「君主論」/マキアヴェリ/1513年執筆、32年発刊。池田廉訳、中央公論社

◆政治には、理想と現実がある。政治は、人間の集まる組織ならどこにでも存在する。もちろん企業にもある。現実の世界を操るために何が必要なのか。本書はそれを教えてくれる。哲学者クローチェが本書に与えた意味が、最も的確であろう。「道徳的な善悪ではなく、道徳を超えた政治の自律性、マキアヴェリはその必然の理を発見した。この世界から悪魔払いのお浄めで、政治を締め出そうと望んでも、政治にはそれを許さない法則があることを、彼ははっきりと認識した。これが、この書物の底に一貫して流れる思想である」。

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八 「シチリアのアガトクレスは、一介の市民の立場から、しかも、はなはだ卑賊の身から、ついにシラクーザの王となった。壺作りの子に生まれたこの男は、人生の節目ふしめに、非道な生き方をつらぬいた。だが、彼の非道ぶりには、心身両面の気概がつきまとったので、いざ軍隊にはいると、とんとん拍子に階級があがって、シラクーザの軍司令官にまでのぼりつめた。さて、この地位に収まると、いずれは君主になって、これまでは、他人の承認をもらってしか動けなかったものを、だれの援助も借りず、力によって強引に抑えようと決心した。まず、カルタゴのハミルカルが軍勢を率いてシチリアに攻めかかってきたので、アガトクレスはみずからの計略の内諾をハミルカルから得たうえで、ある朝、国政にかかわる審議があると思い込ませて、シラクーザの市民や元老院を召集した。そこで、かねて打ち合わせてあった合図1つで、すべての元老院議員ともっとも富裕な市民を部下の兵士の手でみな殺しにしてしまった。殺りくが済むと、彼は町を占拠して、なんら市民の抵抗にもあわずに、この都市の君主の座についた。」

「両者の差異の原因は、残酷さがへたに使われたか、りっぱに使われたかの違いから生じると、私は思う。ところで、残酷さがりっぱに使われたーー悪についても、りっぱに、などのことば遣いを許していただければーー、それは自分の立場を守る必要上、いっきょに残酷さを用いても、そののちそれに固執せず、できるかぎり臣下の利益になる方法に転換した場合をいう。一方、へたに使われたとは、最初に残酷さを小出しにして、時がたつにつれて、やめるどころかますます激しく行使する場合をさす。第一の方式を尊重していく者は、アガトレクスに恵みがあったように、神と民衆の助けが得られ、国の保持に適切な対策を講じることができる。だが第2の場合は、国の維持はむりになろう。このことからも、心に留めるべきは、ある国を奪い取るとき、征服者はとうぜんやるべき加害行為を決然としてやることで、しかもそのすべてを一気か成におこない、日々それを蒸し返さないことだ。さらに、蒸し返さないことで人心を安らかにし、恩義をほどこして民心を掴まなくてはいけない。とかく臆病風に吹かれたり、誤った助言に従ったりして、逆のことをやってしまうと、その人は必然的に、いつも手から短剣を放せなくなる。」 

一五 「なにごとにつけても、善い行いをすると広言する人間は、よからぬ多数の人々のなかにあって、破滅せざるをえない。したがって、自分の身を守ろうする君主は、よくない人間にもなれることを、習い覚える必要がある。そして、この態度を、必要に応じて使ったり、使わなかったりしなくてはならない。」 

「君主たるものは用心深く、地位を奪われかねない悪徳の汚名だけは、避ける必要がある。しかも、君位を奪われる憂いとは縁のなさそうな悪評についても、避ける必要がある。もっとも、後者については、むりであれば、それほど気にせず、成り行きにまかせるのがいい。しかしながら、1つの悪徳を行使しなくては、政権の存亡にかかわる容易ならざるばあいには、悪徳の評判など、かまわず受けるがよい。というのは、全体的によくよく考えてみれば、たとえ美徳と見えても、これをやっていくと身の破滅に通じることがあり、たほう、一見、悪徳のようにみえても、それを行うことで、みずからの安全と繁栄がもたらされる場合があるからだ。」 

「偉さや気高い心に惹き付けられてでなく、値段で買取られた友情は、ただそれだけのもので、いつまでも友情があるわけではなく、すわというときの当てにはならない。たほう、人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を、容赦なく傷つけるものである。その理由は、人間はもともと邪まなものであるから、ただ恩義の絆で結ばれた愛情などは、自分の利害のからむ機会がやってくれば、たちまち断ち切ってしまう。ところが、恐れている人については、処刑の恐怖がつきまとうから、あなたは見離されることがない。ともかく、君主は、たとえ愛されなくてもいいが、人から恨みを受けることがなく、しかも恐れられる存在でなければならない。なお、恨みを買わないことと、恐れられることとは、りっぱに両立しうる。これは、為政者が、自分の市民や領民の財産、彼らの婦女子にさえ手をつけなければ、かならずできるのである。」 

一八 「戦いに勝つには、2種の方策があることを心得なくてはならない。その1つは、法律により、他は力による。前者は、人間本来のものであり、後者は獣のものである。だが、多くの場合、前者だけでは不十分であって、後者の助けを借りなくてはならない。したがって、君主は、野獣と人間をたくみに使い分けることが肝心である。この事柄については、昔の著作家が、暗示的に君主に教えてくれている。彼等の書き残したものによると、アキレウスを初め古代の多くの王たちが、半人半馬のケイロンのもとに預けられて、この野獣に大切にしつけられたとある。この話の意味は、つまり、半人半獣が家庭教師になったというのは、君主たるものは、このような2つの性質を使い分けることが必要なのだ。どちらか一方が欠けても君位を長くは保ちえないと、そう教えているわけだ。そこで君主は、野獣の気性を、適切に学ぶ必要があるのだが、このばあい、野獣のなかでも、狐とライオンに学ぶようにしなければならない。理由は、ライオンは策略の罠から身を守れないし、狐は狼から身を守れないからである。罠を見抜くという意味では、狐でなくてはならないし、狼どものどぎもを抜くという面では、ライオンでなければならない。といっても、ただライオンにあぐらをかくような連中は、この道理がよくわかっていない。このようなわけで、名君は、信義を守るのが自分に不利をまねくとき、あるいは、約束したときの動機が、すでになくなったときは、信義を守れるものではないし、守るべきものでもない。とはいえ、この教えは、人間がすべてよい人間ばかりであれば、間違っているといえよう。しかし、人間は邪悪なもので、あなたへの約束を忠実に守るものでもないから、あなたのほうも、他人に信義を守る必要はない。」 

「狐をたくみに使いこなした君主のほうが、好結果を得てきたのだ。もっとも、この気質は、じょうずに粉飾するのが大事で、みごとに猫かぶりになり、厚かましくなければいけない。そのうえ、人間はいたって単純であり、目先の必要性にはなはだ動かされやすいから、だまそうと思う人にとって、だまされる人間はざらに見つかる。」

「要するに、君主は前述のよい気質を、なにからなにまで現実にそなえている必要はない。しかし、そなえているように見せかけることが大切である。いや大胆にこう言ってしまおう。こうしたりっぱな気質をそなえていて、後生大事に守っていくというのは有害だ。そなえているように思わせること、それが有益なのだ、と。たとえば慈悲深いとか、信義に厚いとか、人情味があるとか、裏表がないとか、敬虔だとか、そう思わせなければならない。また現実にそうする必要はあるとしても、もしもこうした態度が要らなくなったときには、まったく逆の気質に変わりうる、なしいは変わる術を心得ている、その心構えがなくてはいけない。君主は、ことに新君主のばあいは、世間がよい人だと思うような事柄だけを、つねに大事に守っているわけにはいかない。国を維持するためには、信義に反したり、慈悲にそむいたり、人間味を失ったり、宗教に背く行為をも、たびたびやらねばならないことを、あなたには知っておいてほしい。したがって、運命の風向きと、事態の変化の命じるがままに、変幻自在の心かまえをもつ必要がある。そして、前述の通り、なるべくならばよいことから離れずに、必要に迫られれば、悪にふみこんでいくことも心得ておかなければいけない。そこで、いま述べた5つの気質に欠けることばを君主が口にするのは、おおいに慎まなくてはいけない。君主にえっけんし、そのことばに聞き入る人々のまえでは、君主はどこまでも慈悲深く、信義に厚く、裏表なく、人情味にあふれ、宗教心のあつい人物と思われるように、心を配らなくてはいけない。なかでも、最後の気質を身にそなえていると思わせるのが、なによりも肝心である。総じて人間は、手にとって触れるよりも、目で見たことだけで判断してしまう。なぜなら、見るのはだれにでもできるが、じかに触れるのは、少数の人にしか許されないからだ。そこで、人はみな外見だけであなたを知り、ごくわずかな人しか実際にあなたと接触できない。しかも、この少数の者は、国の尊厳に守られている大多数の人々の意見に、あえて異を唱えようとはしない。そのうえ、すべての人々の行動について、まして君主の行動について、召喚できる裁判所はないわけで、人はただ結果だけで見てしまうことになる。だから、君主は戦いに勝ち、そしてひたすら国を維持してほしい。そうすれば、彼のとった手段は、つねにりっぱと評価され、だれからもほめそやされる。大衆はつねに、外見だけを見て、また出来事の結果によって、判断してしまうものだ。しかも、世の中にいるのは大衆ばかりだ。大多数の人が拠り所をもってしまえば、少数の者がそこに割り込む余地はない。」 

二五 「さて、結論を下すとすれば、運命は変化するものである。人が自己流のやり方にこだわれば、運命と人の行き方が合致する場合は成功するが、しないばあいは、不幸な目を見る。私が考える見解はこうである。人は、慎重であるよりは、むしろ果断に進むほうがよい。なぜなら、運命は女神だから、彼女を征服しようとすれば、打ちのめし、突き飛ばす必要がある。運命は、冷静な行き方をする人より、こんな人の言いなりになってくれる。」 

二六 「やむにやまれぬ人にとっての戦は正義であり、武力のほかに一切の望みが絶たれたとき、武力もまた神聖である」