「組織の盛衰」/堺屋太一/93年、PHP研究所

◆一度、組織に所属してから読むべき本。機能体の共同体化、人事圧力シンドローム、大抵の組織人にとっては権限は経済よりも重大、倫理には腐敗と退廃がある、才ある者は徳がない、徳ある者は才がない、組織人の行動が人事評価の基準によって動く……社会に出て組織に所属してみてうなずくことばかりだ。日経も今まさに、人事圧力シンドロームで大規模投資し48ページ体制に拡大しようとしている。死に至る病だ。

 近代組織では、地位が情報環境を決定するために、地位が人を作る。だから部長は、組織の情報化を嫌う。特権を失うからだ。環境の変化についていけない組織は早晩、衰退するだろう。 現代の石炭産業である。

 知価創造的な仕事に従事する人々にとっては24時間が常に情報インプット時間であり、創造的制作時間であり、娯楽と社交の時間でもある。早く、知価創造的仕事に就きたいものだ。あらゆる事業には、ハード、ソフトの技術と並んでヒューマンウエアは欠かせない重要技術。ヒューマンウエアも磨かなければ。

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「ある日突然、今後は給与も増えなければ地位も向上しないと分ったとすれば、人生設計に大きな狂いが生じる。日本の企業が不況のとき困るのは、このためだ。これは、成長志向の高い企業ほど著しい。その最も極端な状況が日本史上最大の急成長組織・豊臣家にも起った。当然、何とか事業を拡大し、成長を続け、全体として禄を増やさねばならぬという組織内圧力が生じる。いわゆる人事圧力シンドロームである。人事圧力シンドロームにいかに対応するかは、成長組織が早くから考えておかねばならない問題だ。この対策は、大きく分けると2つある。1つは、成長から安定へ体質と気質の転換を図ること。このためには大幅な人員整理、事業の削減、そして社員全体に対する成長志向の抑制が必要である。当選これには社内から強い抵抗が出る。労働組合だけでなく、将来の管理職を目指すエリート、特により上位を目指す中堅管理職の反発は強い。また、事業の削減には取引先や関連企業からも抵抗が出る。従って、成長体質を安定構造に変えるためには、極めてドライな省時が必要だ。いわば縮小的リストラクチャリングを実行しなければならない。」

「徳川家康とその後継者たちは、成長志向そのものが危険な害悪であることを実例で示した。さらに、大名が髭を生やすのを禁止するようなこともした。髭は強く見せるために生やすものだ。強く見せようとするのは戦場に立ち手柄を立てようとする成長志向、いわば乱を好む心理の表れだ、というのである。この結果、大名たちは成長志向のなさを競って見せ合うようになった。」 

「共同体化が生む第3の問題は、創造性の拒否または排除である。創造力というものは、必ず少数者から出されて、従来の多数派に変革を求める性格がある。従って、共同体化した組織では、創造性は和を乱すものとして排除排撃されることになる。井上成美提督(のち大将)は、補給充実や航空重視を主張した先見の明ある軍政家といわれているが、海軍内部では悪評を受け、『軟弱』のレッテルさえ貼られてしまう。共同体化した組織では、構成員の目は内志向となり、共同体内部だけの多数意見(有力意見)が正義正解になる。敢て創造性を発揮する者はいなくなり、たまに現れると異端者として中枢から外されてしまう。このため、結局は従来の経験と慣例以外は考えられなくなり、ただそれをより几帳面により過激に行う者だけが出世をする。昭和の軍人で高位に就いた者は大抵このタイプだ。そのため日本軍は、兵器の変革も作戦の柔軟性も失ってしまったのである。」

「共同体化した組織の第4の欠点は、外部の人材を排除した『仲間ぼめ』に陥る結果、人材・技術・物資・資金をも限定してしまうことだ。例えば、日本海軍が誇った『ゼロ戦』がそうだ。太平洋戦争開始前、日本に駐在したドイツの海軍武官が『ゼロ戦でアメリカと戦えば必ず負ける』と忠告した。その理由は、『ゼロ戦』の優れた空中戦闘性能を発揮できるパイロットを養成するためには千二百時間以上の訓練が必要だから、大戦争ではパイロットの補充が追いつかなくなるという点にあった。これに対してドイツのメッサーシュミット戦闘機は航続距離と運動性を犠牲にして三百時間で習熟できるように設計されていた。しかし、日本海軍の専門家たちは、この忠告を無視した。『戦闘機を乗りこなせるのは俺たちだけだ』という専門家仲間の誇りが『素人に使い易い』などという条件をむしろ嫌悪したのである。だが、結果はドイツ人の忠告通りになった。パールハーバーからサンゴ海海戦までは連戦連勝の日本軍も、ミッドウェーで一敗すると、たちまち熟達のパイロットが不足、航空部隊は再建不能に陥ってしまう。これ以降の戦いでは、未熟なままのパイロットを複雑な名人芸を要する『ゼロ戦』で出撃させ、人員と機材を大量に失い続けることになった。太平洋戦争の全期間を見れば、喪失した飛行機の数は、米軍一に対して日本軍20以上にもなっている。日本軍が太平洋戦争で敗れたのは、決して物量だけではない。こういう共同体化した組織の欠陥が表れたわけである。」

「これまでの経済学や経営学では、人間の物欲(経済)を重視し、権限欲を軽視してきた。しかし、大抵の組織人にとっては権限は経済よりも重大であり、直接的な欲望の対象でもある。実際、組織において経済利害の対立がない場合は多いが、権限争議がない例は珍しい。例えば、多くの家庭で見られる嫁と姑の対立も、どちらが家計を司るか、どちらが夫であり息子である男性の服装や社交を指導するか、という権限争議である。従って、嫁も姑も、家族への関心が深く夫(息子)への愛情が濃いほど、この対立は深刻になる。ましてや大組織に属する者にとっては、給与の多寡など権限に比べれば大した問題ではない。」

「組織人はまず、内部優位の特権、つまり役職の座や交際費の自由使用、意志決定への参画、秘密情報との接触などを求める。次には、対外的特権を求める。その最も単純な形態は外部秘匿性、つまり情報独占感である。だから、組織の構成員が固定すると、『マル秘』の印が増えるものだ。自分は○○会社あるいは△△省に所属しているからこんなことを知っているが、世間では知られていないはずだと信じるのは嬉しいことだ。ところが、組織の外の人々が組織に期待するのは、ほぼこの逆である。」 

「組織には、共同体と機能体がある。本来、この2つは構造も機能も目的も違う。従って組織の管理運営に当っては、この区別を明確に意識している必要がある。共同体とは、家族、地域社会、あるいは趣味の会など、人の世の摂理によって自然発生的なつながりで生まれ、構成員の満足追及を目的とした組織である。従って、その組織の発展拡大よりも、構成員それぞれの組織に属する目的を満たすことが重要である。例えば、家族の場合、家族の数を増やすとか家族の財産を増やすとかはあくまでも手段であり、真の目的は家族一人一人がいかに満足して幸せに暮し得るかが重要だ。従って、ここでは組織の結束の固さが重視される。『良い共同体』とは、構成員一人一人の満足を実現する結束の固い状況である。…地域コミュニティを純粋な共同体として心地良さだけを求める住民と、機能体的要素を加えて発展成長を企てる商店主や自治体行政組織との間に、工場誘致や公共事業をめぐって対立が生じるのは、このためである。」

「共同体的な組織の極限は、民族国家と言われるものだろう。民族国家は元来、歴史的自然的に発生した文化的共通性を持つ人間集団である民族が、自発的な自治を始めるところから形成されたものだ。その意味では、ベンサム流の功利主義に基づく国家とは本質を異にしている、と言わざるを得ない。」

「機能体組織は、外的な目的を達成することを目的とした組織である。ここでは、組織内部の構成員の満足や親交は手段であり、本来の目的は利潤の追及や戦争での勝利、1つのプロジェクトの完成など、組織外の目的を達成することである。従って、機能組織では『固さ』よりも『強さ』、つまり目的達成能力の充実が重要になる。」

「政党も本質的には機能組織だ。政党は本来、一つの政策思想の実現のためにより多くの支持を獲得し、議会において多数を占め、政治の実権と行政の指導権とを獲得することを目的として結成された機能体である。政党の場合は、企業の資本に当るのが思想または政策であり、利潤追求に当るのが政策の実現、その手段は選挙運動や議会における討論である。この点で政党は、思想や政策に関わりなく、人脈だけで自然発生的に生まれる派閥とは峻別できるわけだ。」

「理想の機能体とは、組織を作った目的を達成できる組織だと言える。企業なら所定の事業によって利潤を上げること、軍隊なら最小の負担で国土と国民を護り、戦争があれば勝利すること、行政機関なら行政目的を完全に果すことである。…機能体には長期的永続性ではなく、負担の最小性こそ重要である。」 

「長い間、共同体化した武士社会に生きてきた信長時代の武士は、なおさらであっただろう。このため、織田家累代の重臣たちは、機能化する信長の組織には耐えられず次々と脱落する。信長の生涯には、家臣の反逆、陰謀などが非常に多いのはこのためだろう。…織田信長の成功と横死は、目的追及のためには組織の機能体化が必要だが、それを徹底すれば大抵の人間は耐えられなくなることを示している。機能体も長期的に目的を追及するのであれば、ある程度の共同体的要素を許容しなければならない。しかし、そのことがまた、機能を失わせ、共同体化を限りなく促すことにもなり易い。この点こそ組織の永遠の問題でもあるだろう。」

「馬具という救いようもない衰退産業からも、フランスのエルメスやオーストリアのアイグナーなど、ファッション産業に転換して世界的名声を得ている企業もある。」 

「伝統も名声も、資産も規模もある組織が、実に短時間に滅亡する例も少なくない。組織の体質が冒され気質が異常化し、自浄作用も転換再建も不能に陥った場合、巨大組織の『死に至る病』に罹った場合である。その原因は、ただ3つしかない。第一に『機能体の共同体化』(または「共同体の機能体化」)。第二は『環境への過剰適応』。そして第三番目は『成功体験への埋没』である。」

「機能組織の共同体化を招く根本的な原因は、組織倫理の退廃である。倫理には腐敗と退廃がある。腐敗とは、悪いと知りながらも悪辣な行為が横行する現象である。汚職や権限の濫用、身内人事などは、倫理の腐敗に当ることが多い。これに対して倫理の退廃とは、何が悪いのか分らなくなる現象だ。世間一般では罪悪とされていることが、1つの組織の中では正義と認められているとすれば、倫理の退廃の極みといえる。いわゆる暴力団はその典型だ。」

「戦後の47年間に、繁栄から衰退への道を辿った業界は、石炭産業だけではない。石炭産業に斜陽の色が漂い出した1955年頃、日本で最も良好だった業界の1つは映画産業である。…ところが、不思議なことに、当時の大手映画会社の中でテレビ映像制作に成功したところはほとんどない。…結果としては、まともなスタジオもなければ機材もない、有名俳優も使えなかった零細プロダクションに、大手会社全部が敗退したのである。その原因は、黒沢明監督がカンヌ映画祭でグランプリをとったころの映画の制作環境、市場環境に適応していたことである。」

「日露戦争の成功体験が日本の軍人に与えた最大の害悪は、局地的な戦闘の勝利で、有利な終戦が可能だという戦争観であったろう。日露戦争は帝政ロシアとの植民地獲得戦争だったから、相手も引合わないと見れば妥協する。アメリカ大統領の仲裁や日英同盟が効果を上げたのも、そうした条件の下においてである。ところが、昭和の日本人は、この成功体験を信じて、国家総力戦の太平洋戦争にのめり込んだ。日米開戦を主張した軍人や政治家の中にも、ニューヨークやワシントンを占領できると思っていた者は1人もいない。日露戦争型の『局地戦の勝利=有利な終戦』と信じ切っていたのだ。だが世界は、既に第一次大戦において、国家総力戦の時代になっていた。この環境変化を読み得なかったことこそ、日本軍の最大の誤算だった。組織は成功体験には溺れやすいが、失敗には学び難いのである。」 

「『戦闘は敵も味方も互いに錯誤の連続だ。より少なく間違えた方が勝つ』と言われるが、事業とて同じである。一方に思わぬ不運があれば、他方には予想しなかった幸運もある。従って、『思わぬ不運』だけを並べれば、何でも失敗の原因を『特殊事情』にすることができる。それにもかかわらず、失敗例を挙げると『あれは別だ、こんな特殊事情があったから』という人は非常に多い。実は、これこそが『成功体験への埋没』から脱する道をふさぐ最も危険な思考なのだ。確かに、戦争にしろ事業にしろ基本的には間違っていなかった計画が予想外の不運で失敗する例はある。しかし、それはきわめて珍しいことで、2度と続くはずがない。もし特殊事情による『例外』が2度出たとすれば、基本構想のどこかがおかしいのである。」

「長く1つの仕組みを続けてきた組織が陥り易い落し穴は、仕組みを変えずに、その欠陥を取締りによって防ごうとすることである。国鉄の内部改革案がそうであったように、効率を考慮しない仕組みを変えずに、無駄な人手や施設がないか、従業員が余計な時間や経費を使っていないか、監視監査の機関を作って改善しようとする。しかし、こうした方法では、どれほど強力な監視機関を作りどんなに厳しい罰則を設けても、1時的な効果しかない。このことは、最も監視と懲罰が厳しかった戦時下の日本やブレジネフ時代のソ連を見れば一目瞭然だろう。戦時統制や社会主義計画経済では、効率の向上が各部門組織(官庁や企業、各事業所等)の利益に繋がるような仕組みがないのである。」

「弁護士には事務所と書籍が、ソフトウェア・プログラマーにはパソコンが不可欠だ。エディターやプロデユーサーにも、電話やファックスのある事務所が要るだろう。だが、いずれの場合にも、個人で買えないほど高価ではないし、運用に多数の専門家が必要なほど複雑で巨大なわけでもない。何よりも、そうした物財が良ければ良い製品が生まれるわけでもない。最新の高級製図板を備えたからといって良いデザインができるわけではない。自動車メーカーや化学工業会社、鉱業、農業であれば、設備の優秀さや土地資源の有利さなど、物財の良否こそが企業の利益と評価を決める。ところが、デザイナーやプログラマー・弁護士・医師・会計士などの知価創造的産業は、物財は主要な生産手段となりえない。ここで決定的な重要性を持つ生産手段は、それに従事する人間の知識と経験と感覚である。つまり知価創造的な産業では、生産手段と労働力が不可分に一体化しているわけである。今、産業革命以来続いてきた生産手段と労働力の分離が逆転しはじめているのである。…かつてのそれは、町工場や職人仕事の手工業、小売店舗などの裏側や2階に、家族と少数の住込み従業員が居住するといった形態だったが、最近はデザイナー事務所や写真家のアトリエ、雑誌の編集、手作りのファンション・デザイナーの仕事などは、こぎれいな職場とポスト・モダンの家具に飾られた小住居とが一体化している。知価創造的な仕事に従事する人々にとっては24時間が常に情報インプット時間であり、創造的制作時間であり、娯楽と社交の時間でもある。生活の中の知識と経験と感覚が生産手段の再生産、再投入の一部なのだから、彼らは情報の渦巻く都心に住みたがるのだ。」

「何故に『地位が人をつくる』のか。それには本人の自覚や修練、周囲の補助補完によるところもあるが、何よりも重要なのは地位が情報環境を決定することである。近代組織においては、組織内の情報は、地位の順に上下に移動する。命令はトップから下位に伝達されるし、現場の報告や意見具申は下位から順に昇ってトップに上達される。その過程で中間管理職が命令を具体化詳細化するし、報告や具申は取捨選択して要約する。従って、トップは広く浅く知り、下部は狭く深く知る形になる。…ところで、ここで重要なのは、この組織内の情報流通が、主として対面情報交換によって行われていたことだ。つまり人間同士が顔を見合わせて会議なり指示報告なりを行うことで、大部分の情報が伝達されていたのである。」

「これまでコンピュータなどによる情報伝達は、主として情報量と伝達速度の問題として議論されて来た。情報伝達の変化が量と速度の範囲にとどまるならば、組織原理を侵すには至らない。しかし、本当に重大な問題は、これが情報の質と経路を変え、有用な情報技術を根本的に変える点にある。機械網のすべてで情報が抽出できるとなれば、上位者ほど広く、下位者ほど深く情報を知る、という現在の組織原理は通用しなくなってしまうからである。これまでの組織では、部長は課長よりも広く浅く知っていた。従って、常に上位者には『伝家の宝刀』があった。部長は部下の課長に対して、『きみはそう言うが、全体から見ると君の意見は呑めない』『君の課ではそうだろうが、よその課のことを考えると、ぼくの判断が正しい』と言えた。相手は部全体の情報を持っていないはずだからである。」 

「『利益』という概念を、利益額という『量』だけに限定して各事業所にノルマを課す『3比主義』では、『質』の低下を必然化する。1980年代の世界的なバブル経済の中で起ったこの事実の反省から生まれたのが、『利益質』の概念である。これまでの経営学では、単年度ごとの利益額追及を教え込んだため、長期的な安定性と成長性のある経営は行われ難かった。…『経営学のケース・スタディは無鉄砲なメロドラマを見るようなものだ。若い2人が周囲の困難に打ち克って結ばれるところでハッピー・エンドになるが、そのあとの長い人生を果して幸せに生きられるかどうかは何も教えてくれない』といった人がいる。けだし、名言である。…こうした矛盾を解決するものとして考えられるのが『利益質の計量化』である。…その第一は外延性、つまり当該利益が組織の外に延びているか、同じ組織内でのタライ廻しかを計ることである。…第2の要素は継続性、つまり当該利益が長期的に継続する性格のものか、一回限りまたは一時的なものかである。…第3の要素は好感度、つまりその利益を上げることで好感を得られたか、反感を募らせたかである。」 

「ヒューマンウエアとは対人技術、つまり『人と人との関係技術』だ。今日の日本では、ハードウエア、ソフトウエアという言葉と概念は普及しているが、ヒューマンウエアの概念はまだほとんど知られていない。しかし、あらゆる事業には、ハード、ソフトの技術と並んでヒューマンウエアは欠かせない重要技術である。」

「1970年代頃からは、高度な機器が中小商店や一般家庭にも普及すると同時に、情報機器の発達と経済のグローバル化で、ソフトウエアの重要性が急速に高まった。だが80年代に入ると、ハードウエアの性能品質やソフトウエアの利便性以上に、人間的な心地よさやイメージの良さなど主観的満足を充すヒューマンウエアの役割が大きくなっている。」

「従業員個人の主観と組織全体の動きから見た客観的事実とは同じでない、というのが、特定多数を対象としたヒューマンウエアの公理なのだ。つまり、従業員1人1人がどう思っているかは別として、組織人の行動が人事評価の基準によって動くのは、否定し難い事実である。…人事評価の基準こそは、組織の性格と構成員の行動を規定する最大の要素である。」 

「実際、『才ある者は徳がない、徳ある者は才がない』というのは、人事における不滅の公理である。才があって仕事をすれば必ず周囲と摩擦を起して徳望は傷が付く。逆に仕事さえせず才能を発揮しなければ、大抵の人は『良い人』、つまり徳人であり得る。」