「政治ジャーナリズムの罪と罰」/田勢康弘/94年、新潮社

◇この人は、日本のマスコミ人の典型的な悪要素を持っている。すなわち、「自分を棚に上げる能力」を持ち合わせている。散々に批判しておきながらも、いつまでも会社に居座り、日本記者クラブ賞まで平気な顔して受け取っているから笑わせてくれる。自分が全く見えていないのか、自分が批判するマスコミ界に長く居すぎて、感覚がマヒしているのだと思う。記者クラブがぬるま湯だ、政治部記者が金魚の糞だ、などと批判ばかりするが、自分が会社の中で出世して、影響力を持つ立場になったのに、いったい、何を変えることができたのだろう。何も変わっていないことなど、彼が批判する有害無益な「サツ回り」をやらされた私でなくても、外部の者でもよくわかるだろう。それに対して、彼は何かできたのか。何もできずに、相変わらず、会社のカネでハーバード大学に留学しているだけである。私のように、会社にはっきりと意見している身からすると、全く、見ため通りの気弱で情けない人にしか見えないのである。

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「僕がいま君に言えることは、ジャーナリストにとって大事なことは、数々の特権に胡座をかくのではなく、ごく普通の生活をすることだと思う。」

「もっと深刻なのは、政治ジャーナリズムが『政治』と『政界』を混同しているということである。新聞の政治面を見ていただければ分かるように、永田町のゴシップにすぎないような話が、たくさん載っている。こういう記事は『人間臭くておもしろい』と比較的注目度が高いため、年々、その比率は高まっている。そのこと自体は悪いことではないが、問題は取り上げる話題と視点の貧困さにある。」

「日本では大学卒業前にマスコミの入社試験を受ける。倍率はかなりの高さで、難関を突破したこれらの若者たちは、潜在的な能力は相当高いはずである。典型的なパターンは、初めの5、6年、地方の支局勤務となる。そこで地元の警察を担当するのが定番コースだ。長い間、わが国のジャーナリズムの世界では『サツ回り(警察担当)こそ、新聞記者の原点』といわれてきた。いまでもそう思っている人も多いだろう。新聞記者が一般に不勉強なのは、このサツ回りの経験によるものではないかと思う。この世界は一種の徒弟社会で、序列がものをいう。しかも、『頭ではなく足で書け』などと先輩記者がたたき込むものだから、物も考えず、本も読まない記者たちが異常発生した。…こういう意味のない、しかし極めて重要な難関を突破して、晴れて希望の部署、たとえば政治部に配属されたとしよう。しの日からペンをかたどった国会記者バッジを胸につけるようになる。最初の配属は首相官邸である。テレビで首相が官邸の門を入ってくる場面を見た人ならば、その周りに20代後半から30代初めの若い記者たちがまつわりついているのを記憶していることと思う。あれである。朝から晩まで金魚の糞のように首相について歩く。官邸詰めを1、2年で、今度は官庁担当や野党担当などになる。いつになってもキャップの指示がなければ、好きな取材もできなければ、好きな記事も書けない。そのうち自民党担当になり、主流派閥を受け持つ記者になる。」

「朝日新聞にいた筑紫哲也氏はテレビ朝日の「こちらデスク」という番組を持っていたが、そのテレビ朝日は社運を賭けたニュース番組に筑紫氏ではなく、久米氏を起用し成功した。腸捻転のようなこの起用の不思議さを筑紫氏に聞いたことがある。彼はこう言った。『隣の芝生は青く見えるんだよ。その人の新しい魅力や能力はよく知っているほど気がつかないものなんだね』」。