「職業としてのジャーナリスト」/本多勝一/84年朝日文庫

「ジャーナリストは体制のPR記者ではない。体制の監視役こそが第一の任務でしょう。社会的不正に鈍感な人間など、いかに技術的に『うまい記者』でも尊敬に値しません」──。新聞社に入ってみて思うが、社会的不正に鈍感な記者が、何と多いことか。みんなタコ壷的発想で自身の金銭的欲求と地位の確保のためだけに新聞社にいる。本多氏のような徹底した正義感を持ち貧困なる精神を憎む記者と共に働けたら、どれだけ幸せか。今の社会でここまで正義にこだわって生きている人は貴重だ。彼には、真の男らしさがにじみ出る。賞に対する考え方などは、極めて時代を先取りした壮大なテーマ(右手がやっていることを左手は知らないということが最近では実に多くの組織・集団で起きているが、それを市民としてどこまで許し、また行動で示せるか)だと思う。記者にとっては、『是非モノ』だろう。

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「そして一番問題だったのは、やはり『食』であります。エスキモーの場合、主食はトナカイやアザラシの生肉です。肉だけならまだしも、目玉だの腸だの、ウマバエのウジや、ダニに似たハジラミまで生で食ってしまう。」

「たとえ良い通訳があったとしても、できるだけ自分でも覚える努力はすべきでした。というのは、つまらぬことでも、自分で直接話してみると、意外に面白い発展があったり、痛快な話のきっかけになったりするものです。つまり実のある取材ができる。通訳を通すと、こちらできいたことだけしかわからないが、直接なら、ひとつのことからいくともの興味ある材料がはいってきます。この長所は、かたことであるための弱点を補って余りあるものです。」

「随筆なんてものは、多少のフィクションも加えないと面白くないのかもしれないし、この話はフィクションであってもなくても本質的問題ではありませんが、私たちの応用では残念ながらスッキリとは行きませんでした。スッキリ行くような話はもともと少ないものであります。」

「『アラビア遊牧民』の舞台は、肉体的には案外健康です。ひどい暑さは確かに苦痛ですが、深夜は東京あたりの真夏よりも過ごしよく、乾燥しているから不快感が少ない。それに禁酒禁煙ときている。ニューギニアでいためた肝臓は半年ほど回復しなかったし、体重も減ったけれど、アラビアへ行ったらこれが完全になおり、むしろ就職して以来最も快調な身体になった気がします。帰国すると酒はただちに飲みはじめて堕落ムスリムになったけれど、タバコはそれっきりやめてしまいました。」

「サイゴンの米軍が公式発表するものを、そのまま『正確に』取材して記事にする。これはなるほど正確かもしれませんが、発表そのもののの中に、たとえば政府軍のケンカを『ベトコンのテロ』とするようなウソがあるのですから、結局は権力の走狗とみらえても仕方ありません。しかしこういうことはサイゴンに限らず、いかなる社会体制にしろ、権力のあるところ常に警戒すべきことでしょう。権力は常に腐敗したがる、それを見張るべき最も強力な勢力が、言論の自由を背景にしたジャーナリストでなければなりますまい。このように、ジャーナリストは2重の意味できわめて『危険な職業』であります。ジャーナリストの社会的評価が今よりずっと低かった時代のマックス・ウェーバーでさえも、ジャーナリストという職業を『弱い性格の持ち主、特に、安全な身分上の地位においてのみその精神上の均衡を主張しうるような人々にとって、とるべき途ではありません』(『職業としての政治』)といっているくらいです。」(日本経済新聞労働組合「あしなみ」1968年9月14日号)

「もともと理科系で通してきたから、一般には文科系の職業と考えられている新聞記者になることなど、まったく思いもつかぬことでした。それがなぜこの職業を選んだか。…一般的ホワイトカラー、毎朝9時に出社して夕方5時だか6時だかに退社するサラリーマンの不自由な毎日には最初から耐えられそうもなかったこと、新聞記者なら一見そんな束縛もなさそうに思われたこと、広く外国を歩き回る機会もありそうに思われたこと、あまり社会的関心はないけれど少なくとも書くこと自体は好きなことーーーまあこれくらいが新聞記者を職業に選んだ動機だったと思います。」

「報道とは何かということになると、人によって定義はさまざまであります。しかし最大公約数として、まず『多くの人々に影響のある問題を広く知らせる』という点は、認めてもよいのではないか。いかにミニコミであろうと、最初から『部数が少ないほどよい』ことを理想とするのでは、印刷すること自体が矛盾になってきます。」

「政治記事はどうでしょう。議会が解散し、総選挙となると、各党の政策発表その他の行事が続きます。ところが、その掲載順序は、常に必ず、解散前の議席順となっているのはどういうわけでしょうか。解散すればゼロから出発のはずです。なぜ常に自民党を第一にする必要があるのか。イロハ順、50音順など、あるいは順番にトップを交代するなど、それこそ不偏不党にすべきではないか。」

「刑事訴訟法では、容疑者は弁護人以外の人でも『法令の範囲内で』会うことが可能なはずなのですが、警察側は『取り調べ中』とか『捜査に必要』とかいった口実によって、このあいまいな『法令の範囲』を解釈し、実質的には拒否するのが普通です。弁護人を通じて間接的に接触することは可能ですが、警察側は直接、反対側は間接というのでは、大変な不公平です。」

「問題は単に収入の方法がフリーかどうかにあるのではなく、書くことがフリーかどうかにある。本当に自分がやりたいことだけに全力を投入し、しかもそれを自由に発表する場があること。これが真にフリーのジャーナリストと言いうる条件であります。…問題は、フリーか非フリーかといった生活形態にあるのではないのです。非フリーが権力側の走狗で、フリーが正義の味方だ、といった思考法は、根本的に誤っている。」

「新聞記者というのは、もちろん書く商売のひとつですから、取材をした中で価値あるものはみな書いて、少なくとも最良の部分はみな書いてしまいます。」

「父は一応妥協案を出しまして、薬剤師の免許を取ったらおまえのやりたい通りのことをやってもいいと、そういうことで妥結したものですから、一応薬学部へ行ったわけです。…農学部の遺伝学教室のある農林生物学科へ行ったわけです。」

「現地の、たとえばパキスタンならパキスタンとか、アラビアとか、そういう国の現地の人とほとんど接触しないで、外交官と一部の商社マンとか、簡単にいえばエリート的な者だけで閉鎖社会をつくっている。それでゴルフへいったりなんかしているだけの連中、これにいちばん失望しました。全部とはいいませんが、非常に多いと思います。まあ国によりますが、だいたい日本人の訪れることの少ない国ほど大使館は親切ですが、多い国ほど傲慢になっていきます。」

「多少は事前に本なんかも読んでいきますけれども、なるべく先入観を持たないでいく。いま言った底辺からの取材をしながら、事実を見ていく。事実の積み重ねによって、最後に報告をつくる、そういう方法をとっております。どうして事実を重視するかということなんですが、結局、事実とはなにかということにつながっていきますけれども、そのほうが説得力があるからです。…しかし、事実であればなんでもかんでも同じ比重で拾い上げるかというと、そうではないんで、仮に米軍に従軍していって事実を書くとなると、さっきの鉄砲玉の飛んでる中で稲を刈っているのも確かに事実だし、鉄砲玉が秒速何メートルで飛ぶとか、どういう音がするとか、その音波は物理学的にどんなふうだとか、爆発したところの地下の細菌はどんな種類があるとか、昆虫はどんなものがあったとか、それは全部事実なんです。しかし、それはあんまり意味がないわけで、結局、自分のルポにとってどういう事実が意味があるか、という選択をしていく。従って、全部主観がはいってしまう。…だから客観的事実というようなことはありえないのであって、幻想であります。どんなに意見は言わなくても、ただ事実を書いただけであっても、それは主観的なものだと思います。」

「接点というか姿勢としては、まずこっちをなるべくーーまあ、それは実際的には無理なんだけれども、とにかくゼロにするように努力する。こちらに持っているカルチャーを何もなくすことはできないけれども、表面にはなるべく出さないようにする。相手のカルチャーの中にでき得る限り密着するということが基本的な姿勢なんです。簡単な例をいいますと、海外旅行をするときに、大勢で、集団観光団かなんか作って、仮に50人なら50人の集団でどっかへ行ったとします。ネパールならネパールへ行ったとします。そうすると、その50人の日本人集団が、ネパールという違った文化の中へはいっていくと、ネパールという国の文化がこちらへ向かってくる力が50に分かれちゃうんですよ。1人でもし行ったとすれば、その1人に対して、全身にネパールの文化がはいってくるわけだけれども、50人だと50分の1、まあそれほど数学的な意味で50分の1じゃなくて、象徴的に言っての話ですが、50分の1になってきちゃう。ということは、50人の集団の中で、日本的なカルチャーが生きているわけですね。だから、日本という社会がそこに出来ちゃってるわけですよ、小宇宙が。」

「ある国がうまくいっているかどうかということは、その国のいちばん底辺を見ればわかる。底辺の典型的なものは少数民族である、という考え方から出てくることなんだけれども、中国の少数民族を見たい。…これが幸福な状態であれば、中国を見る1つの目安になるんじゃないか。」

「一億人の文化が高級で、重要で、1万人のアフリカの民族の文化の方が高級じゃなくと、どうでもよくてということにはならない。別に量の問題ではないんで、日本の内部でも、たとえば沖縄やアイヌ独自の文化的伝統がある。それぞれが対等の宇宙をつくっているということが、基本的な考え方なわけです。」

「ジャーナリストの文章の場合、大雑把にいうと4つ、その構成する要素があると思う。まず企画力。2番目は取材力の問題。3番目に構成力。4番目に技術的な意味での文章力。この4つの総合としてジャーナリズムの文章ができていると思うんです。…ですから私はやさしい文章、わかりやすい文章ということに注意してます。これは同時に論理的な文章ということですね。非論理的だとわかりにくくなりますから。…普通なら過去にするところを現在形で書いている。この方法が紀行文の場合特に効果的で、文章のリズムも躍動的ですね。この本では文章のリズムということで非常に教えられました。」

「日本の今の主な新聞社の記者採用方法たるや、銀行や商社や官僚の採用試験と大差はなく、ペーパーテスト中心の日本的大学入試の延長上にあるといえましょう。これでは、小利口で小手先の名文の書ける記者は多産されても、本来あるべきジャーナリストは、こういう所では例外的にしか出てこないのではないか。…TBSは第一次試験は前年と前々年入社の若者が面接、第2時試験は中堅による面接、そして第3次に残った少数にだけペーパーテストをする。新聞社とは逆の発想のこの方法だと、文部省モノサシに育てられた無能な受験秀才型には明らかに不利ですね。」

「ジャーナリストは体制のPR記者ではない。体制の監視役こそが第一の任務でしょう。社会的不正に鈍感な人間など、いかに技術的に『うまい記者』でも尊敬に値しません。」

「マルコムXの自伝というのはいろんな意味で画期的なものだったと思うのですが、書物のタイプとしても、文章ではありながら視覚的なものが伝わってくる。それからマルコムXというその人が非常に肌でわかるような感じがある。ですから最初は『プレイボーイ』えインタビューを出したのだけれど、インタビューという直接的な感覚が今度は本という形でまた再現されているというような意味もあったと思うのです。それからまた、これは1つの実験でもあったと思うんです。たとえば対象となる人物がいる。その人自身かつて踏み込んだことのない領域にまで、あるいはかつて他者を立ち入らせたことのない深さにまで、こちらがむしろその人を連れていくような、…ひとつの対話の形式の中で、その人自身も予想しなかったものを引き出していく。そういうやり方を実験したものだというふうにも思っています。」(ヘイリー)

「ビートルズの4人は1965年秋にエリザベス女王からバッキンガム宮殿でMBE勲章を受けた。このとき同時に受賞した年配者の中にはビートルズ受賞に不満をもらす者が多かった。格が下がるというのだ。これに対して、ビートルズの中でも人気の特に高いジョン=レノンは語った。ーー『ぼくたちがメダルをもらったことに文句をつけてる人の中には戦争中の英雄として勲章をもらった人がたくさんいますね。人を殺してですよ。ぼくたちは人々を楽しませたことでメダルをもらったんです。ぼくたちのほうが、よっぽど正当な理由でもらってますよ。そうじゃありませんか?』(ジュリアス=ファスト『ビートルズ』)。それから4年後の1969年秋、ジョン=レノンはこの勲章を女王に送り返した。理由を書いた手紙には、ナイジェリア・ビアフラ紛争へのイギリスの介入やベトナム戦争へのイギリスの対米支持などが挙げられていた。『人を殺して』受賞した連中と同列にされたことーーというよりも、勲章の基本的性格がビートルズよりもやはり『人殺し』に対してこそふさわしいことを理解したのであろう。」

「今から17年前(1964年)、あれは私がニューギニア高地(西イリアン)にいたため留守の間のことである。この出版社が、私のルポ『カナダ=エスキモー』に対して『菊池寛賞』を出した。むろん私は知らなかったが、当時の私の上司が代理として受け取った。私自身も、文春の現在のような本質など当時は知るよしもなかったので、帰国してからこれを知っても拒否する気はなかった。…げんに、たとえば石牟礼道子氏のような良心的作家は、大宅壮一ノンフィクション賞を直ちに拒否した。…レノンや石牟礼氏や、ノーベル賞を拒否したサルトルなどは、やはりケタの違うことを認めざるを得ない。」

「本田靖春氏やタモリ氏によれば、竹村健一氏は『お茶の間の無知につけこんでいる人』ということになるが、これをもじれば山本氏は『編集者の無知につけこんでいる人』となろうか。もうひとつ『読者の無知につけこんでいる編集者につけこんでいる人』も加えよう。そのような、菊池寛賞にとって最もふさわしい相手が選ばれた今回の山本氏受賞を記念して、私は7年前の約束を果たすことにした。とくに『効果的』でもないかもしれないが、ひとつのチャンスではあろう。賞金と賞品(腕時計)は、日本文学振興会理事長(すなわち文春社長)あてに、配達証明できのう送り返した。賞金に利子はつけなかった。」

「各所に描かれているとおり、それはもはや『労働の喜び』などといったものではありません。『機会が人間のマネをしているのではなく、人間が機械の代わりを勤めている』(第7章)のでした。…『もし宝くじが当たったら』と語るかれらの夢(第4章)は、アメリカ合衆国に連行されてきた黒人奴隷たちの夢と何と似ていることか。」

「この場合『おもしろさ』は目的ではなく、あくまで手段なのですから。ルポの古典『世界を揺るがした10日間』(ジョン=リード)にしても、この意味では決して『おもしろい』ものではありますまい。」

「『見る』取材と『体験する』取材の決定的な違いです。『創造することより他に喜びはない』とはロマン=ロラン(『ジャン=クリストフ』より)の言葉ですが、コンベア労働の恐ろしさは、そのシジフォス的単調さによって創造性を完全無比に奪ってしまうところにあります。創造性ゼロの労働に喜びなどありようがないのです。しかし今の日本の教育制度は、創造能力を子供の時から殺し、与えられたことだけをうまくこなす者ほど点をかせぐようにセットされていますから、日本には次第に『創造性ゼロ』の仕事にも耐える悲しい人間がふえてゆくでしょう。…なお鎌田氏自身の全体像を知るよすがとして、少年用に書かれた『ぼくが世の中に学んだこと』(ちくま少年図書館)があることをつけ加えておきます。」

「全く無名の新人ならその気持ちもわかる。だが、多少とも名が知れて、もう改めて売り出す必要もない『文学者』までが、こんな会社の八百長賞にひっかかったまま、他方では『平和のために直ちに行動を』にはせ参ずるなど、その『文化』人の『両義性』たるや、まさに日本での文化人類学的研究対象たりうる。」

「日本の気候風土には全くあわない背広ネクタイ姿のような服装を、ガマンして会社へ着ていくかなしき無数のサラリーマンたち。こんな風俗さえも、断固として『着やすい服装』の自由を実行するには『勇気』がいるらしい。不快指数の異常に高い夏でも、この植民地的服装をかなぐり捨てるサラリーマンは例外的超少数なのだ。」

「知識人の資格の重要なひとつは勇気だと思うが。今の日本には本当の知識人など『絶無』とは言わぬまでも、あまりにも少なすぎるのではないか。」

「奇しくも私たちは入社の同期生でもある。私たちの入社した昭和34年という年、朝日新聞社は採用試験から『常識問題』を省いた。作文と語学だけを問た。だから私たちは社内では『常識なしの34組』と、からかいと批判をこめて呼ばれており、会社側はそれに懲りたのかその後は絶えてこの入社試験方式は採られていないようである。さらに『伝説』によればこの年に入社組のなかでも成績順位ビリだということになっている私と、若いころから頭角を顕し、ジャーナリストとしての地位を確立してしまった本多勝一とでは較ぶべくもないが、2人とも粕谷氏の『ご推挙』にもかかわらず、朝日新聞を代表してはいない。…むしろ共通しているのは、本書で明らかにされているような新聞製作への懐疑、批判の持主である本多勝一と、就業規則に違反して停職処分になる私がともに『常識なし』入社組のなかでもとくに『鬼っ子』的存在であることではないか。…右手がやっていることを左手は知らないということが最近では実に多くの組織・集団で起きていること、文春のなかにもいいことをやるいい人もいること、過去に余りにも私たち新聞の側が自己説明をしてこなかったこと、…などが生来の私自身の不徹底さをさらに増幅しているのかもしれない。」(筑紫哲也)