「もののけ姫的政治家待望論」

 最近、インターネットでケネディ大統領の就任演説を聞いた。「国家に何をしてもらうのではなく、自分が国家に何ができるのかを問いたまえ」。何度聞いても感動する。国家と有権者の関係の本質を説き、「魂の琴線」に触れる演説だ。

 マス(大衆)を相手にした仕事(映画、新聞、テレビ、政治…)に従事する者にとって、一度は考えねばならない命題が、「集合的無意識」と「個人的無意識」の違いを理解することにあると思っている。「ヒットの秘密」とも題せる以下の論述を読んで損はないと確信する。

◇集合的無意識と元型的状況、魂の琴線

 ユングは、その人個人の経験に由来する個人的無意識とは別に、無意識には「 集合的無意識」というもっと深い層があって、それはすべての人間にとって普遍 的で生まれついた時から備わっていると考えた。

 集合的無意識は、元型的状況と不可分の関係にある。ユングは元型を「本能的行動のパターン」とよび、「人生には様々の類型的な状況があるが、それと同じだけ多くの元型がある。その無限の繰り返しが、我々の心的構造にこれらの経験を刻み付けたのである」と述べている。

 元型的状況とは、たとえば誕生と死、結婚、母と子のつながり、英雄的戦いなどだ。ギリシア神話や近代劇などに扱われているこういう関わりと争いのテーマは、元型的状況を表わしていることが少なくない。それらが多くの人に訴えるのは、私たちの魂の中にある共通の琴線に触れるからだ。この共通の琴線が魂の元型的層であり、集合的無意識を形成しているのである。

◇魂の琴線に触れる「コンタクト」

 私はそれほど映画マニアではないが、「コンタクト」ほど深く感動し涙が出た 映画は、かつてない。何に感動したのかを、映画を見ながら考えていたが、やは り「宗教と科学」といった人類の普遍的課題が、魂の琴線に触れているからだと 感じた。

 「宗教も科学も、真理を探究するという点では同じだ」。このセリフがこの映画を代表する。真理の探究は、本来のジャーナリズムや政治の目的と共通の命題だ。この映画では宗教の本質が随所に現われる。原理主義者が自爆テロで宇宙とのコンタクトを阻止する場面。実証主義の科学者であるジョディが、宗教学者(マシュー・マコノヒー)に「君が父を愛していた証拠を挙げよ」と問われたり、政府に「君が体験したという宇宙での18時間の記憶を証明するデータはあるのか」と追及される場面。どちらも実証はできないが、ジョディにとっては極めて大切なことだった。

 ジョディが一機めの宇宙間移動装置に乗れなかった理由は、「世界中の5%が、何らかの神を信じているのに、宗教心のないあなたが人類の代表として宇宙人とコンタクトする資格はない」。確かに95%というのは米国中心主義の現われで行き過ぎた数字だが、映画を見て自分は残りの5%の一員なのか、と感じた日本人は、グローバルスタンダードで少数派であることの意味を考えただろう。

 物質文明の進展で、人間は生きる意味に悩んでいる。多くの人が一度は考える宗教的命題だ。私も試験の作文で「宗教を信じることで死後の不安を取り除き、安易に日々の平安を得てしまうことの危険性」を訴えたことがある。宗教の扱いには、政治家もジャーナリストも、細心の注意が必要であることを再確認した。

 この映画は、現代のマスコミを賑わす話題のすべてが、凝縮されている。宗教対立、テロ、科学信仰、国民の興味本位の祭騒ぎ、国家のセキュリティ、大宇宙の神秘性、各国の危機管理能力。そしてそれが、地球外生命体が地球人にコンタクトをとってきた時にどう反応するか、というシミュレーションで描かれる。いつ現実に起きてもおかしくない出来事であり、シミュレーションの大切さを教えてくれる。

 実際、映画の通り、日本は世界規模のプロジェクトに対し、サブコン(下請け)程度の協力しかできないだろう。日本政府には米国の言いなりになる以外のシナリオを描く能力があるのだろうか。

 すべてのジャーナリスト、政治家、できるならばすべての人類が見るべき映画であり、政府が予算をつぎ込み有権者全員に見せる価値のある「超教育啓蒙娯楽映画」だ。これを百回見た後では、新聞記者や政治家たちの下らない夜回りや権力闘争などは、少しは減るだろう。

 分野は違うが、「コンタクト」の日本版が「もののけ姫」と言えるだろう。自然と人間、善と悪、罪やのろい。宗教・哲学的な課題でもあり、人間の心の中の深い層にある魂の琴線に触れ、ユングの言う「集合的無意識」をいやと言うほど刺激する。特に、登場するもののけ姫は、森を守ろうと戦う。誰しもが心に持つ自然を愛するという集合的無意識に、触れるのだ。

◇個人的無意識

 フロイトとユングは、「個人的無意識はその人の個人的経験に由来するものであって、忘れられたり抑圧されたりする」という点で、意見が一致している。「集合的無意識」に対して、「個人的無意識」というのは、より浅い層にある後天的なものである。

 ヒットするものが、すべて魂の琴線に触れているのかと言えば、そんなことはない。区別するためには、それが個人的無意識に訴えているのか、集合的無意識に訴えているのかを、良く考えてみることだ。例えば、野茂の大リーグでの活躍を嫌う人は少ない。それは元型的状況であり、魂の琴線に触れ集合的無意識を刺激するからである。

 それでは、ウインドウズはどうか。ウインドウズユーザーは、マッキントッシュが嫌いだから使うのではない。値段が安く、皆が持っているから買うのである。マックの方が圧倒的にセンスが良く使い易いことを認める人は多い。ウインドウズ人気は、周りの皆が買っているから、という「横並び意識や群衆心理」(=個人的無意識)が働いた結果である。トヨタのカローラが最も売れる車種であることも同様に「個人的無意識」によるものだ。どちらも、魂の琴線には触れず、普遍性はない。

 そして、両者のグレーゾーンにあるのが、ダウンタウンの笑いや、小室哲也の音楽である。決してウインドウズやカローラほどに消極的選択ではないが、そうかと言って魂の琴線に触れているかどうか、判断がつかないうちに群衆心理で売れている面がある。小室や松本などの万人受けするものを嫌う人は、実は元型的層では魂の琴線に触れていながら、後天的な見栄やプライドのようなもの(個人的無意識)が、それを押し潰しているのかもしれない。その人が、野茂の活躍にも一言は嫌味を言わねば気がすまないようなひねくれた心の持ち主なのかどうか は、後世が判断するだろう。

◇ポピュラリティとの両立

 一方、惜しいのが、集合的無意識に訴える能力を持っていながら、ヒットしないケースである。その代表が、マック。大多数の消費者は、限られた予算制約線の中で消費を選択するため、マックのように「金銭的」に敷居が高いと、支持を受けない。マックは大衆性(ポピュラリティ)に欠ける。

 同様のことが、都知事選で落選した大前研一や、衆議院選で落選した田中秀征などにも言える。彼等には、大衆性、エンターテインメント性がない。 確かに、素晴しい政策を持ち、人物も尊敬に値するのだろうが、その広報手段がなかったり、特定層からしか支持を受けられない壁がある。その意味で、彼等は「マックな人」である。

 宮崎駿にしても、自分の世界を極めた作品にこだわったら、「もののけ姫」は大ヒットにはならなかったろう。「コンタクト」にしても、いくら原作の考えがすばらしくても、それを映画として演出しエンターテインメント性(=大衆性)と両立させるゼメキス監督と出演する俳優の演技力があってこそ、多数の集合的無意識に訴えるのだ。そもそも原作者のセーガン博士も、「難しいことをわかりやすく」に徹した人だった。「わかる人にだけわかればいい」と言っているうちは、集合的無意識に深く訴えることはできない。多くの支持を得られないし、大きな影響力も持てない。

◇もののけ姫的政治家とは

 こうして考えると、現在の日本の政治は、「カローラ・ウインドウズ型」だ。「大多数の個人的無意識に訴える人間」が中枢を占め、その周りを「少数のポピュラリティ欠如型人間」が取り巻く、貧困な状況にあると言えよう。

 国民は、カローラを買う感覚で、極めて消極的な理由で自民党に投票するか、投票所にさえ行かない。魂の琴線に触れるような人ではないし、夢も感動も与えられない人しかいないのだ。だから、どうせならばコストが安い、つまり自分の既得権益を守ってくれる便利な人に投票しよう、村の周りの人もそうしているし、と個人的無意識が働く。自民党には普遍性がなく、集合的無意識が刺激され感動することもない。だから、罪人が大臣になっても、過ぎたことは言及するな、と言われれば、そんなもんかな、で済んでしまう。

 ダウンタウンや小室哲也の立場(グレーゾーン)にいるのが、管直人だろう。集合的無意識に訴えるものを持っているように見える一方、群衆心理という後天的な個人的無意識に流されて支持を得ているようにも見える。彼は、後世の歴史が判断するだろう。

 一方、「もののけ姫型」の政治家がいない。ポピュラリティを持ち、コストの安さではなく、魂の共通の琴線に触れ、集合的無意識に訴えて支持を集めるようなケネディのような政治家がいないのである。(もちろん、ポピュラリティを持ちにくい制度的な欠陥の存在はある。)

 集合的無意識、また魂の琴線に触れるというのは、大変な作業だ。キャラクター、ストーリーから、声、歌、映像、すべての分野をプロデュースする能力が必要となる。それができて初めて、ポピュラリティを持ち、魂の琴線に触れることができるのだ。

 政治家には、まさにそれが求められている。自らをプロデュースできない人物に、「国」をプロデュースできるわけがない。政治家の皆さんには、是非ともこの映画をみてもらいたい。ただ、今の政治家がこうした映画を見て、何を思うだろう。まったく無感動であることが予想されて仕方がないのだ。「もののけ姫的政治家」を待望して止まない。