「深夜特急5 トルコ・ギリシャ・地中海」/沢木耕太郎/92年新潮社、94年新潮文庫

 新聞記事でも全く同じことだが、文章の内容は、「事実」と「感想」に大別できる。面白い紀行文は、事実の真新しさもさることながら、感想の部分でどれだけ読者を共感させられるか、なるほどと思わせられるかによると思う。沢木氏の文章の面白さは、この両面における秀逸さから来ている。紀行というより「奇行」である事実。その事実を、独特の視点で、より客観的に見せながらも妄想とも言える強引なまとめ方で意味付けしてみせる感想。事実のなかの、少しでも面白く、おかしい部分を巧妙に抽出し、解釈を加える。どんなに小さな出来事も、沢木の手にかかってしまえば、面白い描写になってしまう。もちろん、誇張表現の匂いがするところがいくつもある。(「いつの間にか、居間から庭に出ての大紙飛行機大会になった」(P212)など)しかし、そのくらいが分かりやすくて良いのかも知れない。

 ただ、やはり事実の面白さがないところを、感想でカバーするのは苦しい。ギリシャのあたりでは、インドほどの面白い事実はなく、マンネリ感は否めなくなってくる。それだけではない。イランまでを書くのに十年、そしてトルコから先を書くのに六年かかっており、トルコ以降は、三十代後半から書いた訳だが、やはり若かりし頃とは執筆の中身と方法に、微妙な変化があったのだろう。「旅は人生」「青年期までが1、2便(イランまで)にあたるとすると、三便は収束の段階」と筆者も認めるように、アジアの頃の方が、若き新鮮な心を忠実に描写し、読者にも深く訴えてくるように思える。収束段階のヨーロッパでは、「旅ってなんだろう」そんな問いかけが増えていく。まるで30代の中年が「人生って何だろう」と考えるように。

 全体として改めて感じるのは、貧乏をネタにしたユーモアが多用されていることだ。「高い」というのが口癖になっていたり。そして、これは男だからこそできる旅であり、男の世界だな、とひしひしと感じさせる魅力がある。沢木氏は、欧米からのヒッピーの眼に、しばしば深い退廃を感じている。その度に私には、単純な疑問が湧いてくる。人はなぜ、ヒッピーになるのだろう。日本からのヒッピーは、どのくらい、いるのだろうか。自分も一度はヒッピー生活に染まってみるのも良いのではないか…。

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「確かに、カメラを構えることで土地の人々と言葉を交わすきっかけが掴める場合もある。しかし、それと同時に、風景によって喚起された思考の流れが中断されたり、人とのあいだに生まれかかった心理的なつながりに変化が起きてしまう危険性も少なくはないのだ。それでもなお写真を撮ろうとするのには、よほどの情熱とエネルギーを必要とする。」

「『ここに泊っているんです』タクシーを降りながら言うと、ゲンチャイは口元を綻ばせた。『いいところに泊まっているのね』それはホテルそのものではなく場所のことを言っているようだった。」

「イスタンブールはボスポラス海峡を挟んでアジア側とヨーロッパ側とに別れており、安宿があるのはヨーロッパ側のスルタン・アーメット地区と呼ばれる一帯だと聞いていた。」

「毎日が祭のようだったあの香港の日々から長い時間がたち、私はいくつもの土地を経巡ることになった。その結果、何かを失うことになったのだ。旅は人生に似ている。以前私がそんな言葉を眼にしたら、書いた人物を軽蔑しただろう。少なくとも、これまでの私だったら、旅を人生になぞらえるような物言いには滑稽さしか感じなかったはずだ。しかし、いま、私もまた、旅は人生に似ているという気がしはじめている。たぶん、本当に旅は人生に似ているのだ。どちらも何かを失うことなしに前に進むことはできない…。」

「どちらも壮大だった。イランのモスクの鮮やかな色彩は欠いているが、建造物としての複雑さがあり、灰色のどんよりした空の下で独特の輝き方をしていた。」

「これがテヘランのバザールと並び称されるイスタンブールのグランド・バザールなのかもしれない。私は人の流れに従って中に入ってみることにした。」

「香港では、九龍と香港島を結ぶスター・フェリーでの十分足らずの航海を、『六十セントの豪華な航海』と呼ぶことにしていた。快い潮風に当り、アイスクリームをなめながら、対岸の美しい景色に眼をやる。そのアイスクリームが五十セント、フェリーの料金が十セントだったからだ。とするなら、アジアとヨーロッパを行き来するこのフェリーでの十五分は、さしずめ『五リラ五十クルシュの優雅な航海』ということになるのかもしれなかった。」

「イスタンブールは居心地の良い街だった。その理由のひとつには、食事に不自由しなかったことが挙げられるだろう。インドに入って以来、安食堂にこれほど豊かなメニューがある街はなかった。…だが、居心地のよいもっとも大きな理由は、イスタンブールの人々の、というより、トルコの人々の親切が挙げられるだろう。」

「私の泊っているホテルがブルー・モスクのすぐ前にあるということは、プディング・ショップやホテル・ッグンゴールのすぐ近くにあるということでもあった。イスタンブールのプディング・ショップは、バック・パックひとつで旅を続けているヒッピーたちにとって、他に例を見ないほど有名な店だった。」

「しかし、やはり私には街が面白かった。街での人間の営みが面白かった。」

「旅は私に2つのものを与えてくれたような気がする。ひとつは、自分はどのような状況でも生抜いていけるのだという自信であり、もうひとつは、それとは裏腹の、危険に対する鈍感さのようなものである。だが、それは結局コインの表と裏のようなものだったかもしれない。『自信』が『鈍感さ』を生んだのだ。私は自分の命に対して次第に無関心になりつつあるのを感じていた。」

「久しぶりに朝の通勤風景を見て、ほんのちょっとだけ胸が痛んだ。テヘランで公衆電話のボックスを見た時と同じく、テサロニキの通勤の人波は、私に都会を感じさせ、だから自分が生活の場からどれだけ遠く離れてしまったかを感じさせることになった。」

「翌日から私は、新しい都市に着いた時にはいつもそうしてきたように、目的を定めず街を歩きはじめた。…だが、ここはという場所が見つからない。気に入りの場所、拠りどころになるような場所が見つからない。いくら歩いても、私にとってアテネはいつまでものっぺらぼうの街のままだった。」

「パルテノン神殿はどの角度から見ても間違いなく美しかったが、その姿は、信仰の地として生きるでもなく、廃墟として徹底的に死に切るわけでもなく、ただ観光地として無様に生き永らえていることを恥じているようでもあった。…アクロポリスの丘で生きていたのは野良猫だけだった。」

「トルコ人はチャイが大好きだが、ギリシャ人はチャイを飲まずにコーヒーを飲むのだと言う。そして、チャイの国はみんな仲間なのだ、と言い出した。なるほど、『アジアはひとつ』などという言い方にはどこからどこまでなのがアジアなのかわからないという曖昧さがあったが、茶を飲む国とコーヒーを飲む国に分ければわかりやすい。もしそれを基準にすれば、トルコまでがアジアということになる。…『英語でチャイは何という?』『ティー』『フランス語では?』『テ』『ドイツ語では?』『たぶん、テー』『ほら』『何が』『彼らはTで始めるチャイを飲んでいる。でも、僕たちはCのチャイを飲んでいるのさ』」

「ギリシャに来ての食物に関する最大の発見は、オレンジがおいしいということだった。アメリカ産のオレンジと違い、妙な甘さがない上に水分が豊富なのだ。私は、ギリシャで長距離バスに乗る際はオレンジを持って乗込もうと決めていた。」

「旅がもし本当に人生に似ているものなら、旅には旅の生涯というものがあるのかもしれない。人の一生に幼年期があり、少年期があり、青年期があり、壮年期があり、労年期があるように、長い旅にもそれに似た移り変りがあるのかもしれない。私の旅はたぶん青年期を終えつつあるのだ。何を経験しても新鮮で、どんな些々なことでも心を震わせていた時期はすでに終っていたのだ。そのかわりに、辿ってきた土地の記憶だけが鮮明になってくる。年を取ってくるとしきりに昔のことが思い出されるという。私もまたギリシャを旅しながらしきりに過ぎてきた土地のことが思い出されてならなかった。ことあるごとに甦ってくる。それはまた、どのような経験をしても、これは以前にどこかで経験したことがあると感じてしまうということでもあった。」

「ペロポネソス半島をほとんど一周したにもかかわらず、夢見たようなことは何ひとつ起らなかった。」

「それにしても、髭の男は私についてどんな説明をしたのだろう。説明すべき材料が何もないはずなのだ。道で会ったので連れてきた。案外それだけしか説明せず、若い主人もそれだけで納得してしまったのかもしれなかった。」

「地中海の水は、イスタンブールのトプカプ宮殿で見たエメラルドや翡翠よりはるかに美しく、深い色をたたえていました。」

「長い道のりの果てに、オアシスのように現れてくる砂漠の中の町で、ふと出会う僕と同じような旅を続けている若者たちは、例外なく体中に濃い疲労を滲ませていました。長く異郷の地にあることによって、知らないうちに体の奥深いところに疲労が蓄積されてしまうのです。疲労は好奇心を磨耗させ、外界にたいして無関心にさせてしまいます。」

「次から次へと生み出される現代日本のシルクロード旅行記なるものも、その大半が甘美で安らかなシルクロード賛歌であるように思われます。…しかし、何かが違う、と今の僕には思えてなりません。僕が西へ向う途中に出会った若者たちにとって、シルクロードとはただ西から東へ、あるいは東から西へ行くための単なる道にすぎませんでした。時には、彼らが、いつ崩れるか分らない危うさの中に身を置きながら、求道のための巡礼を続けている修行僧のように見えることもありました。彼らは、もしかしたら僕をも含めた彼らは、退廃の中にストイシズムを秘めた、シルクロードの不思議な往来者だったのかも知れません。しかし、彼らこそ、シルクロードを文字どおりの『道』として、最も生き生きと歩んでいる者ではないかと思うのです。」

【対談】

「約六年です。実際に旅をしたのは二十六才の時ですから、もう十七年も前のことになります。もはや『反時代的作品』ですね(笑)。本当は、一便、二便の後、翌日にでも出ると自分でも思っていたんですが…。」

「僕は中学一年生の頃に小田実さんの『何でも見てやろう』を読んだんです。」

高田「僕はこの作品から芭蕉の『おくのほそ道』を連想したんですが、彼は元禄二年、四十六才の時に百五十日くらいかけて奥州、北陸を旅しています。しかし、『おくのほそ道』が定稿になったのは、学者の解説によると五十一才で彼が死ぬ年らしいんです。」

「確かに、旅を即文章化する必要というのは全くないんですね。旅を反芻しながら、或は鍛えながら文字化していくということは以前には多くなされていたんだ。」

沢木「それではなぜ、かつて芭蕉を始め多くの人が腹をくくって『漂泊』というような存在の仕方を選んだかというと、そこに文学というものが出てくると思うんです。『漂泊』というのは非生産的な行為にもかかわらず、文章を書くという一点において生産性をもち、それによっていわばマイナスが一挙にプラスに転化してしまう。そのことを彼らは知っていたんじゃないですか。」

高田「定住社会、生産社会からドロップアウトしたいという欲望は、多くの人の心の底に眠っているでしょう。」

「今の日本でも、『漂泊』に匹敵する存在の人が文章を書くということがもう少しあれば面白いと思うんですけどね。」

「つまり、自分の背丈以上の物は見えないんですよ。だから、『深夜特急』の旅でも、あの時僕が美術品や遺跡を見なかったのは、自分にはそれを理解する教養がないということがはっきりわかっていたから、拒絶したんですね。」