「マスコミ報道の犯罪」/浅野健一/96年講談社文庫(原書は「客観報道」93年)

◇客観的な報道とするためにはどうすればいいか、が詳しく論じられている。客観などないとする本多勝一とは、逆のことを言っているようで、実は両立が可能だ。ただ、浅野氏の方が、現在の大手寡占状態の新聞業界の現状では、より現実的と言える。

 もしあなたが新聞記者なら、今後の記者生活をする上での素養となるだろう。もしあなたが読者なら、共感する部分が多かろう。日頃、マスコミに対して何となく思っていることを具体的に提示してくれている。

 情報源の明示は必要だし、権力と癒着する夜回りによるリーク取材、記者クラブ問題などは私と基本的な価値観を共有している。ただ、倫理観向上のための具体策をもっと提示して貰いたかった。マスコミとて企業である以上、利益にならないことはできる訳がないのである。

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「日本の報道を変えるには外国で一般的に行われているニュースソース明示の原則の導入が必要だと強調した。米国などでは、ニュースを提供した人の身元を原則として顕名にして、もしそれができない時はその理由を書いて、少なくとも所属や地位で情報の出所を明らかにするのがジャーナリズムの原則である。情報源を明らかにすると、1市民がその情報の価値や確度を判断する有力な材料にできる 2権力による情報操作を防ぐ 3無責任な情報をチェックできるーーなどのメリットがある。私は公人を除き、被疑者・被害者は匿名を原則にして、逮捕状を発付した判事、逮捕状を執行した警察責任者、逮捕記事の筆者を顕名化するよう提言した。オウム報道では微罪で令状を出した判事の名前は一度も伝えられなかった」

「密室での調べでの被疑者や被告人の『供述』が弁護士の立会いもないうえ、本人の確認もとらずに大きな記事となっているのは、日本のジャーナリズムのレベルの低さを示しているという。同時に警察・検察の強引な捜査に対する批判的視点が見られないことも問題だという。日本の報道機関で日本語の記事を英語に訳している記者は、『一面トップの記事は英語に翻訳できない』という。ニュースソースが不明だからだ。」

「警察側は報道機関との接触の仕方を組織的に研究してきた。70年代から、警察の広報体制が強化された。とくに公安警察の場合は、捜査官が独自の判断で重要な情報を流すことはなくなった。警視庁はリーク情報を幹部が一括してコントロールしている。どこの社の誰が夜回りに来て、何を話したかを幹部に報告させている。」

「現在の犯罪報道は依然として、捜査当局(権力)のマウスピース(代弁人)に近い。警察記者クラブでの事件取材で、捜査官からどれだけたくさんの情報をもらうかを競争している実態がある。ジャーナリストの視点はなく、捜査官の眼での取材報道である。」

「これまでの日本のマスメディアは、誤報を情報源の責任に転嫁して自らの報道責任をとってこなかった」(→これではオウムの上祐と同じだ)

「河野さんに対する誤報の中でも、『河野さんが「調合を間違えた」と話した』という情報は、ほぼすべてのメディアに報道された。なぜこんな報道があったのか。…河野さんを『毒ガス男』とでっちあげた報道で最も悪質な誤報は、東京本社社会部の警察庁幹部に対する夜回り情報だったのだ。幹部は各社に同じ内容の虚偽の事実を伝えているのだ。警察庁幹部を取材した記者のほとんどは、警察庁記者クラブまたは警視庁記者クラブ(七社会)の事件記者だった」(→この体制では記者は警察を越えられない!)

「ニュースソースを明示しないで伝聞を事実として伝えるということは、その情報が間違っているかもしれないという可能性、あるいは、ひょっとすると当局による情報操作が行われているかもしれないという可能性を考える機会を読者から奪うということである。…先進国首脳会議でも、同行記者は会議の場には入れない。すべて首相の報道官、外務省高官の報道ブリーフィングに頼って記事が出来上がっている。首脳の表情、冗談など何でも『広報』される。ところが新聞は、全くニュースソース(情報源)を明示せず、あたかも自分が見てきたように書いている。」

「日本のマスコミ記者は若い時に、数年間『サツ回り』を担当する。記者はいかに警官と仲良くなり情報を貰うかの訓練を受ける。捜査当局に対する監視の眼は消え、権力とほぼ同じ発想に陥る。そうした記者が東京本社や海外に移り、天下国家を論じることになる。」

「ある英文記者が次のような苦言を呈するのを耳にしたことがある。彼いわく、『日本語で書かれた記事を海外に送るため英訳する時に社会部、政治部の記事は厄介だ。ニュースソースが非常に曖昧で、誰が言っていることなのか書いていない。発表なのか、リークなのか、それとも独自の調査報道なのか明確でない。欧米ではニュースソースがどこなのかがその情報の価値を決めるわけで、書かない時はなぜ書かないかを明記しなければならない。・・・』」

「AP、ロイター、UPIなどの外国通信社は、ライバルの通信社の報道をどんどん引用する。ところが日本の新聞社、とくに東京にある三紙、朝日、読売、毎日は、自社の特派員が外信記事のほぼすべてを書くことが普通になっている。…残念なことだがこのように日本の新聞社が通信社の原稿を一部または全部盗むのはよくあることで、実際デスクにそれをやらされた人の証言を何度も聞いたことがある。…『バンコク・ポスト』『ネイション』など有力英字紙は通信社の記事でも署名を入れて大きく扱っている…米国への特派員は英語の『話す』『聞く』の力は不要で、読む力があれば十分だという話をよく聞いた。現地の通信社、新聞記事を速読し、和訳できればいいというのだ。」

「日本では通信社が全主要新聞社に配信しているわけではない。これは世界的にもきわめて稀なことである。朝日・読売・毎日の三紙は共同の加盟社ではなく国内ニュースに関しては共同通信の記事の配信を受けていない。外信ニュースだけ共同通信と契約している。三紙は各地方紙と激しい販売競争をしており、規模の比較的小さい新聞社にとってより利点の多い通信社には加盟しない、という理由で共同通信から脱退したのである。現在、三紙は通信社以上に全国各地に記者を配置している。一新聞社の記者数が通信社より大きく上回るのは日本以外にはあまり例がない。」

「ジャカルタには共同の他に朝日、毎日、読売、日経、NHKの支局があるが、NHK以外は、ほとんど共同と同じ仕事をしている。全員が十分な休みを取ることもできず、休日返上で『自社記事』を毎日書いている。これを見ていると私は疑問を感じずにはいられない。新聞記者が通信社とは一味違う仕事をすることが大事で、そうでなければ海外展開しても新聞代が高くなるだけではないか。各社それぞれの事情はあるだろうが、日本の新聞も他社との過当競争を減らし、適正な分業・協力を考える時期にきているのではないだろうか」

「今後は他紙の特ダネを積極的に報じる慣例が定着ことを望みたい。新聞を二紙以上読む人はそう多くないのだから。また、九一年七月二九日、証券会社の損失補填先の会社リストを日経新聞がスクープした際、朝日新聞はその日の夕刊で『日経新聞の報道によると』と出典を明示して報じた。」

「@報道する側は実名に …新聞社は市民を実名にして筆者はほとんど匿名である。テレビの場合は、記者が直接画面に出ることも多いので、今もある程度実現している。」

「Aニュースソースの明示 …情報として最も大切なニュースソースが不明確な記事はボツになるのだ。犯罪報道では逮捕状を発布した裁判官、逮捕状を執行した警察官、起訴した検察官の役職とフルネームを原則として報道すべきである。」

「B直接話法の活用を ニュースソースをはっきりさせた上で、取材源のコメントをそのまま報じよう。『マニラの若王子さん誘拐事件は日本赤軍の犯行と分かった』と報道するのではなく、『警視庁公安の○警部は【若王子さん誘拐事件は日本赤軍の犯行だ】と○記者に語った』と言うべきなのだ。」

「D他社の特ダネを伝えよう …各社はマスコミ界の動きをフォローするメディア・リポーターと呼ばれる専門記者を置くべきである。これだけ発達したマスコミで、マスコミ産業だけが取材対象からはずれているのはおかしい。」

「新聞、放送の長い歴史でも、記者の一般刑事事件や自殺が報道されたことはほとんどない。『ハレンチ記者』『仮面をかぶった記者』『セクハラ記者』などという見出しを見た記憶もない。」

「時に、書く側の性的関心も見え隠れする。女性を報道する際にのみ用いられる、男性には対応語のない呼称もみられる。『夫人』『女史』『若妻』『老女』『未亡人』等である。さらに、『内縁』『つれ子』といった単語を用いて、プライバシーを必要以上にあばかれる場合もある。」 (→スーチー女史)

「報道という名のイメージ操作 …『女教師』『女社長』『女子高生』というように、ほとんどすべての場合に『女』がつけられている…『若妻』という言葉の裏には『女とタタミは新しいほどよい』という男の願望がかくされているようで、どこかわいせつである。未亡人という言葉自身、女にとって不愉快な言葉で、死語にしてほしい。…このような言葉は使うべきでない、と私も思う。『老女』に対する『老男』という対語は存在しない。『男流作家』とか女史に対する『男史』という言葉もない。『対』になる言葉がない場合は不適切な表現といえるだろう。」

「『ニューヨーク・タイムズ』ではミス・ミセスをやめミズに統一した。このほか多くのマスメディアがスポークスマンはスポークスパーソン、チェアマンはチェアパーソン、コングレスマンはコングレスパーソン、カメラマンはフォトグラファーなどのように男中心の用語を改めてきた。またスーパーマーケットに買い物に来た女性たちを『主婦』と表現せず『消費者』とした。一方、日本では『美人警視参上』『独居女性』などの見出しが新聞に出る。・・・日本語の方が英語に比べ性区分がなくニュートラルなのに、なぜわざわざ『女性』を付加するのか。」

「なにも女性ばかりではない。日本の新聞は職業や年齢にこだわりすぎる。…全身マヒの人になぜ『無職』とつけるのですかーー。…最近、肩書きとしての職業が本当に必要か、と疑問を抱いている。・・・犯行時と関係のないのに『元警官』、また『犯人は借金苦の作業員』『乱暴した運転手を手配』等は特定の職業に予断を与えないか。・・・整理部の社会面担当者は、毎日『人権』と特に深い関わりを持っている・・・」

「『東大生が少女に暴行』『慶大生が窃盗』などと有名大学生の事件がよく社会面に載る。事件そのもの派新聞に掲載するほどのことはなくても、東大生が……がニュースになる。」

「東大にまで行った人が自殺を・・・。筑波大生が泥棒を・・・。富士銀行の支店長が盗みを・・・。こういうニュースの基盤は、東大や大銀行に入れなかった多くの市民がエリートに対して持つ嫉妬心なのだろうか。『偉そうにしてても事件を起したらオシマイだ』『オレたちは金も名誉もないが、つつましく真面目に生きてて幸福だ』。要するに他人の不幸は蜜の味、他人の不幸を喜んでいるのだ。しかし市民にはそういう感情を持つことのうしろめたさも同時にある。だがマスコミ業界では、読者全体がそれを望んでいる、ニュース性があるという論理で、こうしたとりあげ方が正当化される。」

「このような記事にふれるたびに、『写真週刊誌は新聞の社会面の鬼っ子』と言った筑紫哲也氏の言葉が思い出される。」

「日本の犯罪報道では、この国の法律にふれたと権力に疑われた被逮捕者の氏名、写真、住所、職業、年齢が明らかにされ、反社会的人間として、さらし者にされる。写真週刊誌は、その『実名』と『写真』のみを大きくクローズアップしたものなのである。」(→同罪だ)

「記者クラブ問題が社会化しないのは、メディアがクラブ問題を取り上げない上に、記者クラブ問題が市民運動家にとってある種のタブーになっているからである。文化人や運動家は新聞や放送で自分たちの活動ぶりを紹介してもらいたい。記者クラブを使わざるを得ないと考えている。」

「京都市伏見区で農業を営む藤田孝夫さんは、九〇年四月、京都府が京都府政記者クラブに記者室を無償提供など数々の便宜供与をしているのは違法として、知事は記者室の賃貸料相当額・電話料金・職員の賃金相当額など約八六〇万円を府に返済すべきだと提訴した。京都地裁は九二年二月、記者室の提供は違法ではないと請求を棄却した。」「さらに、藤田さんは九二年六月には、京都市が市政記者クラブを接待したり、ただで電話を掛けさせたりするのは違法な公金支出であるとして、記者クラブと田辺朋之市長を相手取って公金返還を求める住民訴訟を起こした。藤田さんは、市が91年度に、@7回にわたって記者クラブを接待して計約201万円を使った Aクラブの各社の電話料金計約93万円を負担したーーのは違法と訴えた。この裁判で記者クラブ側は、『記者クラブは単なる親睦団体で被告としての適格性がない』と主張。市側は市の広報活動の1つと反論した。…大新聞は藤田さんの訴訟をほとんど報道しなかった。京都の支局長会で報道しないという取り決めをしたという。裁判経過を大きく報じたのは『日刊ゲンダイ』だけだった。」

「藤田さんは五年間、記者クラブという怪物と闘ってきた感想をこう語る。『・・・報道機関は官庁を監視すべきで、双方の利害は相対立する点の方が多いし、報道の使命はそこにあるはずだ。記者クラブの実態を市民が知らないことが問題だ。メディアが知らせないのは、報道の使命に反している。官報接待とも言うべき官庁とクラブとの接待は、いま問題になっている官官接待よりすごいはずだ』」

「読者の大多数が支持した写真をルール違反と決めつけた、その事実経過を追うだけで、宮内庁の体質を問う作業ができたはずなのに惜しいチャンスを逃したと思う。・・・あの闘争が突きつけたのも、実は『ばかばかしいが、仕事だから』と理由づけて結局は何も変えようとしない、われわれ日本のジャーナリストの勇気なき体質そのものだ。」

「犯罪報道に関しては『報道しない勇気を』という私たちの主張に対し、世の中の動きを制限なしに伝えるのがメディアの義務だとか、特例を認めると危険という反論が強かったのに、『皇太子がお嫁さんを探せるよう協力する』ためには、全報道機関が一糸乱れず一切の報道を自粛するのは不気味でさえある。」

「共同通信の藤田博司氏は…われわれが持つべき常識の物差しとして『記事の対象を自分自身なり自分の身内なりに置き換えてみること』を挙げている。」

「各社は『両家』の家系図を載せた。不快だった。憲法一四条は、すべての国民は『社会的身分、門地』などにより差別されないと規定しているのにだ。血統、家柄、東大、ハーバード、オックスフォード、・・・。キャリアではない専門職の外交官は『キャリア』という言葉をどんな思いで聞いているだろうか。」

「宮内庁の要請を受けて日本のマスメディア四二六社は一一カ月にわたって行われた皇太子妃選びにかかわる報道自粛協定を守った。」(→プライバシーと報道)

「私は共同通信ジャカルタ支局長としての三年半の取材を『出国命令』(日本評論社)と『日本は世界の敵になる』(三一書房)の二冊の本にまとめ、侵略戦争を反省しない日本が強い円でアジア諸国を経済侵略して、各国の人民を抑圧する独裁的な政権を支えている実態を暴いた。」

「安保理入りが『日本の国益だ』と見て独走する外務省の堤灯記事である…例えばマハティール首相は、マレー系のマレーシア人である。マレーシアで日本軍は華人を徹底的に弾圧して、マレー人は比較的優遇されたため被害が少なかった。」

「藤田氏は…情報のソースを明示しない報道は3つの問題があると述べている。第一は、情報の価値を判断する手がかりを読者や視聴者から奪うことである。・・・情報の価値を判断する機会を情報の受け手に与える必要はないという姿勢が送り手にあるとすれば、これは大変な思い上がりといわなければならない。・・・第2の問題は、そうすることによって情報提供者による情報操作を容易にすることである。とくに政治情報や企業情報では、ニュースソースは、自分に最大限、有利に報道されるよう、タイミングや方法を見計らって情報を提供する。その場合、ニュースソースが明示されていれば、受け手の側はそれを手がかりに、ニュースの裏に隠された意図や思惑を読み取ることができる。もう1つの問題は、無責任な情報や不確実な情報が伝えられやすいことである。情報の出所が明らかにされる場合、情報提供者は自分の発言内容に責任を持たねばならず、表現にも慎重にならざるを得ない。」

「言論の自由の本義は権力を監視し、その専横から市民の幸福を護ることにあり、・・・」

「次に秦氏は言論機関の経営者たちが『営利をとるか言論性をとるか』の選択を迫られた場合、『多くの経営者たちは、その志に反しても前者、つまり営利というか企業の存続の方を選んできたのが歴史的事実である』という。」

「両方の当事者の言い分を聞き、それをできるだけ公平に扱うことが客観報道の基本だが、警察の逮捕報道はこれを全く無視している。弁護士さえ付かず、付いても接見禁止で弁護士と話もできない被疑者が多い。逮捕した側の警察からの情報だけで書く。記者の眼はどこにもなく、捜査官の視点で記事が書かれる。」

「患者が医者に倫理の向上を求めるのは当然なように、市民がジャーナリストに改革を要求するのも当然だろう。確かに日本のメディア企業は腐り切っていると言ってもいい状態だ。しかし、現代社会のメディアはほとんどの市民にとって電気、ガス、水道などと同様に生活に不可欠な存在となっている。権力者はメディアをコントロールしたがる。」

「読者や視聴者に責任を転嫁するメディア幹部を黙認してはならない。あるテレビ局の局長は『マスコミ天動説に警鐘を』と訴えている。」

「ある元大新聞記者が大阪の人権と報道を考えるシンポジウムで、現在の記者は日本のシステムを支える『国家公務員1種(報道職)』ではないかと言うほどだ。」

「報道界は再販制度の見直しに対して、『(委員会の議論では)新聞はトイレットペーパーと比較されたそうだ。われわれ出版は化粧品と同列にされた。本や新聞は担っている文化が違う。(略)化粧品などの一般の商品と同じではない』などと反論してきた。マスコミ幹部におごりはないか。製紙会社や化粧品会社は過去の市民消費者運動や反公害運闘争で体質改善をはかってきた。製造物責任も問われている。マスコミはどうか。取り返しがつかない人権侵害を犯してもなかなか謝罪しない。読者、視聴者が消費者であるという意識が薄いと思う。労働現場には今も封建的体質が残っている。外に開かれていない。」