「『才人』企業だけが生き残る」/井原哲夫/2001年、ちくま新書

 才人とは、市場が評価するものを判断し、構想し、達成できる人。確かにそうだと思った。才人をいかにうまく組織内に抱え、活かすことができるかは、起業、成長のプロセスで決定的に重要だろう。もはや『生産の時代』(農業社会/工業社会)ではなく「才の時代」だ。そこで富を得る者は、地主や資本家のように後ろ指をさされることなく、尊敬を集められ、社会をリードしていく。才人が懸命に働くことで、社会(組織)の構成員の満足度が高まる。それは生き方を自分自身で選べる時代であり、非常に好ましい時代になりつつあるのだと思う。やはり才人を目指す生き方をしなければならない、と心底思った。
 社会全体で見た場合、「才の発見システム」は、国の競争力だけでなく、個々人の幸せのためにも、決定的に重要だと思う。特に子供を持たんとする親は、国に期待できない以上、各自でよく考えて子供の才能を無駄にしないように全力を尽くす必要があると思う。(2001/9)

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 才の成果物に対する評価は基本的に質に対する評価であって、市場価値をもつレベルがたいへん高いところにある。こうなる理由は簡単である。私たちは農産物にたいしてお金を払う動機をもっている。素人が栽培した農作物にたいしてもそうである。ところが、素人が描いた絵をお金を払って買いたいとは思わない。多くの人にとって、絵を描くのは楽しい行為である。もしその絵が売れるなら、世の中、絵描きだらけになってしまうだろう。楽しいことをしながら生活費がかせげれば、こんなうまい話はないからである。自慢したいたがために、自分が描いた絵をただで配って歩く人がいるが、そのレベルでは買い手があらわれなければ、プラスの値段がつくはずはない。

 一方、訓練さえつめば、だれもが市場価値をもつレベルをクリアできる世界に生きる人々がいる。そこで活動する人々が『生産人』である。以下『生産人』を『産人』と呼ぶことにしよう。‥‥才人と産人では評価基準も行動動機も大きく異なる。才人が力を発揮するのは『勝負の世界』であり、その環境は『生産の世界』とはまるっきりちがう。
 
 『才人とは、市場が評価するものを判断し、それにマッチするものを構想し、状況を適切に把握しながら、種々の手段を使って、それを達成することに長けた人、あるいはその一部の能力に長けた人をいう』

 江戸時代の浮世絵は木版画が主流だが、ここでは絵師、摺師などで分業体制ができあがっていた。この他に、版元、すなわち今日でいう出版社があって、浮世絵の企画をたて、絵師のところへもちこむわけである。絵師は版元の依頼によって、構想をたてて版下を描き、それにしたがって彫師が木版を彫り、摺師が色付けを行って版画を刷り上げるのである。この世界で、葛飾北斎、歌川広重など芸術家として名前が残っているのは絵師である。彫師と摺師は技能を担当する職人であった。右の分類でいけば、絵師が才人であり、彫師と摺師は産人だということになる。

 「手段を使って実現する」という内容は、分野によって大きくちがっている。1つは意思決定だけですむ分野がある。囲碁・将棋の棋士、資金運用者、商品企画者は、構想を実現するために状況を判断しながら多様な選択肢のなかから手段を選ぶことが仕事である。ゲーム型といってもよい。もう1つのタイプは、スポーツ、芸術分野、デザイン、ソフトウェア開発など目標達成のために技能の優秀さを同時にもとめられる人々である。

             選択型(意思決定型)
   囲碁・将棋の棋士                 商品企画者
   資金運用者                    テレビのプロデューサー

市場評価の判定が不要なもの             市場評価の判定を要するもの

   スポーツ選手                   ソフト技術者
   演奏家、歌手                   デザイナー
                            作家、画家、作曲家

                技能型

 実は、人間には『評価されたい』とか『自分の存在を認められたい』という強力な欲求が備わっているのだ。これを『ほめられ欲求』という。同じ自慢話をくり返す人がいるのだから、人間は何度誉められてもあきないのである。人前で見栄をはったり、お世辞をいわれてよろこぶのだから、うそでもいいからほめられたいのだ。‥‥評価があれば、お金がかせげないことに労力を費やす十分な動機になるのだ。オリンピックにおける金メダルはすばらしい評価の証である。

 経営者は才人である必要があるし、部門の最終的判断をおこなう責任者の多くは才人である必要があろう。才が要求される部門では、才人でない人は淘汰されてしまう時代になるといったほうがよいかもしれない。‥‥おそらく、一般社員のうち、5%から10%ほどの人が必要な部署で才を発揮すれば、その企業は優秀な企業でありうるとのイメージではなかろうか。90%から95%の人が、自分の守備範囲をきちんとこなせば、その価値を才人が高めてくれる。逆に、守備範囲をきちんとこなす人がいなければ、才人は才を発揮できない関係にある。

 資格制度によって、ある質の水準を社会的に確保する必要があったのである。この種の人々を、専門家の専をとって『専人』とよぶことにしよう。‥‥クリアすべき質のレベルが設定されているという以外に産人と専人を分けるはっきりした基準があるわけではない。

 相対(あいたい)型の場合は、あるサービスに対して評価をする人は原則としてその需要者1人である。その需要者からいいサービスだったかどうか聞くことはできるが、そんな情報を集める効率的な手段はないし、需要者が正確な評価ができるわけでもない。たまたま、満足できるサービスが供給されることもあるし、不満な結果におわることもある。第三者が質に関する情報を手に入れることが大変難しいのだ。‥だからこそ、資格制度が必要なのである。‥ところが、不特定多数の人がおなじ小説を読む。多くの人がおなじテレビ番組を見る。絵画や彫刻などの美術品では多くの人がおなじものを鑑賞する。このとき、小説は販売部数で、テレビ番組は視聴率で、美術品はオークションで評価が可能になる。野球、テニス、ゴルフなどの選手のプレイは多くの人が同時に見ているし、勝ち負けがはっきりする。個々の選手の活躍度は打率、防御率、勝率などの数値で客観的に評価されるわけだ。まさに、市場型である。

    供給サービスの質のわかりやすさ
 才人 市場型(外部から質の評価がしやすい)
 産人 相対型(外部から質の評価がしにくい)
 専人 相対型(資格制度が質判断基準をあたえる)

 評価方法には、がんばる程度など労働のインプットを評価する方法と、労働の成果を評価するアウトプット評価とがある。セールスマンの評価はアウトプット評価が普通だが、これは評価者がいないところで働いていることが主たる理由である。‥みんなでがんばることが重要で、失敗は努力の少なさからくると思われており、アウトプット評価をしなくても逃げ出される心配をしなくてよかったのだから、この評価方式で矛盾がおきなかったのである。そして、生産現場が重要な時代には、たいへんうまく機能したのだ。
 
 市場が見えなくなっているなかで、市場が評価するものを見極める(創造的理解といっていい)のはきわめて難しくなっている。評価基準が多様化しているとともに、うつろいやすくなっている。そうは売れないと思われていたものが爆発的に売れることさえある。なかにはこの種の能力の高い人がいるが、その人を『センスがいい』という場合がある。『センス』と知識は別物なのだから、知者教育ではこの種の能力を高められるわけではない。

 産人(専人を含む)教育とは違って、教育訓練によって才を身に付けることはできない。このように、学校教育に才人教育を期待することは無理である。才人はたいへん多様なものであるし、教育で個々に磨けるようなものではない。日本で才人があらわれないのは教育のせいではない。社会システムに問題があるのだ。学校は基礎をきちんと教えるべきである。できそうなことは、まず子供たちに多様な経験をさせ、そのなかで自分の得意な分野を認識させることである。指導者が子供たちの才を見極めることも必要である。もし、子供たちが自分の得意な分野を認識し、その分野に夢を持つならば、その能力を磨くための方法が見えてくる。そして、高等教育でが必要な分野では教育の効率性が高まることが期待できる。子供達にとっても人生の目標が明快になり、意欲が高まる。『才の時代』においてもっとも重要なことは『才の発見システム』を構築することなのだ。‥スポーツ大会は『才を発見するシステム』と考えることができる。野球の場合、子供のころから大会が数多く開かれ、そのなかで子供たちは自分の相対的能力を知っていく。‥‥企業に就職すると、具体的仕事をすることになるが、そこではじめて自分の向き不向きを実感する。潜在的に得意な分野に配属されれば幸運だが、そうでなければ才の芽がでないことになる。

 従来、大きな所得格差にたいする評価はたいへん悪かったのだが、これには『生産の時代』の生産体制が関係していた。農業社会では領主あるいは地主と農民の間に、また工業社会では資本家と労働者の間に大きな所得格差が存在した。しかも、力関係から貢献度格差以上に開いたとされていた。‥地主あるいは資本家の高所得は土地あるいは資本を所有していたことからもたらされた。しかも、生産手段の所有者は働く必要がなかったのだから、『もてるもの』は同時にヒマももっていたのである。この時代の労働はたいへん過酷であり、労働時間も長かったのだから、働かないで贅沢な生活ができる人との格差は許せないものと映ったとしても当然である。しかし、『才の時代』の才人はちがう。油断すると市場評価がえられる水準からすべりおちてしまう可能性を常に抱えている人たちで、命がけでがんばらなければならない立場におかれている。現実に、才人の労働時間はたいへん長いし、密度が濃い。そして、才人が懸命に働くことが、社会(組織)の構成員の満足度を高める関係にある。経営者など企業才人ががんばれば、産人の活動の価値を高めることになるし、『職の機会』を創ることにもなる。魅力的な商品が市場にでまわり、それが消費者の満足度を高めるという筋道もある。‥このように、才人が懸命に働くことが、一般国民にとって高い満足度につながるのだから、才人の労働動機を高める手段に対して支持がえやすい、そして、その動機こそが、結果として所得格差を広げることになる高い報酬なのだ。‥成功した才人の高所得にたいする評価がちがってくるのは容易に予想できる。‥単年度で見たとき、ある才人の所得がたいへん高くても、それまでは長い下積み生活がつづき、たまたまその年はうまくいったからかもしれない。そしてうまくいく年はそうないかもしれない。‥このとき、累進度が高いと、才人候補生のやる気を削ぎ、才人の出現をおさえてしまうかもしれない。少なくとも、単年度主義の見直しについて検討する必要がありそうである。