「三本の矢」/榊東行/98年、早川書房

◇大衆性

 主人公・紀村隆之を通して、大蔵省を中心とする政官財の権力の中枢と「体制」の実体を描こうとした小説。フランス流エリート統治論者である大蔵省銀行局課長補佐・紀村が、思考と議論を通して、国民・マスコミの愚かさと官僚の偉さを暗に伝えつつ、三者の癒着の構図が描かれる。凄いと感心したのは、本書が政治経済の優れた一般教養書という面を持っているにもかからわず楽しく読めること、つまり、現代マスコミが抱えている(と私が思っている)アカデミズムとポピュラリズム(エンターテインメント性)との両立を見事に成し遂げている点だ。実際、30万部も売れているのである。「政治・経済などの硬派ネタを多くの人に読ませるのに、こういう伝え方があるのだな」と発見した気持ちになった。大いに参考にしたい。

 本書では、大蔵大臣の予算委員会での失言を発端とした金融危機と、その対応が繰広げられる。大蔵省内で行われる議論(これは現実離れに決ってる!)を通して、今日の世界経済が抱える様々な問題と議論が紹介される点で啓蒙的。徹底した自由主義経済のアメリカ的パラダイムと、その日本への適用の是非。大蔵省内の、「財政の二階」と「金融の四階」によるせめぎ合い。護送船団方式の信奉者で財政至上主義者でもある四階は、財政資金投入で銀行を救済することもやむを得ないと考えるが、金融の知識はない。結局、ペイオフ実施で金融システム自由化を進めたい四階主導で対応策が作られるが、最終的には「仕掛人」の手によって誰もが予測できなかった終末に向う。小説としては、後半で俄然、面白さが増し、なるほどと思わざるを得なくなる。

 地方銀とその融資で生きている農民・商工業者を支持母体とする議員、それに対抗する都市部の議員。闘牛に例えられる世論とマスコミ、無視される愚かな民衆。政治学のペシミズムと経済学のオプティミズムといった縦割構造を分析する点も時代を先取しており興味深い。市場の自動調整機能を歪める民主主義過程の現実。理想実現に向けた計略に挫折する銀行局補佐・脇井と、超現実主義の産金ワシントン支店長・景浦。日本という政官財の癒着システムのなかで、官僚が経済合理的な政策を展開する役割の重要性を示唆して終る。

◇エリート統治の今 

 本書の争点は「官僚のあり方」だ。筆者は明らかにエリート統治論者で、常に経済的に不合理な選択をしがちな世論・政治家に対し長期的で合理的な行動が可能な立場として、本書では、官僚の必要性とその重要な役割が強調されている。政治経済学の古典に言及し、最近までのアカデミズムにおける政治・経済の流れと議論も解説される。これらは国家一種の論述問題の模範解答を連想させるもので、私はいかにも官僚的だと思うと同時に、その説明のわかりやすさに感心してしまう。ただ、マスコミの発達段階の異なる過去の事例や分析は、高度にインターネットや多チャンネルTVが発達した高度情報化社会の現状に当てはめるには力弱く、少し机上の理論に偏っているようにも思える。

 今や、世論はそれほど愚かではない。現に、マスコミが最も発達し情報公開が徹底した国・アメリカでは、クリントン大統領がスキャンダルで新聞上で叩かれ、辞任すべきと書かれても、世論調査では60%以上もの高い支持率を維持している。継続性のある強固な官僚組織よりも、大統領のポリティカルアポインティーによってドラスティックに入れ替った行政府が、政治主導のスピーディな決断によって経済・社会改革を進め、現在の社会・経済的好調につながっているのだ。マスコミが世論に必要以上の影響を与えている面は目立たず、無知な世論や国民による暴走も聞かない。アメリカの「多元的参加モデル」におけるチェック・アンド・バランスによる政治・経済システムは、もはや一応の成功例と見なさざるを得ないだろう。

◇小説とノンフィクション

 ノンフィクションと比べ、小説の利点は何か。第一に、事実を書いてしまうと自らの立場が危うくなる場合の筆者にとっての自己防衛。どんな文句を言われても「あれは小説ですから」と言ってしまえば責任を追及されることはない。一方で、書きにくいことでも書けてしまう。第二に、筆者の伝えたいことを、ノンフィクションより自由に好きな表現で伝えられること。本書からは、大蔵省の役人が、非常に知的にして聡明な人たちで、常にアカデミズムを交えた高尚な議論をしているかのような錯覚が伝わる。だから、著者の意図を常に考えながら懐疑的に読まないと、著者の思想を刷込まれてしまう。多くは嘘に違いない。

 小説というのは筆者にとっての自己防衛にこそなれ、読者から見ると随分と不満が多い。一方で、それらを差引いて考えれば、内実を知る者であるからこそ書ける事実と思われるものも多く、情報としての価値は十分に高い。筆者は三〇代の現役通産キャリア官僚だ。何分にも情報がない部分なので、書かないよりは世間に貢献している。ただ全体として、文章が長ったらしいと思ってしまうのは私が新聞記者だからだろうか。同じ情報・同じ感動を、もっと簡潔な文章で伝えることは十分に可能だと思う。 (98/9)

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(上刊)「『二階組』と『四階組』とは、なんと入省時から仕分けられているのが普通である。新規入省者のトップは官房文書課に配属され、以下、官房秘書課、主計局総務課、主税局調査課の順に続く。こうやって入省時から同期内のヒエラルキーを明確に示すことにより、組織の安定性だけでなく『金融の財政への従属』という政策の基本的フレームワークを制度的に維持するのが、大蔵省の人事政策の基本方針なのである。」

「大蔵省からは、毎晩深夜の2時に独身寮行きのマイクロバスの定期便が出ている」

「実際の経済運営で経済学の有効性をまったく示し得ていないことが、経済学者にとっての最大の弱みなのだ。『そんなに頭がいいなら、なぜ金持ちじゃないの?(If you are so smart,why aren't you so rich? )』アメリカで、政府の経済政策を批判することだけが得意な経済学者やジャーナリストを皮肉ってよく使われる言回しである。」

「どの新聞も、政治家主導で危機打開策を早急に打出すべきだという総論では一致するのだが、肝心のその先ーー対応策の具体的・現実的なあり方にまで踏込んでいるのは、わずかに日本政経新聞一社だけであった。…紀村に言わせれば、政策を批判することだけで飯を食っている野党やマスコミほど楽な商売はなかった。そもそも政策などというものは、ケチをつけようと思えばいくらでもケチをつけられるものなのだ。逆に言えば、もし完璧な政策などというものが存在するとすれば、世界中のどの国も同じような政策を実施して、同じように繁栄するはずなのである。…そもそも、政治部や経済部の記者のうち、法学や経済学の専門教育を受けた者は何割いるのであろうか?そういう彼らがすぐに持ってくるのが、他国の例である。歴史や文化のまったく異なる他国の制度を称賛して、自国の制度をこき下ろすという奇妙な風潮が日本に根付いた一因は、マスコミや学者の創造性のなさにあることは間違いないーー。」

「大蔵省大臣官房秘書課ーー。一般の会社では、さしずめ人事課に当る課とでも言えばよいであろうか。その仕事は、表向きには省内の人事異動や新人の採用であるが、裏では、省内の機密事項や職員のプライベート全般に目を光らせる。もちろん、その裏の部分こそが秘書課の主領域だ。企業への天下りの押しつけから、怪文書の出先の探索、職員の思想チェック、女性問題の処理まで、人には言えないような仕事で大半の時間・労力が費消される。…ほかの組織の例に漏れず、大蔵省の秘書課には各年次のエースが集められている。そして、いったん秘書課に配属された者は、何回も秘書課に戻ることになる。機密事項は、なるべく少数の者だけで共有させようというわけだ。」

「『つまり、知能犯罪を犯しうるような知性を持った人間は、ある程度以上の生活水準を享受しているのが普通だ。とすると、犯罪が発覚して牢屋にぶち込まれた際に彼らが失うものは、平均的な犯罪者に比べてはるかに大きい。要するに、犯罪が露見した場合のリスクが高いゆえに、そういった人間の犯罪市場への参入が抑制されているというわけだ。まあ、こんなことを公では絶対に言えないが、犯罪と学歴や所得との間に強い負の相関関係があることは、警察庁内の心理学・社会学的研究でいやというほど出てくる』」

「『民主主義においては世論の力は絶対だ。猛牛と同じで、正面から突かれたらどんな優秀な闘牛士だってひとたまりもない。この大蔵省も、通産省も、創新党もだ。その気になれば、彼らは大蔵省設置法はおろか、憲法だって改正できる』『ええ、それはまあ』それがどうしたのだ、と酒田は言いたかった。『だが幸いなことに、絶対の権力者のはずの民衆は、猛牛以上に無知だ。だから、われわれのやるべきことは、赤いマントをヒラヒラさせて、世論をわれわれの望む方向に突進させることだ。そのマントの裏にわれわれの敵がいれば、さらに申し分ない』…『だからこそマスコミも、無知な猛牛と変りないんだ』そう言いながらその男は、窓を少し開け、外の空気を吸込んだ。『君の言うとおり彼らの批判には、まったく体系性がなく、官僚や政治家を叩くという目的しかない。朝刊で規制緩和を唱えたかと思うと、夕刊では民間企業の不祥事についての担当官庁の監督不行届きを叩くーーという具合にな。しかし、そういう行動様式こそまさに盲目の牛じゃないか?経済学者のように一貫した主張をしている者の論調を操るのはかえって難しい。それに引換え、マスコミとそれに扇動された世論なら、赤いマントを目がけて一気に、それも盲目的に突進んでくる』」

「『国民は、本当に金融自由化をするのがいいかどうかなど、真剣に考えてみたこともないに違いない。ただマスコミの論調に乗せられて、大蔵省や大手銀行はけしからんとか吠えているだけだ。今回も、どう世論が流れるかなど、わかったもんじゃない』『ーー呆れた』聡美は、心の底からそう言った。『学生時代とまったく同じようなことを言うのね。そんなに国民を馬鹿にして、よく公僕が務まるわ』『馬鹿にしているわけじゃない。たしか、君なんかが好きなアメリカの政治経済学者は、世論は『合理的であるがゆえに無知(rationally ignorant)』であると説明しているんじゃなかったっけ』…『つまり、こういうことだ。賢い国民は、小さな村の村長選でもない限り、自分の一票が選挙結果を左右することなど有り得ないことを知っているーー実際、一票差で決った国政選挙など今までにないだろう。だとすれば、政治なんかに興味をもって、新聞の政治面を読んだり、時間を費やして真面目に投票所に行くのは、賢い国民にとって、合理的な選択ではない。』」

「『戦後だってそうだ。世論の言うとおりに、福祉を拡大して減税しつづけていたら、日本の財政はどうなっていたと思う?大蔵省が、世論やそれにバックアップされた政治家に抵抗しつづけてきたからこそ、日本は何とか財政破綻せずにすんできたのじゃないか。日本だけじゃないーー君の好きなアメリカでも、世論の過半は常にベトナム戦争を支持したし、対ソ連でもいつも必要以上に強硬だった。日本に対してだって、アメリカ政府が世論に忠実だったら、とっくに日米貿易戦争が勃発しているよ。要するに政治や行政ーー特に世論から制度的に隔離された行政は、世論が真に理知的な思考の結果生み出された安定性のあるものか、それとも、政治家やマスコミなどによって煽られた場当り的なものかを見極めて、後者の場合には、国民にとって長期的に利益になるような道を、一時的な世論の高まりに反してでもあえて選ばなければならない』」

「『日本のマスコミの批判には一貫した論調はなく、対象だけがあるんだ。…新聞の一面で『効率』の向上の観点から政府を批判したかと思うと、社会面では『平等』の観点から政府批判を行ったり、米欧のよいところだけを取ってきて日本と比べたり、やりたい放題だとは思わないか。こういう状況を指して、バークレーの日本政治専門の教授が、日本は『いじめガタ社会Bullying Society』、あるいは『妬み型社会Envying Society』だと言っていたーー』」

「プリンストン大学時代に使っていた、『Democracy in America』と『The Federalist』だ。民主政治に内在する論点のほとんどは、現在でもこの二冊の古典に集約されている。だからこそアメリカの大学生は、専門の如何にかかわらず、大学一年次にこの二冊を読まされるのだ。」

「ハミルトン、マディソンといったアメリカ建国時の思想的リーダーたちの手による『The Federalist』、そして、19世紀前半にアメリカに滞在した若きフランス人トクヴィルが著した『Democracy in America』は、民主主義の美点は認めつつも、一方で民主主義の抱える問題点を残酷なほどえぐり出している。彼らが危惧した『多数者による専制』は、奇しくも、制定当時最も民主的と言われたワイマール憲法下のドイツで、ナチスの手によって実現することになる。こういう民主主義への強い懐疑心は、リップマン、キー、コンヴァース、ミラーといった20世紀の代表的なアメリカ政治学者によって引継がれる。彼らは、民主主義の依って立つ世論に着目し、それがいかに無知で、非理性的で、不安定で、扇動に乗せられやすいかを、数々のデータを駆使して統計学的に実証した。…個人の合理性を想定する経済学者は、政治学者の行ったそういった統計解析の結果を、『国民は合理的であるがゆえに無知』であると解釈するのだが、説明はどうであれ、国民は政治経済現象に無知であるという結論に変りない。こういう民主主義悲観論が渦巻くなか、民主主義や、その依って立つ世論の問題点を克服するために唱えられてきたものの代表が、行政府の立法府からの独立なのである。つまり、場当り的でヒステリックな世論に対抗する勢力として、継続性・計画性・理知性を備えた行政府が必要というわけである。『The Federalist』の筆者たちや、その当時の代表的なリベラリストで後に大統領となるジェファーソンでさえも、立法府の優位から行政府の独立性をいかに担保するかについて腐心している。民衆の意志形成能力に懐疑的であったトクヴィルは、行政エリートに計画性・理知性などを期待した。さらに、現代に至るまでのアメリカ政治学者の多くも、行政エリートの独立性の重要性と、その果すべき役割の大きさを強調する。」

「果して日本の官僚は、政治から独立して、国家にとっての理想を追及してきたのであろうか?…違うーーと聡美は思った。それどころか日本の官僚は、多くの場合、自ら独立性を捨てて政治や財界に近づき、自らの利益のために彼らと取引をしてきたのだ。政治家には、『票とカネ』に結びつく1〜2割の行政領域を差出し、残りの8〜9割を自分の思うままに操る。産業界には、自省からの天下り人員に応じて、発注や補助金を割振る。…現在の日本にあるのは、その政官の2者に財界が談合的に加わり、政官財で隙間がないほどぴったりと結合した強固な均衡状態である。そして、政官財3者の頭のなかにあるのは、いかに利益を3者でうまく山分けするかということだけだ。3者の結合の外に置かれた『世論』『国民』『社会全体の利益』といったものについては、3者の利益に関わる場合にしか真剣に省みられない。」

「最近では、銀行が発行する社債と金融債では、金融商品として表向きの発行条件等はほとん変らなくなってきたが、それでも大蔵省は、金融債にいくつかの目立たぬ特権を認めつづけてきた。たとえば、金融債に認められた匿名性は、富裕家による脱税の温床となってきたにもかかわらず、大蔵省はそれを放置してきた。また、税制上も、金融債は社債等よりも優遇されつづけている。産金が、小規模の行員・支店数で上位都銀並みの資金量を確保しつづけてこられたのも、まさにこの金融債の発行権限のおかげであった。しかし、その金融債にも都銀の触手が伸びてきていた……。…どうやって都銀に対抗すべきかという点を巡って、産金内部では激しい対立があった。いまだに金融界のリーダーの地位をあきらめきれない者は、長短分離の日に向け、他行との合併などによる規模の拡大を主張した。彼らは、デパート派と行内で呼ばれる。それに対し、規模ではとうてい都銀に太刀打ちできないと割切る者は、少数精鋭のアメリカ型投資銀行への転換を唱えた。いわゆる、ブティック派である。」

(下巻)

「この数十年、経済学会においては、シカゴ大学を中心とする中西部系大学とMITやハーバードを中心とする東海岸系大学とが激しい学派論争を繰広げてきた。たとえば国家財政・金融などを扱うマクロ経済学の分野において、シカゴ学派と総称される中西部系の大学の研究者は、政府の市場への介入の有効性を徹底的に否定する。そういう政府介入批判の先頭に立つのが、95年度にノーベル賞を受賞したシカゴ大ロバート・ルーカス教授率いる合理的期待形成学派である。80年代に隆盛を極めたこの一派は、それまで支配的だったケインズ理論を徹底的に批判し、一時は『ケインズを殺した』とまでもてはやされた。これに対し、MITやハーバード大の教授陣の多くは、シカゴ学派の影響を受けつつも、ケインズ理論の伝統を受継ぎ、政府の市場への介入は少なくとも短期的には有効になりうると説く。90年代に入る頃からシカゴ学派に対し激しく巻返してきたこの一派、いわゆるニュー・ケインジアンの主要メンバーは、20代から30代の若手経済学者たちである。この両学派のギャップは、<市場>というものの本質をどう考えるか、あるいは人間個々人の<合理性>をどう捉えるかといった、哲学的な質問に対する考え方の違いにまで由来する。市場が完全に自由競争状態にあるーーとのアダム・スミス的な仮定から理論を演繹するシカゴ学派に対し、ニュー・ケインジアンは、シカゴ学派が想定するような完全競争市場などというものは現実にはありえないと批判し、そこに政府介入の余地を認めるのである。この2派の対立は、少なくともアメリカにおいて、現実の経済政策の運営に色濃く反映されていた。伝統的に<小さな政府>路線を支持する共和党は、80年代にレーガンが政権を握ると、当時全盛期を迎えていたシカゴ学派的な経済政策を次々に取入れた。これに対し久方ぶりの民主党政権であるクリントン政権は、<MITマフィア>と陰口を叩かれるほど多数のMIT出身者を政権内に採用し、共和党政権時代に進んだ貧富の格差の是正に取組んだ。」

「なぜ、全人口の5%を占めるに過ぎないコメ農家の保護のために、残りの95%の国民が、アメリカの10倍もの米価を甘受するのか?高田は、『争点の束』という政治経済学上の考え方によってこのパラドックスが生じる一因を説明した。民主主義体制下において国民は、数年間に一回行われる国政選挙で一票を投じることができるに過ぎない。つまり、その投票行動こそが、国政と国民の意思との間の、唯一の公的なつながりである。そこにパラドックスの入り込む余地があると高田は言う。『ここで注意しなくてはならないのはーー』と高田は言った。『1つの選挙ごとに、景気、福祉、政治倫理、安保、貿易、教育、農業、等々、多数の争点が含まれるということなんだ』…『要するに、選挙において国民は、それらの争点の束のうち、ほんの1つの争点についてしか判断を下し得ないんだ。それが、少数者や利益団体につけ込む隙を与える』…『つまり、こういうこと。国民は選挙において一票しか持っていないから、そのときどきで最も重要だと判断した争点で、自分の考えに一番近い政党あるいは候補者に投票する。…その場合、コメ農家にとっては、どんなに消費税やら住専やらで国や世間が騒いでいても、農業政策が常に最重要争点だから、農業問題で自分に好ましいことを主張する政党なり候補者なりに常に投票する。一方、ほかの95%の国民にしてみれば、農業問題が最重要争点に上がることはそうめったにないーー住専とか政治汚職事件に比べると、農業問題は地味だろう。…こうやって少数者が勝つというわけ。もし個別争点ごとに国民投票をすれば、相当結果は違ってくると思うよ。要するに、無数にある争点の束のうちの1つにしか一般国民は意思を示すことができないから、残りの争点では少数者の意思が通りうるという理屈だよ』」

「内閣法制局ーー一般人にはほとんど知られていない小さな政府機関であるが、その役割・権限は絶大である。行政府内における『法の番人』として、三権分立を一手で担保している機関といっても過言ではない。三権分立との関係で簡潔に言えば、行政府とは、立法府が制定した法律を執行する機関である。しがたって、行政府はいかなる政策を実施しようとする場合においても、その政策が既存の法体系と整合性が取れているかを確認しなければならない。ーーそして、行政府内においてその確認業務を任されている機関こそが、内閣法制局なのである。各省庁の官僚は、新規立法の場合はもちろん、画期的な新政策を立案する場合や、重要争点に関する大臣答弁を作成する場合など、節目節目において、内閣法制局の承認を得なければならない。このため、霞ヶ関の官僚は、内閣法制局に対しまったくと言っていいほど頭が上がらないのである。官僚のなかの官僚と呼ばれる主計官僚も、その例外ではなかった。」

「『経済学者が、<市場の失敗>が存在すると同時に<政府の失敗>も存在すると指摘するように、<民主主義の失敗>だけでなく<官僚の失敗>といったものも存在するのは間違いない。…民主主義悲観論的な考え方は、あくまで、アメリカ政治学会ーー特にそのなかでも世論研究者の通説的な考え方だ。政治学には経済学と違って体系性がないから、すべての分野の政治学者がこう考えているわけではない。まあ、政治学の諸分野のなかで、世論と選挙に関する研究が最も進んでいると言われているのだから、この選択は許されるんじゃないか』」

「経済学者は、そういう場合の<政府>による市場への介入を批判的に捉えるが、問題なのは、彼らのほとんどが、<政治>と<行政>、あるいは<政治家>と<官僚>との区別をせずに、ただ<政府>と一括している点だ。たとえば経済学者が政府による規制の批判をすると、マスコミはそれを官僚批判と取るが、経済学者が批判しているのはあくまで<政府>だ。もちろん、<政府>を批判するということは、その主要構成部分である<行政>あるいは<官僚>を批判しちえるということでもあるのだが、経済学者は同時に<政治>も批判している。ここで、政治学者との間に第2の大きな食違いが生じるんだ。政治学者は、民主主義過程を通った<政治>が、経済的に愚かで不合理であると考えるがゆえに<行政>の介入を評価するのだが、経済学者は自動調整機能を持つ<市場>に、<政治>と<行政>の複合体である<政府>が介入することを批判する。なんとなく座標軸が噛合っていないと思わないか」

「失言が起きて均衡が崩れると、民衆・業界に加え、その民衆・業界に民主主義過程を通じて突き動かされる政治家は、きわめて経済的に不合理な方向へと突っ走る。あらゆる金融機関の救済をすることが、民衆・業界の短期的利益に沿うからだ。つまり政治学者は、民主主義過程の調整に任せると、均衡は依然より長期的に見ていっそう経済的に不合理なーー護送船団方式をいっそう強化したようなーー悪均衡に落着くと考えるわけだ。まあそれが、政治的には合理的な均衡なのかもしれないが。…世論とか民主主義に対する懐疑は、政治学あるいはそれと結びついた大衆心理学の共通理解じゃないか。いかに世論が近視眼的で、場当り的であるか。いかに民主主義が経済的に見て不合理な結果をもたらすか。いかに民主主義と高度な経済発展を両立させることが難しいかーー。こういった、なかなか建前では言えないようなことを実証研究で裏付けてきたのが、世論政治学なんだ」

「政治学のペシミズムと経済学のオプティミズムーー。過去に、政治学と経済学とを批判的に比較検討した者はあまりいない。政治学者も経済学者も、お互いに相手を黙殺することにより自己の存在を正当化してきたからだ。だからこそ、紀村のこの単純明快な対比を聞いた時、聡美は目から鱗が落ちるような気分になった。」

「政治学者がいう通り、<民主主義>は日本において憲法で規定されており、その民主主義過程を通った法律は、<市場>までをも消滅させる力がある。一方、<市場>については憲法上何らの規定もないから、法論理的には<市場>は<民主主義>に従属するのだ。」

「『そんなはずはない』紀村は首を振った。シカゴ学派の愚かさは、八〇年代の南米諸国で実証ずみのはずだ。『シカゴ学派の考え方はあまりにオプティミスティックだ』」

「均衡状態が崩れ社会が不安定化すると、民衆は民主主義過程を通じて、安定化措置を施すよう政府に働きかける傾向がある。これは過去の例から見て実証的に説明できる傾向だ。また、政治家・官僚・財界人も、既存の制度下で十分に権力や富を得ることができていたわけだから、その制度の保全に走る。…その過剰な保護は、保護の合理性がなくなった後も、政官財の談合体制によって維持されてきた。大恐慌の際のアメリカだってそうだ。銀行と証券の分離を定めたグラス・スティーガル法や、州を超えて銀行業務を行うことを禁じたマクファーレン法は、そもそもは、大恐慌のときに金融秩序を安定させるために制定されたのだ。それがいまだに、アメリカの金融システムにおける最大の規制として存続している。」

「『単純に、車による通行を明日からいっさい禁じれば、交通事故は簡単に根絶できる。しかし、そんなことは政府はしない。なぜだと思う?』『それは』『そう、車の通行を禁止しようものなら、日本が経済的に大打撃を受けることがわかっているからだ。つまり、交通事故によって失われる年一万人の人命より、車の通行によって得られる経済的社会的利便のほうが高いと判断していいるからこそ、政府は交通事故による死者を黙認しているんだ』…『ハイジャック事件などが起きると、政府は、人名は経済的価値に置換えられないというが、それが建前論に過ぎないのは、交通事故に対する政府の対応を見ればわかる。…国民のなかにも、交通事故の死者をなくすために車の交通を全面的に禁じようと主張する者などいないだろう。つまり、政府のそういった対応は国民の暗黙の合意をも得ているのだ』」

「大蔵省で、OBの人事案件を一括して処理するのは官房長である。だから、今後の永井の人生は梅野の手中にあるといって過言ではない。」

「『違法行為をしていなければ何をしてもいい、という理屈は、この国ーーアメリカでしか通用しません。あなたのような自称エコノミストが認識しなければならないのは、法律と法は同義ではないということです。この世に存在するありとあらゆる法のうち、法律とはほんの一部のものでしかない。だから、人間としてある社会で生きていくためには、法律だけでなく、慣習、倫理、道徳など、広い意味の法を遵守していかなければならない。そういう意味で、あなたの採った行動は、日本の共同体社会の規範観念に照らして決して許される行動ではありません』」