「深夜特急6 南ヨーロッパ・ロンドン」沢木耕太郎/92年新潮社、94年新潮文庫

 ここはという印象深いところはないが、何気ない現地の日常文化に喜びを感じながら、旅が続く。「旅の終り方」をどうするかに焦点は移り、サグレスという街を一応の終点とした。旅は人生、既に若くない沢木氏の「出会い能力」は既に欠けつつあったのだろう。とはいえ、茶を巡るCとTの考察、「嘘いつわりのない純正完璧な各駅停車」といった表現には、相変らず感心させられる。1〜6まで読んでみて、「男は、二十代の間に一度は、半年以上をかけた世界一人旅をしたほうがいい。私はしなかったことを後悔している」とある中年の劇作家が述べていたのを改めて思い出す。沢木氏の場合、これが漠然と「26才までに」だった。私も26になった。そろそろ、本格的に考えねばならない時期だ。後悔しないために。

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「彼女たちのいないバルレッタに興味はなかった。家に泊めて貰おうとまで図々しいことは考えていなかったが、少なくとも2人のうちどちらかとは一緒に映画のひとつも見られるかもしれないという程度の期待はあった。」

「昨日まで名前も知らなかったイタリアの小さな町に、これほど熱心な日本製格闘技の信奉者がいる。それは辺境の地でセイコーやパナソニックの広告を見るよりはるかに感動的なことだった。」

「ばっさりとロング・ヘアーを切ったあとで来るのが、このスペイン階段なのだ。ここでアン王女が幸せそうにアイスクリームをなめているシーンは、『ローマの休日』という映画を象徴するシーンとしてばかりでなく、ひとりの女優の生涯で最高の瞬間をとらえたシーンとしても印象深いものだった。」

「マリアが死せるイエスを抱いている彫像だった。それがミケランジェロの『ピエタ』だということはすぐにわかった。しかし、その有名な『ピエタ』が、このように無造作に置かれているとは想像もしていなかった。…それにしても、このマリアの不思議な若々しさはどうしたことだろう。あたかも、ひとりの男にとっての、母であり、恋人であり、妹であり、娘でもあるという、女性としてのすべての要素を抱え込んでいるかのようだ。私は今までにこれほど美しい女性の姿を見たことがないように思った。私は、これがミケランジェロ25才の時の作品であることに衝撃を受けた。」

「土手の下に小さな食堂があるのが眼に留まった。…わずか1250リラ、600円強に過ぎないのだ。こんな小さな店が、こんな何気ない店が、こんなにおいしいものを出すのだ。私は喜んで少年にチップをはずみながら、あるいはこれが文化というものかもしれないな、などと柄にもないことを思ったりした。」

「フィレンツェはどこへ行くのにも歩いて行けるのがよかった。花を意味する名を持つフィレンツェは、その中心にドゥオーモと呼ばれるサンタ・マリア・デル・フィオーレを持っている。」

「まったく、イタリアでは釣りをもらうのもひと苦労なのだ。しかし、そうとわかってはいても、せめて銀行や郵便局くらいはきちんとしてもらいたいものだ、と文句のひとつも言いたくなる。…イタリアの小物にいはデザインばかりでなく機能的にも優れているものが少なくなかった。しかし、この機能性と、あの杜撰さとが、いったいどう結びつくのか私には謎だった。」

「ようやく辿り着いたモンテカルロ駅は、モナコというオトギの国にふさわしい小さな駅だった。」

「スパゲティーを食べていないのは僅か2日間にすぎなかったが、一種の禁断症状に見舞われていたのだ。それほどイタリアのスパゲティーはおいしかった。フォークに巻いても、口に入れても、微妙な抵抗感を覚える固茹での麺。そして、オリーブ・オイルの香りも高い各種のソース。しかし、私がとりわけ好んだのは、トマトをシンプルに用いたポモドーロだった。関西における素うどんとでも言うべきこのポモドーロは、素うどんが関西のどんな店でもある水準に達しているように、どんなみずぼらしいレストランのものでもおいしかった。私はフィレンツェにいるあいだ中、1日1回はポモドーロを食べないと気が済まなくなってしまった。」

「日の暮れかかった頃、マルセーユに着いた。…歩いても歩いても何も起きない。かつては出来事が向こうからやってきたものだが、私は何も起きないこの街で透明な存在になったようにただ歩いている。」

「それにしても、旅人の相手をしてくれるのは老人と子供だけだな、とベンチに坐ったまま私は思った。観光客を相手の商売をしている人たちを除けば、いつでも、どこでも、私たち旅人の相手をしてくれるのは老人と子供なのだ。」(→イランでは違ったな…)

「バルセロナが老人と子供なら、バレンシアは市場だった。」

「マヨール広場の界隈には、いくとものBAR、バールがあり、どこも賑わっていた。…私がこれはと目星をつけたバルに入り、赤ワインを1杯とツマミを一皿もらって呑んでいると、必ず誰かが話しかけてきてくれた。そして当然のごとく、もう一杯、ということになる。私は本当に久しぶりに酒を楽しむことができたような気がした。」

「ヨーロッパを旅する者にとって日曜日こそは魔の一日だった。官公庁や銀行が閉っているのは当然としても、商店という商店が軒並み閉まってしまうのだ。香港からトルコまではそんなことはなかった。」

「彼(日本の若い商社員)は、スペインが、というよりスペイン人が気に入らないらしく、彼等の働きぶりを国民性とやらに結び付けて悪しざまに罵った。その断定的な口調を耳にしながら、私はそんなに簡単なはずはないけどな、と思っていた。異国のことがそんなに簡単にわかるはずがない。…それがどれほどのものかは、日本に短期間いた外国人が、自国に帰って喋ったり書いたりしたに日本論がどこか的はずれなのを見ればわかる。」

「わからないといえば、マドリードの人々がバルで私に奢ってくれる理由も本当のところはよくわからなかった。私が東洋人だからか、日本人だからか、あるいは長期の旅行者だったからだろうか。」

「リスボンは心地よい街だった。ヨーロッパ有数の都会であるにもかかわらず、どんな場所にも人の温もりが感じられた。」

「エルヴァスという城塞都市をくまなく廻ることができたのは幸いだった。とりわけ、町のはずれの古い城塞からは、心をしんとさせてくれるような、ポルトガルの静かで穏やかな谷間の村々が眺め渡せた。」

「私が乗ったラゴス行きのバスは、嘘いつわりのない純正完璧な各駅停車だった。停留所ともいえない素朴な停留所で、ひとり降ろしてはまたひとり乗せるという具合なのだ。」

「ようやくサグレスに到着した。そこはただの空地のようだった。」

「アジアからヨーロッパへ、仏教、イスラム教の国からキリスト教の国へ、チャイ、チャといった『C』の茶の国からティー、テといった『T』の茶の国に入ったものとばかり思っていた。事実、ギリシャも、イタリアも、フランスも、スペインもすべて『T』の茶の国だった。ところが、そこを通りすぎ、ユーラシアのもう一方の端の国まで来てみると、茶は再び『C』で始まる単語になっていたのだ。ポルトガルでは、CHAはチャではなくシャと発音するということだったが、『C』の仲間であることに変わりはなかった。…私は、『C』より出でて、今ふたたび『C』に到ったのだ…。」

「パリは暮しやすかった。…公園があり、本屋があり、映画館があり、そして何より、美しい街並がある。歩くのに飽きることがなかった。」

「私たちはそこで2人きりの宴会をやった。オジサンは勧めても牡蛎は食べなかったが、ワインは呑んだ。それはパリの最後としては悪くない一夜だった。」

「ロンドンの中央郵便局はトラファルガー広場にあるとのことだったが、広場には面してないらしくどこにあるかわからない。…とうとう着いてしまった。そう腹の中でつぶやいて、何も起こらないことにどこかがっかりしている自分に気付いた。」

「それはダイヤル盤についているアルファベットでは、こうなるはずだった。W,A,R,E-T,O,U,C,H,A,K,U-S,E,Z,U。『ワレ到着セズ』と。」

【対談】

「さらに驚かされたのは、『これは典型的な夢なんですけど、例えばオーストラリアのエアーズロックのあたりをドライブするとしますよね。広大な砂漠だから、ガソリンが途中で切れちゃうかもしれない。あたりはだんだん暗くなってくるし、困ったなあ、どうしよう。そうしたらちょうど明りのついた一軒家があって、そこに素敵なお嬢さんが暮している、っていうのがいいですね』なんていう台詞。その歳になって、まだそんなこと考えてるの?(笑)」

「井上さんには、セクシュアルであるかどうかというのが一つの価値基準になっているの?」

井上「人間の分類の方法としてありますね。…僕がすごく好きだったり、ちょっと避けてるものは大体セクシュアルですね、僕にとって。例えばプリンスなんていう人がいるんですね。簡単に言うとセクシュアルなんですけど、これが好きなような、なんか聴いちゃいけないような…。」

井上「ビートルズとローリングストーンズとで、一般的にどっちがセクシュアルかというと…。」

沢木「ローリングストーンズになるよね。」

井上「なりますね。優等生なんですね、ビートルズは。やっぱりローリングストーンズのほうは欠落してる部分がたくさんあるんですよ、能力としても。」

「釣はやらないけどね。ゴルフもやんないし、テニスもやらないけど。」

井上「みんながワーッとやってるのに参加はしないよ、沢木さんは。」

「いや、香港からロンドンまで1年2ヵ月ぐらい。」

「僕の目のいかないところというのがきっとあって、人と会ってても、例えばセクシュアルな部分に対する注意深さが欠けているのかもしれないね。だけど、いつだったか吉行淳之介さんと話してるときに、人をどこで記憶するかっていう話になったんだ。例えば、女をどこで記憶するかっていう話になって…。」

井上「東京ドームとか、ああいうところだと、そのカラオケボックスで出た力が出ないんですよね。だから、そこにやっぱりプロというものがあってね。」

井上「こいつはなかなかやる白人じゃないか、知性もあるし、ハラも坐ってるし、スマートだし、しかも目先聴いてるようだ…ロマンがふくれて、あるところでつぶれちゃう。ここら辺のことが楽しいというところがありますね。…早目にネタが割れるようじゃ、エッセーにもならないですからね(笑)。」