「もののけ姫」/97年、宮崎駿監督
「2回見た、3回見たという人がいるので、実際は6百万人ぐらいじゃないかと思います」(宮崎監督)。のべ千二百万人を超える観客が「もののけ姫」を観た。実は私は、映画館で計十二回観ている。マスコミは、このとてつもないヒットの要因として、様々なもっともらしい解説をつけた。50億円の広告効果、わかりにくさ、根強い宮崎ファン…。私は、本物の感動と癒しが、混迷の時代背景のなかで人々の荒んだ心を惹き付けたのだと思う。
巨大な制作費とデジタル技術で、見世物化が進むハリウッド製アクション映画。見せ場のためだけの見せ場。いっときの興奮はあるが、そこに心の底からの魂の琴線に触れる本質的な感動はない。一種麻薬的なものはあるが、その場で終わる空しさが残る。
もののけ姫には、癒しの要素がある。宗教的な奥深さがある。この物語自体、どこかバベルの塔やノアの箱船の話を上回る深さがあって、聖書の1ページに加えて欲しいくらいだ。どんなに面白い漫画でも、2回、3回と読めば飽きる。それは単純に面白いだけだからだ。一方、この映画を何度も観てしまうのは、映画がバイブルと化しているからである。限界効用の逓減がないのだ。期間中、私は教会に通う感覚で映画館に足を運んでいた。企業社会に疲れ、病んでいる証拠であろう。
宗教は、混迷の時代に流行る。混迷の時代、現実世界を受容したくない(受け入れたくない)人が増え、誰しもが現実逃避をしたくなるものだ。戦後の創価学会、立正佼正会、PL教団。高度経済成長が終わったオイルショック後の幸福の科学、オウム真理教。宗教ブームは混迷の時代に来る。今はまさにバブル経済破綻、東西イデオロギー争いが終結した混迷の世紀末だ。
宮台真司によれば、昨今のいわゆる援助交際ブームも、混迷の時代に、現実世界のなかで「終わりなき日常を生きる知恵」なのだそうだ。経済成長が終わり未来が不透明となるなか、つまらない現実世界にはコミットせず「たとえ汚れても、世界を受容しない(受け入れない)で生きる」姿勢の現れなのだという。確かにそうかな、とも思う。
それに対し、同じ「世界を受容しない」でも「汚れずに、精神世界のなかで世界を受容しないで生きる」ための知恵が宗教であり、そこにこの映画の需要もあった。私は、そう思う。多くの若い女性が劇場に足を運んだのは、汚れて生きる女子高生に肯定的な宮台教へのアンチテーゼとしての意味もあったのではないか。
私は、この映画が聖書のように見えた。人と森の戦い。サン、アシタカ、エボシ御前。いずれにも大義・正義がある。自然と人類の本質に触れる物語。サンという自然の代弁者的な純粋なキャラクターには特に惹かれる。企業社会で汚れかけつつも、現実的になりきれない私に、似ているものがあるからだ。腕にアザ(原罪)を負いつつも、頼もしく生きる現実的なアシタカは人間のあるべき姿を描く。エボシも全然、悪人ではない。全く、人間世界とはどうあるべきかを、考えてしまうのだ。まるで人類の普遍的真理と英知が描かれた聖書の物語のようで、何度読んでも心が洗われ、飽きがこない。聖書が、人類史上、疑いのない最大のベストセラーであることを考えると、この映画の観客動員数にも納得がいく。
成熟世界に、宗教的要素が不可欠であることは言うまでもない。そして、聖書は「汚れずに、世界を受容しないで生きる知恵」だけでなく、現実世界で生きる(世界を受容する)際の知恵も与えてくれる。現実逃避だけではなく、反省と現実回帰を教えてくれる。宗教の価値は、まさにその積極的な意味にあると思う。
宮崎駿監督はこの映画の狙いについて、こう記している。
「世界全体の問題を解決しようというのではない。荒ぶる神々と人間との戦いにハッピーエンドはあり得ないからだ。しかし、憎悪と殺戮のさ中にあっても、生きるに値する事はある。素晴らしい出会いや美しいものは存在し得る。憎悪を描くが、それはもっと大切なものがある事を描くためである。呪縛を描くのは、解放の喜びを描くためである。描くべきは、少年の少女への理解であり、少女が少年に心を開いていく過程である。少女は、最後に少年に言うだろう。『アシタカは好きだ。でも人間を許すことはできない』と。少年は微笑みながら言うはずだ。『それでもいい。私と共に生きてくれ』と。そういう映画を作りたいのである。」
何と重い言葉だろうか。今の新聞記事には全くありえない種類の文章である。全く、現実だけを淡々を書き記すだけが新聞でいいのか。そんなはずはない。どんなに混迷の世界にも、生きるに値する事はある。それを描くことの意義は深い。私も、強く思った。そんな新聞記事を書きたい、そんなテレビ番組を作りたい、そんな政治をしたいのである。