文化と文明のトレードオフ…5」     プノンペン(カンボジア)  '95 . 9

<競争でなく紛争>

 職業選択の自由を事実上、奪うような経済進出。そこには紛争に破れ人権を奪われつつある人々の姿が容易に浮かぶ。それは競争では、決してない。何かがおかしい。

 人件費が安い。例えばカンボジアでは、ドライバーつきバイクタクシーが、1日専属で6ドル。朝日をバックにアンコール遺跡を見たいと言えば朝5時に起こしに来てくれ、昼間は、宿の外で待機してくれる。物価が安いのは単純に嬉しい。子供が駄菓子屋で買い物をするのと似た感覚だ。だが、人を雇うことに関しては、さすがに罪悪感を感じてしまう。

 人権というものが本当にあるならば、日本人はカンボジア人の人権を踏みにじっているのではないか。そもそも、人間の価値は同じであるはずで、これは基本的人権などという西欧近代の産物とは関係なく、人心に原理的に存在する価値観だ。その価値観が、物質的に豊かな国の人間が国境を越えるだけで、いとも簡単に崩される。ほとんど、王様と召使ほどの関係になってしまう。

 彼等は、心の奥底でどう思っているだろう。ほとんど同じ肌の色をした、同じアジア人が、単に日本に生まれたという幸運だけで優位にたち、自分たちを支配している。しかも、雇い人は、特に尊敬すべき洗練された人格を備えた人物でもない。自分達よりも若い、ごく一般の学生だ。

 単に経済の規模が違うから、として片付けられる問題ではない。外貨を落とすことは、彼等の経済を成長させるから、良いことなのか。もしそうだとしたら、この行為は世界中の国が豊かになるまで繰り返されるではないか。

 実際の労働市場が国際的に全く流動的でない一方で、旅行者はいとも簡単に国境を越えられてしまう。市場経済の欠点だ。日本人は、日本に生まれたというだけで人を使う側にたち、カンボジア人はカンボジアに生まれたがために使われる側になる。彼等は、日本の大学生に比べれば英語も勉強しているし、良く働く。

 日本人は、世界から見たら、日本に生まれたというだけで相当なエリートだ。少なくとも、金銭的にはそう言える。日本で落ちこぼれたって、いざとなったら、アルバイトで溜めた金をもとに途上国と呼ばれるところで生活すればいい。仕事を始めてもいい。そこでは人間など、ただみたいなコストで使える。

 なぜ途上国と呼ばれる国々の人たちは、貧しい生活を送らねばならないのか。それは、先進国と呼ばれる国々の犯した罪によるものではないのか。

 先進国と呼ばれる国の企業が、大資本を投下し良質で安価な製品を大量生産してしまうと、現地の代替物は競争に負け、失業してしまう。仕方がないから、大企業の工場で勤めることになり、一日中、非人間的な環境で単純労働だ。これまでの平和な農村暮らしを返してくれ、と思った時にはもう遅い。働いて、働いて、物質的な豊かさに幸福を求めるという、終わりのないメビウスの輪の始まりだ。気がつけば、日本のようにすっかり文明化が進み、固有の文化は失われ、古き良き時代を懐かしむことになる。しかも、これが世界中で繰り返されたとき、人類は資源を枯渇するスピードを早め、地球環境を壊滅させ、滅亡へ向かう。

 ベトナムのミトーという町で見たココナッツ飴工場は、全てが手造り作業だった。メコン流域の肥沃な大地に沢山生えている天然ヤシの実をとって割るところから始まり、実を大きな鍋に入れ、熱して溶かす。長時間熱して液状になったものを台の上で伸ばして、3センチくらいの飴の大きさに切る。それを一個づつ包むのも手作業。ものすごいスピードで包んでいく。全ての作業が、民家の1つ屋根の下で、10人くらいで行われている。

 しかし、いわゆる先進国からオートメーション技術が持ち込まれ、大規模工場が造られ機械化されたら、彼等の生活はひとたまりもない。たちまち市場での競争に負け、多くが失業してしまう。貧しくなってしまうのである。

 さとうきびジュースはおいしい。しかし、代替物であるコーラが安価で供給されるようになれば、伝統的なさとうきびジュースのシェアは奪われ、収入も減る。外国資本の投入で、原住民は貧富の差が激しくなる一方だ。工場は確かに雇用を創出し、一部の労働者を金銭的に豊かにするが、一方で「工場で働かない」という選択ができないのは、人権を踏みにじっているとしか思えない。

 「競争はプラスサムであるが、紛争はゼロサムだ」という佐藤誠三郎・慶大教授(当時)の定義に基づくと、これはもう、紛争なのだ。競争などという生易しいものではない。伝統的な地元密着のサイクリカルで環境にやさしい、地球と人類にとって本質的に「先進的」な産業が、市場という哲学のない無規制で理不尽なフィールドでの紛争に破れ、新たな価値観を強制的に押し付けられるなど、間違っていないのか。人間としての感覚がマヒしていないのか。

 経済援助の際にも、同様の視点が必要だ。本当に歓迎される援助を実施するなら、たとえ1週間でも、現地の末端住民と生活してみるべきだ。本当のニーズをつかめるだろう。はるか離れた永田町で、量の面だけいとも簡単に総額10%も減らすなど、外交面で世界の信頼を失うだけだ。国益に反するだけでなく、人類益、地球益にも反する。もっと逆の発想で、「現地が望まない地域に経済侵略をさせない」ために資金を使えないものか。少なくとも、教育や技術に絞ったソフト面での援助に特化するなどの理念が必要ではないか。

 ゼネコン的発想の現行ODAを推進する人間は、それが紛争要因となりはしないか、職業選択の自由を奪わないのか、常に考えるべきだ。例えば、経済発展などという勝手な価値観を押し付け、バンバン橋を作ればいいのではなく、その橋ができることにより、それまで川渡し船を生活の糧として平和に生活してきた末端の現地人を、ゼロサム紛争に巻き込むような罪を犯さないよう、十分に注意すべきだ。政府とその手先機関が相手にする現地の権力者など、必ずしも民主的に選ばれたわけではなく、また民衆はその怠惰性から自分で決定するよりリーダーに流される方を好むものだから。