「深夜特急2 マレー半島・シンガポール」/沢木耕太郎/94年新潮文庫、86年新潮社
沢木氏が旅に出た経緯が興味深い。「執行猶予。恐らく、私がこの旅で望んだものは、それだった」と記しているが、未来を固定されてしまうことへの危機感は、多くの若人が持っているはずだ。次々に出会っては別れていく著者。政治家というのは、出会いの多い旅人でなければならない。一緒にいるだけで得をした気分にさせる人でなければならない、などと不意に感じてしまった。読む度に胸が熱くなるのは、何か、定住本能の少ないとされる男心をくすぐるからだろう。
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(バンコクにて)
「『ところで、女はいらないか』最後にそう訊ねてきた。なるほど、これが言いたくて、帰ろうとしなかったのか。彼の努力に報いられなくて悪いがと思いつつ、私は首を振った。そんな金はない。『いい女いるよ』いりません。私は神学校の優等生のように断固と拒絶した。だが、その程度ではなかなか引っ込みそうにない。『50ドルぽっきりよ』」
「私はバンコクという街をこんなふうに想像していた。静かな通りを、穏やかな顔をした人々がゆっくりと往きかっている。陽差しは強いが、木陰に入れば涼しく、街路樹の根元では物売りが腰を下ろして休んでいる…。ところが、街に出てみて、それがとんでもない誤解だったということを思い知らされた。バンコクも、当然のことながら、現代の都市だったのだ。とりわけ意外だったのはその騒音である。バンコクは東京や香港以上にけたたましい街だった。」
(シンガポールにて)
「たとえば、ひとりのオバサンが道路に半畳くらいのシートを広げて商売している。そこに並べられている物といえば、ざっとこんな具合だ。まず使い古しのスプーン6本。それをきちんと間隔をあけてディスプレーしている。その横に壊れた錠前3個。これもスプーンと同じように綺麗に並べられている。あとは錆びたハサミが4つに絵具でカチカチになった筆が1本あるだけ。こんな物を買う人がいるのだろうか、きっと商売にはならないのだろう、などと思いながら見ていると、世の中は広いもので、何に使うのか中年のオッサンがカチカチの筆を買っていった。」
「実を言えば、この手のジュースは香港にもあったのだが、その時は私もなんとなく手を出しかねていた。薄汚れたコップが幼い頃から学校などで叩込まれた衛生観念のアレルギーを引き起していたのだろう。しかし、バンコクで、あまりの喉の渇きに耐えられず一杯飲んでからは、むしろ病みつきになった。前の客が飲んだコップをたらいの水をくぐらせるだけで洗うということにも抵抗感を覚えなくなった。旅に出て鈍感になっただけなのかもしれないが、それ以上に、またひとつ自由になれたという印象の方が強かった。」
「自分の経験からしても、これから世界一周の旅行をしようという彼らが、いつまでもコーラに頼っていなくてはならないのは不自由すぎると思えた。サトウキビを万力のようなもので懸命に絞っているジュース屋の親父に、一杯いくらかを訊ねると、十セントという答が返ってきた。『コーラは?』ニュージーランドの若者二人が訊ねた。『四十セント』答える声は小さかった。私がサトウキビのジュースを注文すると、彼らも同じ者をという合図をした。サトウキビのジュースには独特の青臭さがあり、彼らにとっては最も飲みにくいものだったろうが、私が飲み終えるのを見たあとで、まるで薬でも口に放り込むようにして一気に飲干した。『どうだった?』私が言うと、ひとりが叫ぶように言った。『グッド!』もうひとりも意外そうな顔で頷いている。」
「私はもともとこのような世界に足を踏み入れるつもりはなかった。大学を卒業したら当り前の勤め人としてどこかの会社に就職するつもりだった。そして実際、卒業の1年前には丸の内に本社を構える企業のひとつに入社が内定していた。ところが、私たちの大学では長引いた学生ストライキのために卒業が遅れ、ようやく会社に入ることができたのは普通の人より3ヵ月も遅れた7月1日だった。しかし、その入社の日が私にとっての退社の日でもあった。なぜたった1日で会社を辞めてしまったのか。理由を訊ねられると、雨のせいだ、といつも答えていた。私は雨の感触が好きだった。雨に濡れて歩くのが好きだったのだ。雨の冷たさはいつでも気持ちよかったし、濡れて困るような洋服は着たことがなかった。ところが、その入社の日は、ちょうど梅雨どきであり、数日前から長雨が降り続いていた。そして私の格好といえば、着たこともないグレーのスーツに黒い靴を履き、しかも傘を手にしているのだ。よほどの大雨でもないかぎり傘など持ったこともないというのに、今日は洋服が濡れないようにと傘をさしている。丸の内のオフィス街に向かって、東京駅から中央郵便局に向かう信号を、傘をさし黙々と歩むサラリーマンの流れに身を任せて渡っているうちに、やはり会社に入るのはやめようと思ったのだ、と。この話に嘘はない。…就職もしないでぶらぶらしている私を心配して、大学のゼミナールの教官が何か文章でも書いてみないかと雑誌社を紹介してくれたのだ。別にどうしてもと選んだ職業ではなかったが、やってみると意外なほど面白かった。役者が、自分たちの仕事の面白さを説明する時によく用いる言葉に、何種類もの人生を味わうことができるからというのがある。私にとってのルポルタージュのライターとしての面白さというのもそれと似ていたかもしれない。ひとつの世界を知るために、その世界に入っていき、そこで生きてみる。束の間のものであり、仮りのものでしかないが、そんなことを何度でも繰返せるのだ。あるいは、その存在の仕方は、アメリカのハードボイルドの小説に出てくる私立探偵と似たようなところがあったかもしれない。くたびれかけたハードボイルド・ヒーローのひとりはこんなことを言っている。『私は、人々の生活の中に入り込み、また出ていくのが好きなのです。一定の場所で一定の人間たちと生活するのに、退屈を覚えるのです』私たちもまたどんな世界にでも自由に入っていくことができ、自由に出てくることができる。出てこられることが保証されれば、どんなに痛苦に満ちた世界でもああらゆることが面白く感じられるものなのだ。私自身は何者でもないが、何者にでもなれる。それは素晴らしく楽しいことだった。」
「仕事をしはじめたばかりの頃、1ヵ月をこう生きられたらいいのだが、と夢想していた。1か月を3つに分け、月のうち10日を取材、10日を執筆に、そして残りの10日は飲んだくれるためんい使う。かりにそれが3ヵ月を単位にして…となってもいいが、いずれにしても3分の1は好きなことをして暮らす。」
「私は明らかにアマチュアのライターだった。ところが、仕事の量がいつの間にか私を職業的な書手になるように強いはじめていた。プロになるのは御免だった。ものを書くという仕事が自分の天職だとはどうしても思えなかった。私には、どこかで、自分にはこれとは違うべつの仕事があり、別の世界があるはずだと考えているようなところがあった。その頃からである。どうにかしなくてはならない、と思うようになったのは。…断りの口実に困り、私は苦しまぎれに嘘をつくようになった。つまり、自分は間もなく外国に行くので仕事は受けられないのだ、と。…私は、春のある日、仕事の依頼をすべて断り、途中の仕事もすべて放棄し、まだ手をつけていなかった初めての本の印税をそっくりドルに替え、旅に出た。…私には未来を失うという『刑』の執行を猶予してもらうことの方がはるかに重要だった。執行猶予。恐らく、私がこの旅で望んだものは、それだった。…多分、私は回避したかったのだ。決定的な局面に立たされ、選択することで、何かが固定してしまうことを恐れたのだ。逃げた、といってもいい。ライターとしてのプロの道を選ぶことも、まったく異なる道を見つけることもせず、宙ぶらりんのままにしておきたかったのだ…。」
(シンガポールにて)
「愛の言葉を囁きあっているのだろうか、顔を接するばかりに近づけている天井のヤモリたちの動きを眼で追いながら、私はそんなことも思っていた。」
「私はこのシンガポールに香港のコピーを求めていたらしいのだ。香港があまりにもすばらしく、一日として心が震えない日はなかったほど興奮しつづけていたため、その熱狂の日々をもう一度味わいたいものと思いこんでしまった。」
「物って増えますよね。もちろん火事とかそういうことがあって、一瞬にして消えてしまうでしょうけど、そういうことがない限り、人の関係とか、物とかがふえていくに従って、不自由になっていきますよね。僕は、そういうふうに物を増やして、関係をふやして、そして不自由になって、安定した感じで生きていくようにはなりたくないと思うんですよね。どうしてもそれはちょっと…。ただ、それでも避けられない、余儀ない物の増え方、関係というのは幾らかは引受けていかなくてはならなくて、その兼合いなんか、本当に難しいですね。」
「物というものにこだわり始めれば、お金というものにこだわらざるを得ないし、お金にこだわると、やがて仕事の選択の自由が失われるという循環だったんです。それがいまでもそのやり方で通してきて、人から比べれば、本当に物なんて少ないし、何もないんだけど、何もないことがとても自由で、とてもよかったんですね。」