「殺す側の論理」/本多勝一/84年、朝日文庫(初版72年)

 本多氏のいう「貧困なる精神」が何かがよくわかる一冊。昨今「政治的に正しいおとぎ話」が米国で発売され話題となったが、その矛盾点を20年前から当然のように指摘しているところがすごい。

 本書では途中、イダヤベンダサンとのあまり生産的でない言葉遊びに多くを割いているが、光る指摘も多い。戦争の責任は、民族として負うべきなのか。「人間は生まれる場所も生まれる時も選ぶことが出来ないが故に歴史に対して責任がある、と考えうる時はじめて人間が『人間』になる」…。うーむ、哲学的な問題だ。生まれた時の定めは、誰にも変えられない。

 それにしても、本多氏のゼンゲン(部内慰安旅行の名称で、海軍が一斉に陸に引き上げて休みをとること)に対するコメントを是非とも聞きたいところだ。ゼンゲンという帝国海軍のイベントは、朝日でも日経でも、連綿と続けられている。これこそ、アジアに『日本の軍国主義復活』を恐れさせるのではないか。

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「ふつう、私は『本から生まれた本』に良いものは少ないと思っています。机の上でさまざまな文献をあさることによって作り出される本には、魂をゆり動かすような迫力のあるものは少ない。巨大な影響力を示す本は、たいていは何らかの形で実践を背景にしているか、あるいは生きている対象、書物ではない現象や事物の調査による第一次資料を背景にしているものです。」

「私が最初に疑問を抱いたのは、子供の絵本で読んだ『みにくいアヒルの子』です。…『火打箱』、『白鳥』『ユダヤ娘』『かたわもの』『親指姫』…作品に一貫して流れている基調は『醜い者には汚い心、美しい者には美しい心』という恐るべき差別思想と、王様を賛美し、貧乏人は現状に甘んずるのを美徳とする典型的反動思想であります。そして『醜い・美しい』の判定は、すべて俗物的常識にしたがったアンデルセンの基準にほかなりません。アヒルやモグラやカエルは醜くて、ツバメや白鳥やチョウチョは美しく、したがって心の美醜もその通りなのです。最も許せないのは、アヒルは生涯アヒルであることの哀しみを、1かけらも理解していないことであります。アヒルの中の変種だと思ったら白鳥だった、乞食だと思ったら王子だった、といった正に『おめでたい』お話が充満している。現実に乞食である人、現実に醜い者、とうてい回復しえない身障者の心を、この男は考えたことがあるのでしょうか。かれらに『あきらめろ、夢でも見ておれ』と残酷に叫んでいるのが、このたくさんの作品群なのです。」

「どの民族(あるいはどの国)は常に残虐で、どの民族は常に決して残虐行為・侵略行為をしたことがない、といったことはありえない。すなわち、侵略を『する側』になるやいなや、いかなる民族も残虐非道の鬼になりうる点で、人類は共通の性格を持っている。しかし、民族によって異なる歴史はもちろん、異なる性格がかなりあることをも、他方では認めざるをえない。日本の近代史・現代史をみるとき、その意味での著しい特徴のひとつは、自らの力で体制を根底からくつがえしたことが一度もないという点にあろう。」

「本多様は『天皇制などというものは、シャーマニズムから来ている未開野蛮なしろもの』…本多様は、ユダヤ人のみならずセム族一般の習俗である割礼も同様にお考えになりますか?…私が絶対にその考え方に承服できないのは、それがナチスの論理だからです。…私の考えでは、自分の考え方を最も進んだものと勝手に自己規定し、それに適合せぬものを『消えてなくならねばならぬ』と一方的に断定する本多ナチズムこそ野蛮です。」

「私にとってもっとも啓発的であると思われる古いアフリカのことわざがある。それは、私の敵の敵対者は、私にとって友人であるという言葉だ。…(マルコムX『いかなる手段をとろうとも』)」(→絶対主義時代のヨーロッパと同じ考え)

「その後大学までずっと理科系ですごしてきましたが、少年時代の関心時だった分野での学者にはならず、かなり偶然性の高い動機によって、たまたま新聞記者になりました。」

「『日本人とユダヤ人』が空前ともいえる大ベストセラーであること。先日の週刊誌によれば、120万部に達しているそうです。」

(◆ブラント氏と本多氏の見解について)

「このあいさつを読み返した時、私は、西独のブラント首相を思いました。…氏は反ナチの闘士でした。…氏がもし戦時中ナチに捕えられたら、ワルシャワのユダヤ人以上に残酷な拷問をうけた上で虐殺されたことは疑いの余地がありません。…もう1つ例を挙げます。ナチが降伏した直後、強制収容所から解放されたドイツ人がおります。その中に有名な『ドイツ教会闘争』すなわち反ナチ闘争をしてきた人びとがおりました。…ところが、解放されたこの人びとの第一声は、『全世界への謝罪』でした。ブラント氏の態度も同じです。」

「本多勝一氏………責任がないから謝罪しない

 教会闘争の人びととブラント氏………責任がないが故に謝罪する」

「これは日本人にとって、疑問の余地のない、微動だにしないかっこたる考え方です。一種の哲学、あるいは宗教的信仰とさえいえるほど、断固としてこれが信じ切れるには、これに『無意識の前提』があるはずです。…この『贖罪』という思想は非常に古く、おそらくは旧約聖書の資料にまでさかのぼりますが、これを1つの思想として明確にしたのは第二イザヤでしょう。…簡単には要約できませんが、その中の特徴的な考え方の1つは、『人は他人の罪責を負うことができる』という考え方です。一見奇妙な考え方と思われるかも知れません。しかしこの罪責を栄誉と置き換えて見れば、人はみな当然のことのように他人(先人も含めて)の栄誉をにない、本多様とて例外でないことにお気づきでしょう。本多様は、砂漠にただ1人、自生されたわけではありますまい。20世紀の日本という社会に生まれ、何の権利もないのに、その社会の恵沢と栄誉を、当然のこととして負うておられます。従って本多様が『幼児であったから』『責任がない』といわれるなら、日本の伝統的文化、それに続く現代社会の恵沢と栄誉を受ける権利も放棄されたことになります。責任を拒否したものに権利はありますまい。人間は生まれる場所も生まれる時も選ぶことが出来ないが故に歴史に対して責任がある、と考えうる時はじめて人間が『人間』になるのであって、『おれは生まれた場所も時も自分で選んだのではないから責任はない』といえば、これは獣に等しいはずですが、そう考えること自体が、実は、恵沢を受けている証拠なのですから、この態度は『栄誉と恵沢は当然のこととして受けるが、罪責を負うことは拒否する』ということになります。少なくとも聖書の世界では、これを最も恥ずべき態度と考えますので、ブラント氏がもしワルシャワで本多式のあいさつをしたら、すべての人が彼に背を向けたでしょう。なぜならこれは『財産は相統するが、負債はおれには関係がない、なぜならその借金は、おれの幼児の時のもので、当時何も知らなかったからだ』と言うに等しいからです。…氏はワルシャワの血に対して責任がないがゆえに謝罪し、謝罪することによって、自分に罪を負わせた者を同胞と呼ぶことができ、かつ同胞として糾弾する権利があるわけです。そしてこれによってその民族は、その遺産とともに負債(罪責)も継承して行きます。」

→DNAは生き続ける。利己的な遺伝子。しかし、記憶は途切れるのだ。

「そして中国にとって『日本の軍国主義復活』よりも恐ろしいのはこの考え方でしょう。というのは一定の時間がたつだけで、自動的に全日本人に責任がなくなってしまうのですから。」

「しかし人間がだれかの責任を追及できるなら、それはその権利を有する人に限られるはずです。」

「元来日本教徒には『争いはそれ自体罪悪である』という断固とした哲学がありました。これは非常に面白い思想です。正義と不義との争いなどという考えは一切受け入れないーー何はともあれ『争うこと』が不義なのだ、という考えです。『喧嘩両成敗』という考え方はこれに起因し、また『勝てば官軍』も、このことへの非常にアイロニカルな表現であり、義軍は存在しないということでしょう。『争いはそれ自体罪悪である』という考え方からは、聖戦とか義戦とかいった考え方ーーいわば十字軍的な考え方は一切出てきません。」

「原稿というものは、発表以前に編集部以外の第3者には見せないことが、ちゃんとしたジャーナリズムの世界では原則とされている。」

「…次の条件で取材に応じる。(イ)テレビやラジオであれば、編集されたものを放送前に見させる。(聞かさせる。)(ロ)新聞や雑誌であれば、ゲラ刷りの段階で検閲する。…」

「ライターたちは、ホサレルことがこわさに、編集者に直接おべっかを使い、あるいは『キライだ』と叫ぶ一方で色目を使い、要するに断固たる拒否の姿勢はとらず、のらくらして、結局はお座敷がかかるのを待っている。しかもなるべく大きな、なるべく『権威』ある出版社からのお座敷を喜ぶ。…日本の出版やジャーナリズムの世界は、他の業界に比べても前近代的であることは定評がある。」