、世論の正しさと有効性を信ずる考え方が、強制力ある国際機構によって平和の問題を解こうとする考え方の対極をなすものとして、人々が犯しやすい誤りであることは注意しておく必要がある。そのもっとも代表的な主張者はベンサムで、彼は世論への信念から国際機構を作る必要を否定し、ただ仲裁裁判をおこなう法廷を設置することだけを説いた。しかも彼はこの裁判の決定を強制するために力は必要でなく、ただ事実を報道する新聞の自由さえあれば、世論の圧力が裁判所の決定をおこなわせるだろうと考えたのである。こうした彼の楽観主義は、彼の著書『永遠平和計画』の書き出しにはっきりと現れている。『目的は永遠世界平和であり、著者が目指す支配の範囲は地球全体であり、そして新聞が彼の用いる唯一の力である』」
「実際、世論の力がそれだけで問題を解決したトルコ・シリア間の緊張、エジプト・スーダン間の国境紛争はきわめて例外的な場合である。スエズ危機にしても、世論は問題の解決を大いに助けたけれども、それだけが危機を解消させたわけではないことはすでに述べた。疑いもなく、国際連合における討議は実力を背景にした権力政治にとってかわるものではないのである。しかし、そのことは国際連合とそこに表明される世論の役割がとるにたらぬものであるということではない。確実なところ、それは2つのきわめて重要な役割を果している。1つは諸国家のあいだ、とくに対立する国家のあいだのコミュニケーションをつねに保つことである。この機能はとくに米ソの緊張緩和にとっておおいに役だった。…フルシチョフは、キューバに向うソ連の輸送船を引返させたが、この譲歩が可能となったのは、それが国際連合の呼びかけに応ずるという形でなされることができ、したがって面目をあまり失わずにすむことができたからである。また彼は、キューバからミサイルを撤去することを求めるケネディの要求に応じたときも、キューバ危機における勝利者は平和を求める世界の世論であったと述べて、その面目を保つことができた。」
「世論に対する受容性 それでは、世論は国家を強制する力をまったく持っていないのだろうか。そう考えることは明らかに間違っている。…じっさい、国際問題の公開討議は問題解決への圧力として作用するから意味があるのであって、合意を得るという見地から言えば、多くの批判者たちが指摘しているように、かえってマイナスとなるのである。外交交渉は異なった立場のあいだの妥協を求める取引であり、それは公衆の監視のなかでは容易でない。なぜなら、取引においては、当事者たちがその立場を固執しないことが必要であるのに、公衆の前ではいったんとった立場を変えることは難しいからである。それに合意を得るかわりに相手を非難するという誘惑がいつも働く。このことからモーゲンソーは外交が宣伝戦に退化したと述べたし、ケナンやチャーチルなど、伝統的な秘密交渉をおこなうことを説いた人は多い。…世論を有効ならしめる要因として、各国が世論を尊重するかどうかということが問題になってくる。それは世論に対する受容性と言ってもよい。この世論に対する受容性を決定するものとして、まずその国の政治体制が問題になってくる。そして、言論の自由が許され、政府の行動に対する批判が可能な国とそうでない国とでは、前者のほうが受容性が高いことは明らかである。」
「ベンサムのような19世紀の思想家たちは、世論を理性的合理的なものと考え、それゆえに世論の力の強まりが平和を保障すると信ずることができた。しかし、実際に世論の力が強まってくるにつれて、人々はそれが必ずしも理性的合理的なものではないことに気づかざるを得なかった。それはたとえば、『威信』という言葉が19世紀半ばあたりからしだいに使われ始めたことに現れている。…とくにヒットラーの成功は世論の合理性を信ずる人々に対して壊滅的打撃を与えた。合理的説得は、力の誇示とシンボルの利用を主軸としたヒットラーのナチ運動の前にもろくも崩れさったのである。19世紀末、フロイトは人間の行動を最も強く支配するものは意識的なものではなくて、下意識と呼ばれる非合理的なものだと主張した。社会学者パレートは、政治において最も重要なのは、神話によって代表される『非論理的行動』であると述べた。彼らの理論は歴史によって実証されたのである。」
「一見同じように見えるものが、一方は権威を持ち、もう一方は権威を持っていないのである。この権威の微妙で捉えにくい性格は、おそらく権威というものが、権威を持つものと権威を感ずるものとの相互関係に根ざすことに原因するように思われる。権威authority という言葉は、発言者authorty という言葉と関連しているように、ある言葉に対して人を従わせる力を与えるものである。ある問題に関する権威者の発言は、一般の人の発言よりも重んじられる。この場合、その権威はある程度までその発言者の置かれた地位にもとづくものである。人間の世界には、大学や裁判所のように制度化された権威が存在する。その地位にある人の言葉に人々は耳を傾ける。政府は、そのもっとも大きなものであり、強制力の裏づけを持っている点が異なっている。しかし角度を変えて見れば、権威ある地位から発せられる言葉に人々が従うのは、人々がその権威ある地位を認め、それに従う心構えを持っているからである。『すべての権威は人々の心のなかで生まれ、心のなかで死ぬ』という言葉はそのことを示している。従って、権威とは現代の代表的な哲学者ハンナ・アレントが述べているように、実力の行使でもなければ説得による同意でもない、その中間のなにものかである。実力が使用されるのは、人々が権威に従わなかったからであり、言葉をかえて言えば権威が失墜したからであるのだから、実力が使用されること自体が権威の失墜を示している。…こうして、国際連合の権威はそれを構成する国が国際連合に対して抱く態度の反映である。」
「シュンペーターは資本主義が侵略的好戦的であるとは考えず、逆に、反帝国主義的であると考える。なぜなら、資本主義の生活様式を見るならば、そこで指導的役割を果している人々はブルジョワジー、産業的金融的事務家、知識階級、法律家、医者などで、その仕事は戦争と関係がない、そして彼らの間で競争が行われている以上、彼らは全精力を経済活動に傾けざるを得ない。これまで戦争のために捧げられていた精力でさえも、労働のために捧げなくてはならないようになる。当然、征服戦と対外的冒険主義とは厄介な妨害物と考えられるようになるであろう。しかし資本主義社会には、その前の社会に存在した戦争のための機構や戦争のための階級、すなわち貴族が残っている。それらが帝国主義をおこすのであると彼は説いた。」
「ルソーは、世界平和は相互に独立し、あまり交流を持たない孤立する状況でしか生まれないと説いた。明らかにその理想状態は、現在の世界では実現しそうもない。しかし、第2章で見当したような交流の危険を考え、南北問題の解決が諸国家の融合によってではなく、逆に諸国家の独立性の回復または維持によってなされることを考えると、ルソーの理想境はここに俄然現実味を帯びてくる。また、第一章における検討も、第三章における検討も、諸国家の主権の否定が問題を解決しえないことを示した。すなわち、自己の問題は自国のなかで解決すること、他国を羨望しないことは、平和な国家の重要な条件なのである。『エミール』のなかでもルソーは語っている。『いっさいの悪は弱いことから生ずるものだ。子供は弱くなければ悪くない。強くしてやれば善くなる。何事でも出来る人は決して悪いことをするはずがない』たしかに、自国の経済を運営することができず、自国の独立を守ることができない国は、他国に積極的に危害を加えることができないにもかかわらず、混乱と戦争の原因になってきたし、今もなおその事情は変っていないのである。もちろん、経済的にも軍事的にも、孤立的な独立は問題にならない。しかし、相互依存と独立は決して矛盾しないのである。」
「国際政治においては、対立の真の原因を求め、除去しようとしても、それは果てしない議論を生むだけで、肝心の対立を解決することにはならないのである。それよりは対立の現象を力の闘争として、あえて極めて皮相的に捉えて、それに対処していくほうが賢明なのである。それは例えば、医術でいう対症療法と似ていると言えるかもしれない。」
「チャーチルも同じような考え方の上に立って、冷戦のはじまりにあたって、境界線の固定化に努力することを説いている。『世界が分割されているよりは、統一されているほうがよい。しかし、世界が破壊されるよりは分割されているほうがまだしもよい。そしてまた、たとえ世界が分割されていても、それは年がたつにつれて、統一しようという努力が一層進められるような、均衡状態が到来しないということにはならない。どんなことでも、ヨーロッパの中心部の自体がとめどもなく悪化していくよりはましである』」
「したがって残された道は、各国が自己の理念と利益を守りながら、その行動を通じて国際法を作り、国際連合の権威を高めていくことでしかない。」