「新鮮なルール」             ハノイ(ベトナム)  '95 . 8

 タイムスリップしたかのようだった。それも、時代だけでなく、異次元の世界に。生暖かい空気、土と草木の匂い、のどかな田園の風景。道沿いに続く見たこともないコンクリートの建物。

 ハノイのノイバイ空港に着いたのは夜半過ぎだった。市内までは、空港で出会った日本人とオンボロタクシーをシェアしたのはいいが、その道中、あまりのカルチャーショックに、これまで感じたことのない新種の驚きを感じていたのだ。

 30分近くも、舗装されていない土の道を走る。しばらくすると、道の周りは田んぼだけになったようだ。あたりは暗がりかけていたが、街灯のようなものは全く見当たらない。かなりデコボコの道で、勿論、センターラインなどあるはずもないのだが、道路には大型のタンクローリーから自転車、バイク、歩行者、荷車を引く水牛、チキンなど家畜の群れまで、何でもありで、往来している。

 ここを猛スピードで走るのだから、何らかの接触事故が起きない方が不思議であるが、動物たちも、うまくよけるよう訓練されているのか、車が近づくと、さっと横に寄る。

 彼の地では、事故を防ぐために、車とバイクのライトの明り、そして警笛がフルに活用されている。往来のルールは、さながらチキンゲームを思わせる。まず両者が一直線上に向かい合い、警笛音とハイビームで互いの存在を確認し合い、衝突寸前のところで、間一髪、ルール通りに双方が少しずつ右に寄るのである。ライトのまぶしさと警笛の喧騒が、新鮮に五感に訴える。慣れるまでは、擦れ違う度に衝突の危険を感じ、ハラハラさせられる。日本の遊園地では絶対に味わえないスリルだ。慣れても心臓に悪い。そのタイミングの絶妙さには、ただただ、感心するばかりだ。

 つい半日前まで、舗装され尽くした道路と厳しい交通ルールに守られ、無機質なバイクや車ばかりが行き来する姿ばかりを見慣れていた私にとっては、この原始的なルールが、新鮮に五感に訴えた。それは、彼等にとっては、日常の当然のことなのだ。

 『私は今、旅をしているのだな…』

 嬉しい実感が込み上げてきて、久しぶりに興奮している自分を感じた。旅が始まったのだ。


 西には西だけの正しさがあるという

 東には東の正しさがあるという

 何も知らないのはさすらう者ばかり

 日ごと夜ごとに変わる 風向きにまどうだけ…

         (中島みゆき/旅人の詩より)

-----

※ 沢木耕太郎著「深夜特急」でも、著者は似たようなことを思っている。同氏もやはりチキンゲームと表現し、その様相を克明に記した。悲鳴を上げそうになるほど驚き、「神業」と感じていた。「パキスタンのバスは、この壮絶なインドのバスのさらに上をいくものだった。猛スピードで突っ走ることは変わらない。向こうからやって来る車とチキン・レースをやることも同じだ。違うのはそのレースの仕方の凄まじさである。」

 何か、アジア人特有の気性が関係しているのかも知れない。    

   


全体のHomeへ 旅ページのHomeへ 国別のページへ