新聞記事徹底分析「大新聞は何を伝えているのか」(元原稿)→週刊「金曜日」(2001/6/8)版イメージ
 安易な新聞批判は見飽きるほどあるが、精緻なデータに基づき分析、検証したものは見たことがない。現状が“可視化”されない限り、いったいどういう改善・改革の打ち手が見えるだろうか。

 本調査の目的は、影響力の大きい主要4紙(朝日・読売・日経・毎日)の全体の傾向を、定量的に把握することだ。このため、1週間分(4/15-22)の4紙朝刊につき、各面で扱いの大きい順(見出し段数の多い順)に記事を二本選び、各記事ごとに「記事タイプ」「取材先」などの切り口を入れ、2,064行のデータベースを作成した。分類を行うにあたっては、仮説に基づき、詳細な定義を行った。
      

       【定義】     

 筆者は、全国紙記者として警察、行政、企業の各記者クラブに計3年所属し、約1千本の記事を書いた経験があり、記事が紙面に載るまでの過程、つまり裏舞台を十分、理解している。また、少なくとも4紙に3年間、日々、眼を通してきた。筆者と同等以上の経験を持つ者が定義に沿って情報収集を行えば、誰でも同じ結果になるはずである。


[広告]《全面積の53%が広告》
 四紙の広告面積の合計は、全面積の53.7%を占めた。まず、1ページ全てを広告のみに割いている面は4紙合計で307面あり、これだけで全面積の29.7%を占める。残りが何らかの記事が配置されている面であるが、段数を数えると34.3%が広告に費やされていた。つまり記事がある面の34.3%は広告で占めている訳だ。この両者を足した面積が全広告面積であり、全体の53.7%を占める。全体から広告面積を引いた純粋な記事面積は、新聞の全紙面面積の46.3%である。


 四社の違いでは毎日が際立って広告比率が低く、トップの読売(57.5%)より10ポイントも低い45.5%だった。これは記事をより多く載せている訳ではなく、単に面数が少ないためだ。下記グラフ<四紙別に面換算した一週間の広告:記事比率>を見て貰えれば分かる通り、記事の面積というのは四紙で大きな違いはない。

 だが、一週間の総面数は、読売276面、朝日264面に対し、毎日は208面と約25%も少ないのだ。その上、そもそも毎日の記事段数は読売(1644段)よりも少ない(1587段)。量だけでみると、毎日は、かなり危機的な状況だ。


 更に問題なのは、広告と記事の境界が曖昧になっているものが散見されることだ。当初、広告と記事の区別に困ることはないと考えていた。しかし、実質的に明らかに広告なのだが、定義上、記事にカウントせざるを得ないもの、つまり形式上は、記事と全く同様に、見出しをつけ、記事に仕立て上げている“疑似広告”が数ページ見られた。


 例えば19日20面の「都心なのに、まるで閑静な住宅街 ラウンジやゲストルームも」。不動産会社の全面広告かと思いきや、面のどこを見ても「広告局制作」など「広告」の文字がなく、あわよくば記事と間違わせて広告効果を高めようという狙いが見え見えだ。新聞は、本来、踏み込んではならない領域に手を染めつつあるのだ。まず広告をとってから記者が記事を書くというカネ儲け主義の面作りは日経もよくやるが、読者よりスポンサーを見て新聞を作っていることがよくわかる。経験上、広告局の先輩社員から「広告をお願いする立場があるから、載らなくてもいいから取材だけでも行ってくれ」などと言われ、しぶしぶ出向くことは日常茶飯事だった。読者は、新聞社が株主利益の追求を目的とする一株式会社に過ぎないことを忘れてはならない。


 広告の出稿主別では、全面広告を出していたのは、ほぼ100%企業や業界団体であった。毎日だけは「聖教新聞社の本の広告」「日本女子大学の創立100周年広告」「東京地方裁判所 不動産 競売物件情報」など、多様性が見られた。これは広告単価が安いためと思われる。ただ、NPOやNGO、市民団体といった市民セクターによる意見広告の類は残念ながらなかった。


 毎日は、記事も少なく、広告は可哀想なくらいに更に少なく、そうかといって後述するように、記事の質が際立って高かったり他紙と差別化されている訳でもない。苦し紛れの施策として、記事と広告の境目まで曖昧になり、更に質を落とし読者を減らす悪循環だ。このような戦略のない会社は、普通の業界なら存続できない。


[面割り]《戦後の権力構造が引きずったまま》
 広告について詳細な分析をするのは今回の目的ではないので、ここから先は、広告を除いた記事部分(面積で全体の46.3%、1,450本分の記事=100%として)の中身について分析する。 

 新聞社が、世の中をどのような枠組みで捉えようとしているか、どのような視点でニュースを料理しようとしているかが端的に表れるのが面割りである。これは新聞社が持つ世界観と言ってよい。


 各社で異なる名称を修正した (例:第3社会→社会、スポーツ人間ドラマ→スポーツ)ものが表1であるが、総合面を除く上位4分野で一応、各紙の特徴が表れた。スポーツ面は圧倒的に読売が多く週24面、社会面は毎日で40面、経済面は日経の40面、地方面は朝日の19面で、それぞれトップだった。


  とはいえ、T目くそ鼻くそUの違いを知るのは意味がない。現在の面割りは、戦後の高度成長期にページ数の増加とともに固まっていったものだ。つまり、世の中の重要なニュースは東京(中央集権)の政・官・業に設置された記者クラブから発せられ、それが政治面、経済面、社会面に振り分けられ大きく扱われる。中央以外のニュースは、地方面と国際面にまとめてねじ込まれてしまう。だから地方がいくら画期的なニュースを発しても全国版の政治面には載らず、その地方の中にしか情報が行き渡らないため、全国的な変革に波及しない仕組みだ。面割りの時点で、中央が地方を情報によって統制するという戦後の中央集権体制の意向に沿ったものになっている。いまや地方が東京をリードするニュースを発する時代であり、時代錯誤である。


 さすがにこのままではまずいと思ったのか、昨今、教育面や科学面、健康面、環境面といった特定分野を扱う面を苦し紛れに作り出した新聞もあるが、全部合わせても週に8面だけ。これは、新聞社の社内組織が社会部や政治部というように面別になっているために、既得権保持の圧力から抜本的な改革が難しい事情がある。自分の縄張りを崩すものか、という訳である。だから、例えば毎日新聞が面の名称を変えて「生活いきいき家庭」面などとしているが、いくら読んでもいきいきする感じがしない。これは要するに、ラーメン屋のメニューを単なる「御飯」ではなく「おいしい御飯」と記すようなもので、心理的効果こそあれ、そのような小手先の変更は意味がない。そもそも「社会」「経済」という上位概念の言葉と「教育」「環境」などはレベルの異なる言葉であり、面の呼称としておかしい。結果として世の中の変化に対応できていない。


 インターネットの時代には地方も国際もなく、環境問題に国境はない。生活・家庭面(6.1%)、文化面(2.2%)など隅に追いやられている分野は、欧米へのキャッチアップを終えた昨今、もっと重要度が増しているはずだ。米国の全国紙「USA TODAY」は徹底した市場調査の末に、ニュース・スポーツ・生活・お金の4つに面割りを行い、読者の支持を集めた。日本の新聞の面割りは、完全に戦後の政・官・業を主体とする権力構造を引きずっており、もはや役割を終えている。21世紀の日本が目指すべき、市民が主役の民主国家像に沿った面割りを持つ新聞が必要だ。


[記事タイプ]《ニュースの84%は発表モノ、軽視されるルポ・調査報道》
 記事をタイプ別に見てみよう。今回の調査では、全ての記事(1,450本)を、詳細な定義に沿って「ストレートニュース」「企画」「解説・論文」「ルポ」「調査報道」の五タイプに分けた。ルポと調査報道をあえて抜き出したのは、両者があまりに軽視されているのでは、との仮説を検証するためである。


 更に、ストレートニュースは「発表モノニュース」と「独自ニュース」の二種に分類し、企画は「単発・傾向モノ」「連載」「紹介」の三種に分類した。発表モノニュースとは、官庁や業界団体など権力側の建物内に設置された記者クラブで発表(記者会見、または資料投函)されるニュースリリースをもとにした記事であり、要するにT大本営発表Uである。一方、独自ニュースとは発表されていないもので、記事中では「〜方針を固めた」「〜が関係者の証言でわかった」などと表現される。


 以下がその結果である。一番多いのは発表モノのニュース(46.9%)であり、二番目に多いのが解説・論文(15.9%)だった。全体的に見て、旧来の新聞がいかに発表モノとその解説に多くの紙面を費やしているかがよくわかる。

 ストレートニュースを100とすると、実に84.1%を発表モノで占めているのだ。
 発表モノニュースは、権力側が自分に都合の良いと判断した情報であるから、いくらそれを加工して紙面に載せても、権力を監視する使命は果たせる訳がない。逆に権力の広報役を務めることになり、本来の使命と逆の役割を果たす。また、現場に行かずに記者クラブにさえいれば、発表者に聞くだけで簡単に書けてしまうため、労力を使わず効率的に紙面を埋められる。それが記者の本分と掛け離れたものであることは言うまでもなく、読者としても現場の息吹きが感じられない無味乾燥とした記事など、読みがいがない。 ドラマ「踊る大捜査線」ではないが、「事件は記者クラブ室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ!」と叫びたくもなる。その意味で、田中長野県知事が「ダムの現場も見ずに安易に批判する記者が多い」などとして脱・記者クラブを宣言したのは的を得ている。


 一方の独自ニュースも、その取材先(ネタ元)の81.2%を政・官・業で占め、市民セクターが発する情報はほとんど無視されている。発表モノより悪質な、リークに基づく記事がむしろ多いのだ。権力は、自分が実現したい政策などを記者にリークして記事を書かせ、既成事実化したい思惑を持っている。記者はそれに加担することで権力と仲良くなり、いざというときにニュースの裏をとりたい。だから思惑を分かっていながらも記事を書く。これを癒着と呼ぶ。これが最も顕著なのが日経で、新聞の顔である一面に掲載された本数では週7本と四紙でトップ。朝日と毎日にも四本ずつ載った。


 代表的なものとしては、例えば「ハイテク犯罪や医療過誤 8地検に専門チーム 法務省検討」(19日毎日1面ワキ)。四段も見出しを立て、大きな扱いだ。前文は、「法務省が〜検討していることが18日、分かった。」見出しには「法務省検討」の文字をわざと小さく目立たぬように書く配慮も怠らない。検討など、いつでもしているに決まっている。これは要するに、法務省が税金を使って専門チームを作りたいから、新聞に書かせて既成事実化したいのである。この記事を書いた記者は、権力の走狗そのものだ。

 最近(2001/6/8)では、ミサイル防衛構想に関する発言で、「なぜ私の発言が漏れるのか、漏れるならどうして正確に漏れないないのか」と田中真紀子外相が怒り、外務官僚を公務員法違反で処分する意向も示しているが、これはまさに権力(外務官僚)と記者の癒着による意図的なリーク記事の典型例である。外相には何としても処分を実行していただき、「意図的なリーク」を戒めて欲しい。

 その警察版になると、更に弊害が大きい。例えばこの週では「奈良県警汚職 地検が強制捜査へ」(17日朝日一面)に始まり各紙の報道合戦が過熱した。確かに発表はされていないが、夜討ち朝駆けで非公式に当局から情報をリークして貰い、つまり当局とグルになって捜査情報を世間に垂れ流している訳だ。勿論、これは新聞の使命ではない。例えば「奈良県警OB2人逮捕 県警地検きょう一斉捜索 詐欺など容疑」(18日朝日社会面トップ)などと報じているが、これは捜索当日の朝刊に載っている訳だから、容疑者の仲間に証拠を隠滅するチャンスを知らせるようなもので、社会的損失につながる記事である。


 しかも、各紙がこぞって騒ぎ立て、追い詰めた結果、収賄側の元警視は捜査当日に自殺に追い込まれ、真相解明が難しくなってしまった。毎朝、毎夕、数千万部単位で自分を追い詰める情報が全国にくまなく宅配され、弁明の場も与えられないのだから、死にたくなる気持ちはよくわかる。各紙はここぞとばかりに「真相ヤミ?県警苦渋 奈良元警視自殺」(19日読売社会面トップ)などと報じた。自分で記事を作り出していく典型的なTマッチポンプU的手法だ。新聞社はどう責任をとるつもりなのか。こんなことをしていて、おかしいと思わないのだろうか。これは立派な犯罪である。


 記者は、こうした弊害の多い報道合戦に積極的に参加し、いかに「抜く」(他紙より先に書く)かで評価される。決して読者が前倒しのリーク記事を求めている訳ではなく、そのようなデータはかつて、どこにも存在していない。単なる昔からの慣習である。同じ奈良県警を担当していた大学の同期記者は「疑問に思うこともあるけど、上司に褒められるとやっぱり嬉しいのよ」と言っていた。それは、旧帝国陸軍に入隊した真面目な青年が、最初はためらいながらも、上官から評価を得て出世するために残虐行為に手を染めて行く過程に似ている。優等生であるほど、偏差値エリートであるほど、この傾向は強い。新聞社は軍隊組織を引きずっており、記者は「兵隊」と呼ばれ、担当を持たない記者は「遊軍」と今でも呼ばれている。人権など勿論ない。何とも時代錯誤な世界である。


 こうした発表モノ&独自ニュースとは対照的に、ほとんどなかったのが、ルポと調査報道である。ルポは全体の1.9%、調査報道は0.5%に過ぎなかった。以下にすべて列挙したが、いずれも本格的なものではなく、ルポはその多くが100行足らずの短いもので、調査報道も単なる世論調査であった。
 ルポの内容としては、「ネギのセーフガード発動」「自民総裁選」などこの週のトピックに関するものが約半分、残りは時事問題と直接関係ないものであった。今、最もホットなニュースの現場からの生き生きとしたルポは、圧倒的に少なかった。ただ、ここで特徴的なことは、ルポさえも政官業の権力構造の枠内から出られていないことである。セーフガードに関しては、ネギ栽培農家は取材するが、最終的に影響を受ける消費者は取材していない。総裁選でも、県の幹部は取材するが、末端の党員はほとんど取材していない。末端の市民や有権者、消費者、生活者の立場(受益者の立場)がスッポリと抜け落ちたルポは、腑抜けでつまらない。旧来の新聞社は、供給者(政官業)の立場からしかものを見ることができなくなっており、末端の声は届かない仕組みになっている。


 調査報道は、情報公開法を活用し、統計的手法を用いて分析したり、また粘り強い取材によって証拠をつかみ、権力を監視する報道だ。米国などでは、警察による人種間の差別を明らかにする手段などとして統計的分析による調査報道は日常的に行われている。また、日本では立花隆氏が粘り強い裏付け取材により証拠を積み重ね、田中角栄首相を逮捕に追い込んだ例がある。今回の調査範囲では、残念ながら、普通のアンケートや世論調査モノだけで、権力を監視する姿勢は全くなく、調査報道と呼べるものは1つもなかった。


 調査報道は手間がかかるため、紙面を埋めることだけを考えると効率が悪い。本稿にしても調査報道の一種であるが、地道な作業で、様々なコストがかかっている。しかし、暇だからやっている訳ではなく、やるべきことは手間をかけてもやらねばならないのである。数値的な処理に分析を加えることにより、あやふやだった問題が明確になり、それが改革への糸口になり得ることはわかっていただけるだろう。


 スクープは二種類に分かれる。1つは、いずれ確実に発表される大ニュースの前倒し。もう1つは、記者が取材しない限り明らかにされないニュース。旧来の新聞社は、前者に全力を注ぎ、後者はほとんど無視してきた。しかし、新聞の、権力の監視という本来の使命から考えれば、当然、後者にこそ注力すべきである。調査報道は「記者が取材しない限り明らかにならないニュース」の典型であり、また現場に出向いて検証し、現場から報告するルポの姿勢がなければ、後者のニュースも生まれるはずがないのである。


[取材先]《政官業で八割》
 記事を取材先(ネタ元)別に分析したものが、以下である。政・官・業のいわゆる“鉄の三角形”で全体の80.0%を占めており、権力が発表したニュースで紙面が埋められている悲しむべき現状が、改めて浮き彫りとなった。


 一方で、NPO/NGO(市民団体含む)が1.5%と軽視(無視)されているのがわかる。これはNPO側の情報発信能力の問題もあろうが、そもそも新聞社に最初から受け入れる体制がないことが問題だろう。「業」には経済部、「政」には政治部があるが、市民団体を取材する部署はない。各政党や役所、警察には必ず記者クラブが設置され記者が発表資料に目を通すが、市民団体が発表を行うための記者クラブはどこにもないのである。


 読売が「新しい風NPO」と題して連載しているが、組織が一時的に紹介されることよりも、NPOが積極的に活動し、ニュースを自発的に発信することのほうが大事である。週全体で22本というのは、いかにも少ない。


 取材先「市民」は7.4%と一見高いが、その約半数が記事タイプ「紹介」であり、これは要するに単純な投書である。市民がルポの対象となっているもの(取材先が「市民」で記事タイプが「ルポ」)は1.0%に過ぎない。権力が発表したニュースを載せるのはいいとして、それに対して市民団体が起こした動きや市民サイドの見解も同等に載せないならば、それは権力の広報紙と呼ばれても仕方がない。


[各紙の違い]
“目くそ鼻くそ”の違いを論じるのは空しいものだが、一応、各紙の記事についての特徴を分析しよう。


 読売は、政府発表モノの解説が大好きな新聞である。「解説・論文」は全体の19.0%を占め、四紙のなかで最も比率が高い。「忠実な政府の広報官」という印象で官僚的だ。記事を読んでいても、「エリートの俺様が一般大衆であるおまえらにニュースの意味を詳しく教えてやるから、黙って読め」という姿勢が行間ににじみ出ており、その国体護持的姿勢に不快感を覚える。とはいえ、読売の現場の販売員を取材すると、読者の大半は記事など読んでおらず、テレビ・スポーツ面と折り込みチラシ欲しさに契約しているというから滑稽だ。グラフを多用した膨大な情報量には評価すべき内容も含まれているが、その力を少しでも権力の監視に使って欲しいものである。


 朝日は、一応、市民を大事にしている。取材先別では市民が13.1%にもなり、他紙の二倍近い。投書欄が充実しているほか、ルポも一番多かった。気になるのは、単なる解説記事を、ストレートニュース風に見出しを立てて掲載するケースが多く見られることだ。例えば「鳩山氏訪韓 政権奪取への試金石 教科書問題加熱の最中 党内に不安の声も」(15日政治面)、「日中冷却は不可避 中国 重み増す台湾政策」(20日総合面)、「税制決着 新政権の具体策 焦点 迫られる負担明確化」(21日経済面)。自らの見通しを書いた完全な解説モノだが、いずれもワキ4段のニュース仕立てになっている。自らの意見をあたかも事実であるかのように報じる姿勢は、新聞として疑問を感じる。注意深くない読者は、誘導されてしまうだろう。


 毎日は、発表モノに頼っている新聞である。全体の実に50.3%を発表モノニュースで占め、四紙のなかでトップだった。これは確かに貧弱な印象を与えてしまう。広告が少ない分、記事の質で勝負しなければならないはずだ。同窓会・クラス会を告知するコーナーまであり、読者に媚びているようにも感じる。広告と合体した記事がいやに目に付く。どこから見ても先のない新聞である。


 日経は、独自ニュースが多い新聞である。その点では、やたら机上の解説に凝る傾向がある他紙よりは本来の新聞に似ている。全体の15.6%を独自ニュースで占め、これは他紙の二〜三倍である。しかし、圧倒的に企業からのリーク記事(取材先では業が11.0%)で占めている。例えば「半導体開発量産素早く 富士通」(18日1面トップ)。どこから見ても富士通の広報リリースなのだが、記者クラブで発表しても一般紙は大きく書かないため、日経にだけリークして大きく扱わせるほうが得という訳だ。一社のみにリークすることは「誰かが株価操作や風説の流布を企んだのではないか」との疑いを持たれ、証券業協会の規約(公正監視規則第30条)により、最悪のケースではその企業が登録取消になったり、市場での取引が停止になる。しかし企業としては、一面トップで書かせれば、数千万円を投じて全面広告を打つより広報効果が高く、何より無料のおいしい手段だから、そのリスクを冒しながらも、多くの場合は「ブンヤが勝手に書いたんです」で言い逃れる。つまり共犯関係だ。こういうT違法新聞Uは、買ってはいけない。


[総括]《実態は広告代理店》
 以上、記事についての分析を行ってきたが、全体的な視点に戻そう。そもそも、新聞に占める広告の比率は、53.7%もある。広告は、基本的に権力が発した分りやすい「発表モノニュース」に他ならないから、記事の体裁をとっているものと合わせると、実に全体の74.9%が権力の発表モノで占められていることになる。「独自ニュース」(権力のリークもの)や「企画・傾向モノ」(発表モノをかき集めたものがほとんど)のうち、政・官・業がネタ元となっている記事を含めると、実に全体の82.0%にも上る。権力の広報紙(=官報)であって、ルポがほとんどないことから明らかなように、いくら読んでも現場の状況は見えないのだから、読んでいて面白い訳がない。新聞社の実態は、もはや広告代理店に近いのだ。それでも読者は毎月4000円前後のカネを払っているのだからおめでたい。


 新聞社は、戦後から現在に至るまで、ページ数を増やし続け、広告スペースを増やすことで利益を拡大してきた。朝日新聞社は30年前の1971年、24ページだったが、今や平均37.7ページで発行している。日経は同40.5ページまで拡大し、最大48ページ印刷が可能だ。しかし一方で不景気から記者の数は減らす傾向にあり、紙面を埋めるのに最も都合が良い発表モノの記事に頼る傾向は、強まりこそすれ、弱まることはない。


 重要なことは、読者が旧来の新聞にカネを払っているうちは、何も変わらないということである。朝日のあの記事がおかしいとか、毎日のあの報道姿勢に疑問がある、などと騒いでいるうちは、新聞社は左うちわだ。購読していることが前提になっているから、経営者は何も困らないし、変える必要性を全く感じない。読者が疑問を感じた場合にやるべきことはただ1つ、すぐに定期購読を打切り、インターネットサイトなど他の情報収集手段に乗り換えることである。


 上述した問題の多くは、本来の市場原理が働けば、是正される可能性が高い。例えば毎日新聞社は大幅な紙面改革で差別化を図るか、失敗して市場から撤退するかの二者択一を迫られるはずだ。しかし、再販制度や記者クラブといった“護送船団”行政に手厚く守られてきたため、かつての銀行のように、他社と横並びのサービス(記事内容)なのに、のらりくらりと生き延びている。これは本来、参入できるはずの新聞社の機会を奪い、ひいては言論の多様性を奪うことにより社会的損失を生んでいる。公正取引委員会は、戦後半世紀もの間、新規参入がなく、残っている大新聞はみな100年以上前から存続しているポンコツばかり、という事実を重く受け止め、競争政策を進めるべきである。


 私は問題解決志向の調査・分析を行った。調査結果より「旧来型」新聞社の絶望的な姿と限界がより鮮明になり、問題解決のためには旧いものを壊し、新しいものを創るしかないことも明確になった。あとは実行あるのみである。

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