「『新聞記者』卒業」/古川利明/99年、第三書館

 全く同感の一冊。同じことを感じている記者も結構いるんだな、と思った。すべて事実だし、私が3年という短い期間で体験してきたことと重なる部分がほとんど。八年を記者として過ごしながら、全く染まらずにいた筆者は、真っ当なジャーナリストである。こういう人から見切られてしまうような新聞業界で働いている人たちは、これを読んで恥ずかしくないのだろうか。今の新聞業界で何の疑問も持たずに体制に寄り掛かって人生を送っている人たちは、きっと悔いる時が来る。早く気がついて欲しい。全く、哀れみさえ感じてしまう。(99/10)

---

「東京新聞では年に何度か、テレビの視聴率のように、どこの面がいちばん読まれているかを内々で調査しているのだが、オレがいたときの『TOKYO発』は一面や社会面、さらには老舗の特報面なんかも抜いて、ダントツの一位だった。もちろんオレたち現場の記者にも大きな励みになった。ところが、『TOKYO発』を含めて、東京新聞がこうした都庁の公費不正支出を追及する記事がその後、消えてしまった。それはだいたい1997年の春くらいからなのだが、結論から先に言うと、都庁サイドの意向に配慮する形で、会社が批判記事を『自主規制』してしまったのである。そこにはどうしようもない『営利優先の論理』が働いており、あっさり言ってしまえば、ジャーナリズムの志よりもカネ儲けの方が大事ってことなのだが、まずは、そのへんをあぶりだしながら、『新聞って、いったい何なの?』ということを考えてみようと思う。」

「だから、オレは酒向編集局長宛てに内容証明郵便を送り、残していった記事の掲載を要求した。それからしばらくすると、『明らかな不正は見えないし、掲載するほどのものではない』という山田社会部長名の回答書が自宅に届いた。これを見てびっくりしたのは、『新聞社でもカラ出張はよくやっていることであり、特におかしいとは思わないし、私自身もやったことがあり、良心の呵責はない』と言い切っていることだった。ここまで来ると、驚きを通り越して、あきれて開いた口が塞がらない、といった感じだった。」

「それがなぜ、いったい退社に至ってしまったかといえば、その大阪社会部の軍隊的な体質(というか軍隊そのもの)にうんざりしたからである。…いまは何年入社の人間がデスクになっていて、きゃっぷクラスはそれより4−5年下だとか、キャップの頭越しにデスクに原稿の相談を持ちかけてはならないとかいったふうに、年功序列のヒエラルキーが、そこにいる人間をがっちりと締め付けていた。とにかく、大阪の社会部というところは、毎日新聞に限らず、どこの社も病的なレベルまで事件にのめり込んでいたし、いまでも基本的にはそうだ。『火事でヤキトリが出たみたいだ』『ガンクビ取りにいってくれ』ってことで朝から晩までポケベルピーピー鳴らし倒され、泊まり勤務のときに、夜、火事現場へ行った時なんて気違いキャップが『出火原因がわかるまで社に上がってくるな』ってね。…もうこれは一種のイジメである。自分らが社会部に上がってきたころは、そうやって植えから小突き回されたんだ。『オレも昔はそうだった』という極めてレベルの低いコンプレックスがあるから、その恨みを晴らそうと同じことを繰り返しているだけである。要は体育会の先輩による後輩へのシゴキと同じなのだ。」

「いまでも時折、新聞記者時代を思い起こしたり、昔の仲間と連絡を取ったりすることもあるが、残念ながら現在の新聞社の組織にはもう戻りたいとは思わない。本当に残念なことだが、新聞記者を辞めてせいせいした、よかったというのが偽らざる心境なのだ。…これ以上、あの組織の中にいたら、酸欠による窒息状態からやがては脳死に移行し、日本の大半の新聞記者たちがそうであるように、単なる会社のコマの1つにすぎない『社畜』としての地位に甘んじていたことだろう。この国においては、いまなお出る杭は打たれるし、調和を乱す者は徹底的に嫌われ、ムラ八分に追い込まれたりする。そうした大人社会のゆがみをそのままトレースしたのが、いまの学校現場でのイジメである。」

「確かに社説や一般の記事でも、『年功序列』『終身雇用』という会社第一主義は終わった、などと新聞はさもものごとはわかったような顔をしているが、現実は表向きリベラルで物分りのいいフリをしているにすぎない。それは実際に彼らの行っていること(新聞記事)とやっていること(日々の具体的な行動)の違いに目を向けたら一目瞭然である。両者の間にどれだけの矛盾、乖離が存在し、いかに新聞記者たちが冷戦時代の旧思考に骨の髄までしゃぶり尽くされているかがよくわかる。こうしたインチキぶりを一般の読者はなかなか見抜くことができないのだろうが、その一方でそうしたウソに感づいている人も少しずつではあるが、増えてきているとは思う。」

「いざ、『自分の頭でモノを考えて行動しろ』と言われても、どうやっていいかわからない。ポリーヌ・レアージュの小説『O嬢の物語』の冒頭に『奴隷状態における幸福』というタイトルで描写されているように、それは解放された奴隷たちが何をしていいのかわからず、再び束縛を求めて主人のもとに走ってしまう光景にも似ている。この典型例が、1996年2月に勃発した鎌倉市役所記者室の廃止騒動だろう。これはどういうことかというと、鎌倉市がその年の4月から記者室の提供を廃止し、その代わりに『広報メディアセンター』なるものを設置し、クラブに加盟していないメディアにも部屋を開放して将来的には電話代などの取材実費を利用者負担にする、ということをブチ上げた。音頭を取った竹内謙市長は朝日新聞のOBだから、この記者クラブ制度の弊害を身に染みてわかっているから言い出したのだろうが、そのへんのところを彼はこう言っている。『ニュースの価値判断で『官』、とくに中央官庁に寄りかかり過ぎな面もある。そこに改善の余地があるのではないか。自由に取材してもらうという原則に変わりはない。クラブの幹事社だけでなく、どのメディアが言い出した問題でも、会見などで応じることになる。記者クラブには、構成員だけが情報を独占するという閉鎖性があり、任意の『親睦団体』の枠を超えて、実質的に仕事に絡んでいるという面もある』(96年2月14日付け朝日新聞朝刊)まったく竹内市長の言っている通りである。そして、このコメントを読む限り、彼の狙いは実質的な記者クラブ制度の解体にあった。しかし、地元記者会側は猛反発の声を上げた。ダダをこねたわけである。」

「写真週刊誌『フライデー』の98年5月29日号(5月15日発売)が、国税庁によって毎年公表されている高額納税者番付を、記者クラブで解禁する前にスッパ抜く形で掲載した。新聞報道(98年5月22日付け朝日新聞朝刊)によると、資料の流出先が日経新聞の社会部の記者だったことが社内の調査で判明し、その記者が何と依願退職になっていたことが明るみになった。日経側は『事実上の解雇と受取ってもらって結構』と明言しており、上司の編集局長がけん責、社会部長が減給の処分を受けている。要するに、この記者が処分された最大の理由は、記者クラブの『掟』を破ったからなのである。日経の記者が資料を流したために、新聞の横並び報道が崩れてしまったから、『メンツが潰された』と怒り狂っているだけに過ぎないのである。確かに新聞に出る前に発表資料を日経の社会部記者が知り合いのフリーライターに流したのは、あまり褒められた話ではない。しかし、どうしてそれだけでクビになるのだろうか。それはムラの掟を破った人間は容赦なく粛清するということではないのか。まっとうなジャーナリズムの精神からしたら、まったく逆のことを日経新聞はやっているのである。」

「飲み食いのほかに、物品もよくもらった。地方の市役所の記者クラブなんかにいると、盆暮に地元の企業や百貨店なんかからテレホンカードやら商品券を持ってくるんだ。ポンとクラブの机の上に置いてあるもんだから、テレホンカードなんかは贈ってくれた先も確かめずにそのまま財布の中に放り込んで、取材で使ったりしていた。また、これも毎日の大阪社会部時代の話だが、『青灯』(JR西日本本社内にあり、関西の鉄道会社も管轄している記者クラブ)を通じて、阪急電車の全線乗り放題の無料パスをもらっていた。ほかにも同僚だった記者の話を聞いていると、似たようなケースはボロボロと出てくる。例えば千葉県庁の県政担当記者には、東京ディズニーランドの無料入場券が配られている。でも、こんなのはまだカワイイもんで、本社の経済部の記者なんかは盆暮になると企業からのさばき切れないほどの御中元、御歳暮が届けられる。それを見ながら、『あそこの〇〇はよかった』とか言って、記者同士で『品評会』をやっているのである。」

「一般的にニュースソースの秘匿ってのは、ジャーナリストの生命線といわれているが、それは際どいネタであるがゆえに、情報提供者の氏名が世間に公表されることで、さまざまな危害や圧力にさらされることから守るためであって、とりわけ大きな公権力を持つ大臣や官僚のトップが、こと政治信条や政策を明らかにすることとは明確な一線が引かれてしかるべきだと思う。」

「でも、こういうことをコラムに書くだけでもまだ組織の風通しが少しはいいのかなって気もする。これがもし朝日新聞や読売新聞のように組織の締め付けがチョー厳しいところだと、はみ出し記者が出てくる余地すらないし(特に読売)、逆にこうした退社劇なんか極秘裡のうちにこっそりと始末し、『何もありませんでした。私は何も知りません』で済ませてしまうからだ。」

「若手・中堅記者はだいたい2−3年でいろんな持ち場をたらい回しにされるので、専門知識を磨く余裕などないし、それでもっておおむね40歳になるとデスクに上がってしまい、そのまま取材現場から離れていってしまう。こうした状況はどこの新聞社でもほぼ同じである。…いま、新聞社を見渡してみて、40代、50代の名物記者など皆無に近い。ブンヤ稼業とはおよそ縁のない広告や販売、総務などのデスクワークに回されたり、地方のデスクや支局長を転々と回される人も多い。35歳を過ぎると、だいたい先が見えてくるんだ。」

「1998年の10月から埼玉県庁が記者クラブと同じ発表資料を、ホームページでも一般に公開している。こうした動きはすぐに全国に広がっていくだろうし、それ以上に若い世代を中心に『自己責任』という考え方が、かなりしっかりと根を下ろしてきている。」

「マルクーゼの言った『労働の外にユートピアを求めるな。労働の中にユートピアを求めよ』といったテーゼが、もはやブンヤの世界でも成り立たなくなってきているのだ。『人間疎外』という状況は、じつは新聞記者の世界でも相当、深刻な状況になってきている。だから『腐っている』のは、『醒めていく若い夢』を胸に次々と去っていった若い記者たちじゃなくて、大新聞の看板にしがみつくことしか能のないオヤジ連中の方なのである。しかし、そういう声が会社の中枢にいる連中に届くことはまずないし、いまだに新聞社の幹部連中は『自分たちこそが正しくて、辞めていくヤツらこそが根性が足りない』などと思っている始末だ。自浄作用というものが存在しないのである。」

「だいたい現場の記者で、きちんと自分とこの新聞の社説を読んでいるヤツなどほとんどいないのではないか。…記者同士の間で、『あそこの新聞が社説でこんなこと書いていたなあ』と話題に上ることはまずない。もしかしたら、だれも真面目に読んでないから平然とああしたタテマエ(というか『フィクション』)を書けるんだと勘ぐりたくなる。それくらい、社説で言っていることと、現場の記者が置かれている状況はまったく違う。たとえば社説で『この社会で男女差別をなくさなくてはならない』なんて言っている足元で、厳然とした男女差別は新聞社には存在するし、『過労死に至る日本の労働環境はおかしい』といっているくせに、そこにいる記者たちは目玉を黄色にして、毎晩、夜回りをやらされ、いつ死んでもおかしくないというと確かに言い過ぎではあるが、極めて健康によくない状況に追い込まれている。」

「新聞がいちばんタチ悪いのは、表向きはこうした正義の御旗を振りかざしているため、一般読者にはそこで働いている人たちも『進歩的な発想』を持っている、という幻想を与えてしまっていることなのである。…しかし、自分たちよりも若い世代で、なおかつ賢い人間は、こうしたウソ社会の欺まん性にとっくに気付いている。極端な表現で申し訳ないが、新聞なんてのは、ガス室にユダヤ人を送り込んだルドルフ・ヘスが人権だの人命尊重の大切さを唱えているようなものである。それくらい、『ウチ』と『ソト』での顔が全然、違う。あのバブル崩壊を機に、戦後日本の高度経済成長を支えてきたフィクションが白日のもとにさらけ出されたように、それと同じ状況は新聞の現場でもまったく同じことが言える。」

「新聞社ではどういう人間が重宝されるかといえば、休みの日でも会社(支局や記者クラブなどを含む)に顔を出してきて、デスクやキャップの見ている前で猛烈な勢いでワープロのキーボードを叩いて、原稿を書いているフリをする『いい子ちゃん』ってのが、非常にポイントが高くつく。まあ、どこの新聞社でもいるね。夜遅くまで黙々とワープロの画面に向かっているヤツが。…そういうヤツらの姿をよくよく観察すると、喜怒哀楽を持った人間の顔をしてない。切っても赤い血が出るのかどうかわからないような、爬虫類みたいなのっぺらとした表情なのである。新聞社でははっきり言って、休むことは罪悪視されている。これは毎日新聞でも東京新聞でもまったく同じだったが、いちおう盆暮は長期休暇が取れる(といっても連続して一週間がせいぜいだけど)ことにはなっていたが、その条件としてストック原稿を出さなければならないという『不文律』があった。別に原稿を出さなかったからといって、休みが取れないという明確な規定はどこにもないのだが、もし出さないでいると、後でデスクや部長からネチネチとやられることになる。…原稿を使うとなれば、デスクからの問合せがあったりとか、モニターで出てきた原稿のチェックも必要だし、結局、自宅や出先にいてもどこか仕事の気分から抜けることができない。…新聞社の中で連続して一ヶ月の休みをとろうと思ったら、クビを覚悟しなければならない。そういう職場環境の中で働かされている人間が『過労死に至る日本の社会はおかしい』なんて記事を書いているとなると、もはやブラックユーモアだろう。」

「こうしたなかでいちばん多いのが、『アダルト・チルドレン記者』である。要するに、いつも他人とべたべたくっついてないと不安になってしまう、乳離れしていない人間のことなのだが、こうしたマザコンタイプの人間がなぜか新聞社には多い。」

「こうした時代の流れのなかで、ひとりひとりの読者が、各社横並びの『官報新聞』は取らないようにする、というちょっとした動きを積み重ねていくことで、いずれは大きな山をも突き動かすことになるのではないか。ちなみにオレ自身に関していえば、いまは新聞を取っていない。新聞記者をやっていた自分が言うのも何だが、現在の日本の新聞が、本当に毎月、3千いくらのカネを払うに値する代物だとは到底、思えない。新聞など近所の図書館で眺めれば十分である。」

「どこの新聞社でもそうだが、体制に波風を立ててでも問題提起しようとする人間は、すっかり忌み嫌われてしまっている。だから、上から命じられたことを『ハイハイ』ときちんとこなす『いい子ちゃん』記者こそが求められている。口では『個性』だの何だのってエラそうに言ってるが、そんなもの発揮されたら困るに決まってる。だって、問題の本質が見えた人間の目には、いかに新聞社のバカ幹部どもが何も考えてないかって、もうはっきりしているからだ。」

「本来ならこんなときには、労働組合なんかが立ち上がって、ジャーナリズムとしての責任をまったく放棄している社のトップや編集幹部を追及するのがスジなんだろうけど、新聞社の労組もご多分に漏れずそのほとんどが『労使協調』の御用組合だから、問題提起すらないのである。組合ってのは、賃上げってのももちろん大きな活動目標ではあるけど、それ以上に会社組織に属している賃労働者がまともな環境で、つまり人間らしく働けることを保証するために、そもそもの存在理由があるんじゃないんだっけ?」

「同じ保守主義でも、ド・ゴールの場合は、フランスで生きる人間の自由、独立、そしてプライドを自分たちの手で『守る』ことであった。そのド・ゴールの遺書が、パリの廃兵院の中にある解放博物館にひっそりと展示されているのを、偶然見つけた。…こうして葬儀のこまごまとした指示をした後、最後にこう結んでいる。『私の死に際し、フランス政府、そして外国からも昇進、勲章、栄誉、表彰の一切をあらかじめここに拒否することを宣言する。もしそのうちの1つでも与えられるとするなら、それは私の最後の意志を冒涜するものである』遺書の内容もさることながら、書かれた日付を見てびっくりした。1952年1月16日。一回目に政界を引退して、コロンベイのあの邸宅で大戦回顧録を書いていた時期である。」