「深夜特急4 シルクロード」沢木耕太郎/86年新潮社、94年新潮文庫

 故郷で待っている『真っ当な生活』への不安を感じつつも、1つ1つ、解き放たれて自由になっていく著者。自分とその周りの人間との関わりを、フロイト的な深層心理を読むかのごとく、描いていく。例えば、ヒッピーバスの中の空気を読み、心を読み、解説してストーリーを展開していく。これらの豊かな表現力は説得力がある。イスファハンの王の広場の老人たちを電線にとまった雀たちとしたり、ペルセポリスを、よくできた映画のセットとしたり。私が旅したイランと重ね合わせ、なるほど、と思わせるものが多かった。

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「デリーという町には、カルカッタに似た猥雑さや混乱がなくもなかったが、どこかにインドの首都としての安定感があった。それが私を熱狂に導かない原因であるようだったが、しかしそれだけに、怠惰に時間を潰すのに適しているようなところもあった。」

「アムリトサルは、貧乏旅行をしている者にとってはパキスタンへの国境の町として存在しているが、一般的にはシーク教徒の聖地として、その総本山ともいうべき黄金寺院があるところとして知られている。」

「英語圏以外の若者で、英語を上手に話すベスト・スリーは、ドイツ人、オランダ人、スイス人といったところだろうか。逆に下手な方は、よく目立つという点からいうと、フランス人、イタリア人、そして日本人ということになる。」

「パキスタンとは、なんと豊かな国なのだろう、なんと明るい国なのだろう。食物は道に溢れ、物売りの少年は、バスの窓ごしに眺めている私を陽気にからかう。なんと生き生きとした国なのだろう。女たちはチャドルで顔を覆っている。ヨーロッパから来れば、恐らく不気味と感じたに違いないイスラム教国独特の暗さも、じっとりと湿った重いインドから来てみると、むしろカラリと乾いた心地よさを覚えさせてくれるほどだった。」

「民族独立という美しい名の下で戦い、ようやく勝利したあとで、バングラ・デシュの人々が手に入れたものは、以前よりひどい飢餓と洪水と疫病だった。西の搾取に抗して起した革命の、この栄光と悲惨。いや、それは革命などではなく、搾取の主が西から東の民族資本に移行しただけにすぎない、ともいわれるバングラ内部の退廃。」

「それにしても、パキスタンのバスは、およそ世界の乗物の中でもこれほど恐ろしいものはない、と思えるほどすさまじいものだった。確かにインドのバスもかなりのものだった。さほど広くもない道の真ん中を猛スピードでぶっ飛ばす。もちろん、一台で走っているならそれでもいいが、2時間も3時間も対向車が来ないはずがない。当然、向こうから車がやってくる。そのときインドのバスの運転手はどうするか。何ということか、どうもしないのだ。そのまま道の真ん中を堂々と飛ばし続ける。…『ああ!』と悲鳴を上げそうになる一歩手前でトラックがよける。いや、バスがよけることもある。まるで、アメリカのヘルス・エンジェルスの連中がよくやったというチキン・レースそのままなのだ。逆方向から車を走らせ、どちらが先によけるかで、肝っ玉を試す。先によけた方が臆病者、つまりチキンというわけだ。…パキスタンのバスは、この壮絶なインドのバスのさらに上をいくものだった。猛スピードで突っ走ることは変らない。向こうからやって来る車と肝試しのチキン・レースをやることも同じだ。違うのはそのレースの仕方のすさまじさである。…冗談ではなく、俺はロンドンの土を踏めないかもしれない、と半ば観念しかかった。」

「パキスタンからアフガニスタンへ陸路で越えていく方法は二通りあった。すなわち、パキスタン中部の町であるクエタからアフガニスタン第2の町であるカンダハルへ抜けていくルートと、ペシャワールからカイバル峠を越えてカブールに入っていくルートの2つだ。第一のルートを採ればインダス文明の象徴的な遺跡であるモヘンジョ・ダロに寄ることができた。しかし私は、南に大廻りしなくてはならない第一のルートを避け、ラワール・ピンディーからの最短距離である第2のルートを採ることにした。」

「私がパキスタンに入った時期が悪かった。まさにイスラム圏は断食月の真っ最中だったのだ。朝の六時から夜の六時まで、イスラム教徒であるパキスタン人のほとんどは、食物はもちろんのこと水も飲んでいないはずだった。特別に気が立っていたとしても不思議ではない。断食はイスラム暦の第九月の三十日間にわたって行われる。断食月のことをラマザンというが、それは第九月の名称であるという。」

「宿はひどかったが、ペシャワールという町は面白かった。アフガニスタンのビザを取るため、何日かはここに滞在する必要があった。つまらない町だったらどうしようと心配していたが、それは杞憂だった。とにかくバザールが刺激的だったのだ。…あちこちに鉄砲屋があり、ライフルや短銃を並べて売っている。売っているばかりでなく、そこを行交う人々の肩にも銃がある。弾帯を体に何重にも巻付けた男たちが、バザールの商店を見て廻っている。」

「フィルムは白黒だが、ところどころに色がつく。いわゆるパート・カラーというやつだ。日本の古いピンク映画なら、男と女がベッドに倒れ込み、怪しげな行為に及ぶと、不意に間の抜けた音楽と共にカラーになるのが常だったが、セミ・ヌードすら禁じられているパキスタンでは、当然のことながら色のつくのはベッド・シーンではない。舞踊、なのである。ハレムのようなところで女たちが踊出すとカラーになる。…このシーンが始まると観客ものってきて、場内の空気が熱く揺れはじめるのだ。これはインドでも変らぬ光景だった。」

「アフガニスタンの領土内に入ると、バスは頻繁にストップするようになる。道の真ん中に木でできた簡易な遮断機が下りているのだ。そのたびに車掌はなにがしかの金を手に飛出していく。その横にいる男に通行料のようなものを払うらしいのだ。男は金を確認すると、綱をするすると引張り、遮断機を上げる。これがやたらとある。聞くところによれば、この収入は地方の行政府とその土地の部族が折半するという。アフガニスタンにあるのは、国家ではなく部族だ、法律ではなく掟だ、という言い方があるが、まさにその遮断機は部族の関所という感じがする代物だった。」

「平たく丸いせんべいの親玉のようなパンを、インドではチャパティと呼び、パキスタン以西ではヌンと言う。面白いのはチャイの飲み方だった。」

「チャイの飲み方も国によってずいぶんと違うものだった。インドではチャイといえばミルク・ティーのことで、紅茶とミルクと砂糖を一度に煮込む。パキスタンではほとんどミルクを使わない。アフガニスタンではポット一杯が一人分であり、砂糖を一度に入れてしまう。」

「アフガニスタンの風景はこころに沁み入るようだった。とりわけ、ジャララバードからカブールまでの景観は、『絹の道』の中でも有数のものなのではないかと思えるほど美しいものだった。」

「カブールは、カトマンズやゴアやマラケシュなどのように『聖地』というほどではなかったが、欧米からのヒッピーたちにとっては、インドとの間にあるオアシスのような意味を持つ町になっていた。」

「若いマネージャーは自分からカマルだと名乗った。…ヨーロピアンは自分が英語で誘えるが、困るのは日本人だ。数の多い上客だが、そのほとんどが英語を上手に喋れない。だからおまえが日本人を誘ってくれるとありがたいのだ。…ある日、隣のカマルが話しかけてきた。…『俺は昔から働いているんだ』寝ころんだ体を起こし、私に彼の顔を覗き込ませるほど深い響きのあるもの言いだった。『昔からずっと働いてきた』『うんと小さい時から?』『そう、何年も、何年も前からだ』その時、彼の嫌悪感の根っこにあるものが理解できたように思えた。彼には、無為に旅を続け、無為に日々を送っているかに見える私のような存在が、たまらなく不快だったのだ。…別のある日、カマルが話の途中で不意に言った。『おまえは英語をどこで覚えた』『日本の学校でだ』『どのくらい習った』中学から大学までだから約十年になる。私がそう答えると、カマルは弾けるように笑い出した。『それで十年か』少し緩みかけていた彼への感情が、また元へ引戻されてしまった。…私はスペルをゆっくり言った。しかしカマルは書き取る気配も見せず、ぼんやりしている。もう一度繰り返し、紙に書き取れと言っても、どうしたらいいかわからないといった表情を浮かべている。彼には英語を喋る能力はあっても書く能力はなかったのだ。私が紙にオポジットと書くと、残りも書けと促す。その時、私はかなり残酷な気分になっていた。」

「言葉が言葉を呼ぶダイナミックな会話の喜びから遠ざかって、もう何週間にもなる。気心の知れた磯崎夫妻とならその飢えが満たされるに違いなかった。」

「ヒッピーとは、人から親切を貰って生きていく物乞いなのかもしれない。少なくとも、人の親切そのものが旅の全目的にまでなってしまう。それが、人から示される親切を面倒に感じてしまうとすれば、かなりの重症といえるのかもしれなかった。」

「アフガニスタンはその国土に鉄道が敷かれていない例外的な国のひとつであるため、バスが唯一最大の交通の機関となっている。」

「しかし、遊牧民の自由な通行に過大な幻想を抱くのは間違っている。彼らといえども国から国へまったく自由に行き来をしているわけではない。アフガニスタンとイランとの間の協定が結ばれ、そのうえで成立っている自由な通行に過ぎないのだ。」

「やがてそのうちに、いくつかの宿と食堂がヒッピーたちの間で伝説化していく。ニューデリーの『コーヒー・ハウス』、ペシャワールの『レインボー・ホテル』、カブールの『ステーキ・ハウス』などがそうだったし、イスタンブールには『ホテル・グンゴール』や『プディング・ショップ』という有名なホテルやレストランがあるという。…アミール・カビールもそうした場所のひとつだった。」

「その辺りをぶらぶらしていると、粗末ななりをした子供たちが、暗い地面から湧いたように姿を現し、私たちにまとわりついてきた。手を差出し、金を要求する。」

「ひとりの物乞いに僅かの小銭を与えたからといって何になるだろう。物乞いは無数に存在するのだ。その国の絶望的な状況が根本から変革されない限り、個々の悲惨さは解決不能なのだ。しかも、人間が人間に何かを恵むなどという傲慢な行為は、とうてい許されるはずのないものだ…。そのような思いが私に物乞いを拒絶させた。…屁理屈だったのではないだろうか。『あげない』ことに余計な理由をつける必要はない。自身のケチから『あげない』ということを認めるべきなのだ。そうだ、俺はただのケチであるにすぎなかったのだ。そこまで考えが及ぶと不思議に気持が軽やかになってきた。自分をがんじがらめにしていた馬鹿ばかしい論理の呪縛から解き放たれて、一気に自由になれたように思えてきた。」

「このペルシャの地で、それもこのような静かで美しい町で、何が悲しくてそんな名前をつけなくてはならないのかと思うのだが、その名をマイアミ・ホテルという。…ピラフの発祥の地はこのペルシャというが、いかにもおいしそうだ。…要するにその値段は十リアルではなく、十トマンなのだ。イランの貨幣の基本的な単位はリアルだが、日常生活ではトマンを用いる。1トマンは十リアル。だからその炊込みご飯の値段も十トマン、つまり百リアルなのだ、という。」

「故郷で待っているのは『真っ当な生活』だけだ。それも悪くはないが、自分がそのような生活に復帰することができるのかどうか、不安がないわけではない。」

「何故イスラムの民だけが、キリスト教国にも仏教国にも必要だった偶像を拒絶できたのか。あるいは、偶像なしでやってこれたのか。偶像拒否の精神、偶像不在の建築とはどういうものなのか、ということのようだった。」

「テヘランは、単に規模の大きさだけでなく、都会としての独特の匂いを持っていたのだ。…私がまず最初にテヘランに都会を感じたのは、ビルの姿や自動車の多さではなく、公衆電話のボックスだった。歩道にガラス張りの電話ボックスがあり、その中で若者が受話器を握っている姿を見かけた時、自分でも意外なほどのショックを受けた。…何よりその風情が都会的に映ったのだ。」

「飽きがきてしまったのだ。それはなによりも、バザールが退屈なせいだった。中近東最大といわれる規模を持つテヘランのバザールは、しかし私のような旅人を惹き付ける魅力に欠けていた。…余分な金のない私のような旅人にとってはトルコ石の指輪も金のブローチもまるで縁がなく、向こうもこちらの風体を一瞥するだけで声を掛けようともしない。…テヘランのバザールは市場としての面白さがなかった。それは、ペルシャ人のとりつくしまもないような無愛想さと、なま物を置いていないせいかもしれないとも思った。」

「アラビア半島には、そのような砂漠とは本質的に違う、かげろうが揺らめき、人の歩みを吸込んでしまいそうな、極めて魔的な、砂の海としての砂漠があるはずだった。迷った末に、ある晩、私はペルシャ湾岸に向けて出発した。アバダンまで行けばそこにあるクウェート領事館でビザが下りるかもしれないという噂を聞いたのだ。」

「丘の上から緑のある町が見えてくると、それがシラーズだった。テヘランから十五時間、予定通り午前十一時に到着した。」

「イラン人にとってシラーズとは、詩とバラと美しい古都、ということになるらしい。…しかし、私には格別どうというところのない、平凡な町のように思えた。この町にあるのは、南の国には珍しい澄んだ空気と深い青空くらいではないか、という気さえした。特にどこへ行くというあてもなかったので、まずバザールに行ってみた。だが、古都シラーズのバザールは期待はずれだった。」

「ペルセポリスは、建物の台座の跡と巨大な石柱が虚しく天空にそびえているだけの、まさに廃墟だった。柱頭の彫刻や壁のレリーフには見事なものも少なくなかったが、大平原に忽然と現れたかのようなこの石の都は、周囲の風景との間にあまりにも深い断絶があるため、よくできた映画のセットのように思えたりもする。空は恐ろしいくらいに蒼く、陽射しは痛いくらいに強い。二千五百年分の陽光を吸込んだ巨大な石畳からは、めまいのしそうな熱気が立ち昇ってくる。」

「イスファハンは静かな美しさに満ちた古都だった。日本人は『イランの京都』と呼ぶ。しかし、そのたとえは、偉大なるダリウスの末裔に対して礼を失したものであるかもしれない。かつてイスファハンは『世界の半分』と謳われ、百六十二のモスク、千八百二の隊商宿、二百七十三の浴場を持ち、西アジア中の富が流れ込んでいたといわれるほど壮大な都だったのだ。」

「『王のモスク』の近くにはロトフラー寺院がある。『王のモスク』が男性的な鋭さ、冷たさ、強さを表現しているものとすれば、このモスクのドームは暖かいクリーム色と柔らかい曲線をもった、まさに女性そのものを象徴しているかのようだった。」

「イスファハンは老人たちで溢れていた。少なくとも私の眼には老人たちの姿ばかりが飛込んできた。」

「私にひあひとつの怖れがあった。旅を続けていくにしたがって、それはしだいに大きくなっていった。その怖れとは、言葉にすれば、自分はいま旅という長いトンネルに入ってしまっているのではないか、そしてそのトンネルをいつまでも抜けきることができないのではないか、というものだった。数カ月のつもりの旅の予定が、半年になり、一年にもなろうとしていた。あるいは二年になるのか、三年になるか、この先どれほどかかるか自分自身でもわからなくなっていた。やがて終ったとしても、旅という名のトンネルの向こうにあるものと、果してうまく折合うことができるかどうか、自信がなかった。」

今福「僕はいつも、人間の日常的な相互作用の中にはフロイト的世界とマルクス的世界があると考えているんです。人間の深層意識やそれを言語表現に回収していく世界がある一方で、明確な物理的な存在として見えてくる世界というものがある。」

「日本人の書いた紀行文を読むと、大きく二つのパターンに分けられる。一つは、異国は理解できるのだと考える紀行文。もう一つは、異国というのは分らないと考える紀行文。…たとえば小田実さんの『何でも見てやろう』という本は、異国は理解できるのではないか、異国の人とはコミュニケートできるのではないか、という考えに裏付けられた著作だと思うんですね。…『何でも見てやろう』が今日もまだ生命力を持っているとすれば、それは彼が理解したことや了解したことではなく、理解したいという彼の情熱だけが生きているからなんです。理解したいという情熱はたぶん持続するし、本物なんでしょう。だけど理解できたと思ったようなことはみんな腐っていく。」

「井上靖の一連の西域物になると、自分の目の前に現れた現実を前にして、むしろそれに夢を添わせようとするんですね。どちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、ひとりの人間にとって異国というのは、すでにそこにたどり着く前から存在しているものでもあるということなんでしょうね。」