「殺される側の論理」/本多勝一/1982年/初版71年

◆本多氏の民族主義的思想が色濃く出ている。私も同感するところが多い。2度とMasahiro Watanabeなどと記さないようにしたい。確かにトウ・ショウヘイは、外国でもショウヘイ・トウではない。

 アメリカの正義が、殺される側から見ていかに不当なものであるか。弱者の権利は、常に強者によって踏みにじられ、正義と民主主義の名の下に合法的に侵略されてきた。これは誰もが認めざるを得ない事実だ。現代の日本だろうが世界だろうが、「法律で決まったことだから」などという奴がまだいる。そういう人には、合法的な悪の方が返って始末に終えないことを、この本を読んで知って欲しい。

 2度と惨劇を繰り返さないためには反省が必要だが、それどころかキッシンジャーにノーベル平和賞まで出てしまうことに疑念を感じるのはわかる。ただ、清すぎる水には魚は住めず、大人物の多くが清濁併せ呑める人材であったことも、歴史が証明しているのである。正義を徹底するあまり、本多氏の描く理想社会の実現に、返って遠回りになっているように思えてならない。精神には極めて共鳴するのだが…。

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「ニクソンに到って、世界はようやくヒトラーとこの大統領とを比べるようになったが、先住民から見れば、ワシントン条約以来、きわめて少数の例外を除くと、合衆国大統領は終始ヒトラーの連続であった」

「アメリカが保護したのは、日本人という人間ではなくて、古都の建物や庭石だったのだ。…もちろん私は、この古都の『保護』を熱心に推奨したといわれるアメリカ人ウォナー博士の善意を疑うものではありません。ただ、当人が自分の『善意』の正体に気付かないだけなのです。」

「黒人回教団の『白人は地上に厄災をもたらすべく悪魔として創造された』という説を、私が広めようとしている意図は、ありません。…犯人の自白でも提出せよというのでしょうが、ベトナム人の耳を切り取って『記念品』にすることが一般化している現象などではまだ『証拠』不足なのでしょうか。『夕陽に向かって走れ』という最近のアメリカ映画をごらんなさい。アメリカ先住民の死体を焼いてしまった保安官に対して、『記念品』を失ったと責める白人たちが描かれています。」

「アメリカ人は『12才』ではなくて、『大人』だと思った。(のちに知ったことだが、アメリカ合州国の、少なくとも経済的に中クラス以上の市民については、この次元の誠実さは世界一だと思う。ヨーロッパやアジアなどの諸国と具体的に比べてそう思う。)」

「学生のころ、カラコラムやヒンズークシなどへ探検に2回行ったこと、探検部にいたことなどから、私は日本の学術探検が行われる場合の舞台裏をかなり見てきました」

「なにしろ『マタイ伝』で保証されたかのように見えるManifest Destiny(マタイ伝28章16以下)がある。だがもっと本質的な性格として、西欧の世界侵略との関係があります。…そのように使命感に溢れた宣教師。」

「たとえばビアフラのイポ族などは、ナイジェリア近辺での黒人奴隷貿易における仲介人的役割を果たしていた。だが『従ってヨーロッパ人にはすべての罪があるわけではない』と逃げるとしたら、奴隷たちは何と叫ぶだろうか。奴隷たちは、『売られたい』と思ったわけでは、もちろんない。『黒人売りたいと言った』というとき、それは正確には『黒人の中の、金儲けのできるひとにぎりの支配層が、他の大多数の黒人を売りたいと言った』とすべきなのだ。このアメリカ人教師のカッカとして答えた論理こそ、正に『整理する者』の典型的論理である。…探検は『現地もまた探検されたがっている』ことになってしまう。…真に住民の立場を代表するものでないかいらいが、いかに『探検されたい』と意思表示したところで、それは宗主国の勝手な政策を強行するのに役立つ以外に、一般住民にとっては何の意味もない。」

「探検素材論…『別の次元』について常に考慮しながら、素材をそれと関連させて生かすべきなのだ。常に問題意識を持って素材を作るのでなければ、それは善用よりも悪用される。」

「象徴的な実例が、北極点初到達のベアリーです。極点に立つまでの過程で、エスキモーたちをよく利用したことは仕方がないでしょう。そして極点に立ったとき、『アメリカ人』は確かに2人いました。1人は白人のベアリー。もう1人は黒人。…よく言えばベアリーの助手、悪くいえば奴隷として行っただけだからです。…エベレスト初登頂のヒラリーと、ネパール人シェルパのテンジンについても、ベアリーと黒人の関係は当てはまります。」

「自分たちのことを意味する自称として『人間』(アイヌ)という単語が使われた時、そこには誇りの感情こそあれ、もともと軽蔑の意味は微塵も含まれてはいなかったはずだ。」

「いわゆる文明国としてのアメリカやカナダの少数民族の方が、いわゆる後進国としてのインドネシアやパキスタン・ネパールなどの少数民族よりも不幸な状態にあることを知った。…はたして『文明が進むほど』少数民族が不幸になるのか。それとも別の原則があるのだろうか。」

「オリの中へ閉じ込めておいて、それまでの彼等の天下だった広い土地を強引に『購入』するやり方。アメリカにおける先住民に対するだましうちと何ら変わるところはない。もちろんそれは『何の法律違反もありません』に決まっている。法律は、常に支配者のために作られてきた。」

「殺人も強盗も、もし『手続き』さえ整っていれば『合法的』であり、法的にはちっとも悪いことではない。ニクソン氏がハノイの一般市民にB52のじゅうたん爆撃を命じて残酷きわまる大量虐殺をを犯しても、それはアメリカ合州国内のさまざまな手続き上『合法的』だから、ちっとも犯罪にはならない。…ニクソン氏は大量虐殺を実行する際、たいへん『合法的』な手続きを踏んでいた。・・ニクソン氏や佐藤栄作氏が『法と秩序』などというと、もう劇画の主人公みたいに『ガハハハ』と笑う以外になすすべもない。」

「げんに中国人も朝鮮人もベトナム人もカンボジア人も、外国へ行こうと外国語の文章中であろうと、氏名をひっくりかえしたりはしない。毛沢東はイギリス語の中でも毛沢東であって、『沢東毛』では断じてない。(ただし氏が先であることを『名氏』の国の人にもわかるように、私は氏を大文字で書くことにしている。)…ついでにいえば、住所もたとえば東京都千代田区有楽町・・・と大分類順に書くのが日本式であり、これも中国やベトナムその他、非ヨーロッパ諸国にたいへん多い。イギリス式やフランス式に小分類順に書くのは、単純に考えても明らかに不合理だ。普通の文章は上から読むのに、いったいどうして住所だけ下から読まされるんですか。」

「さて、このたび、その合衆国のキッシンジャー氏、あのB52によるハノイ市絨毯爆撃・大虐殺に最も貢献したキッシンジャー氏に、こともあろうにノーベル『平和』賞が決定した。私は心底から『おめでとう』を言いたい。なぜなら、ノーベル賞というものがいかに愚劣きわまるものかを、大衆に理解されるためにこれは大変役立つからである。・・・もともと『賞』というものはすべて基本的に愚劣なのだろう。その中でも特に愚劣なノーベル賞は、かくのごとく、言語的・文化的には『人種差別賞』であり、平和に関しては逆に『侵略賞』である。こんなものに断じて幻想を抱いてはならない。」

「5月13日、元社会党代議士・稲村隆一氏(80歳)は、8年前に自分が受賞した『君2等瑞宝賞』を政府に返上することを明らかにした。笹川氏への『勲1等』は『国民を愚ろうしている』と怒っている。当然である。」

「と、このように私が申しましても、『それでもやっぱり、天皇陛下や靖国神社はありがたい』と答える人も、もちろんあると思います。理屈ではなくて、もはや感情だけしかないのですから。恐ろしいことです。ここまで完全にだますためには、明治元年以来百年の教育がありました。100年間もたたきこまれた教育の成果を、しかもまだ続けられている教育(今度の天皇訪欧中のテレビや、新聞の報道=教育=をごらん下さい)を一挙にひっくりかえすことなどは、権力を持たない『殺される側』の力では、まだ当分は困難でしょう。靖国神社問題を考える時、この最も素朴な原点としての『世界的に珍しい未開な迷信』にたちかえることも重要です。」

「いったいどうして、沖縄と真珠湾が対立する命題になるのでしょうか。『原爆を忘れるな』と日本人が叫ぶと、やはり一般的なアメリカ人は『真珠湾を忘れるな』と、これも対抗して叫ぶでしょう。…互いに際限なく懺悔を繰り返すことになる。また、この場合『総懺悔』したところで少しも解決にはなりません。問題は『今後こういうことをやらせぬ』ことにある。…対立すべきは、国民対国民、あるいは民族対民族、人種対人種ではないのだ。戦争によってトクをした奴と、犠牲になった側。これこそが対立するのでなければならない。」

「靖国神社法案や、それに続く同じような反動政策を阻止する最も大きな力は何か。それは犠牲にされてきた階級、殺される側同士が、国の内外を問わず、かたく連帯し、団結して、共通の敵、真の敵に当たることだと思います。ホーチミンがよく歌ったという『団結の歌』は『団結が固ければ固いほど勝利は大きい。分裂がひどいほど敗北も大きい』とうたっています。」