「棚上と線引」
 デスクに呼ばれ、ソファーに座った。思いつくネタは色々あるので、今日は何だろ
う、といささか不安に思っていたら、携帯電話についてだった。私は自分で買った携
帯電話を仕事でも使っているのだが、あまりに高くつくので、明細書を取り寄せ会社
の番号に掛けた分だけをチェックし、会社に請求していたのだ。仕事で使っているの
だから、自腹を切るのはおかしいし、月々5千円を超える額は馬鹿にならない。
 数十分の議論があったが、結局、デスクの結論は「タクシーチケットなど、みんな
、私用で使っているだろう。自宅から記者クラブに行く時とか、会社に行く時とか。
電話だけ公私を分けるのはおかしいじゃないか。みんな、ポケベルで呼ばれた時に会
社に掛ける電話代を請求しているか?そんなものは、給料の一部として入っているん
だ」ということだった。
 もちろん納得いかない私は、労組の部屋に行って、組合委員長にも正した。組合の
立場上、「請求することは全く不可能ではない」としながらも、組合の考えも、ほと
んど同じと言って良かった。「自分の胸に手をあてて見れば、みんな、私用でタクシ
ーに乗っているだろう?公私混同なんだからさ」とのことだ。
 なるほど、こうなったら仕方がない。仕事で使った分は、私用でタクシーチケット
を使って穴埋めせよ、という論理だ。まがりなりにも分けるべき、と考えていた私に
は、新鮮な理論だった。

 私としては、現場に出る仕事が多いにもかかわらず会社が携帯電話を支給していな
いので、私財を会社に提供して携帯電話を買ったつもりだ。締切間近に、シラク大統
領が飛行場に到着した現場の様子を報じることができるのも私の携帯電話のお陰だし
、小学生の自殺予告問題で全校集会を開いている体育館の様子だって、学校に電話を
借りるわけにもいかない。携帯電話は、仕事に不可欠なものであって、基本料金は自
腹を切っているのだから、せめて会社に掛けた分の通話料だけでも会社が払うという
のは、世間の常識を逸しているとは思えないのだ。
 
 さて、冒頭にこんな話を持ちだしたのは、マスコミの体質を検証するためだ。
 福岡県庁で、一度だけ「市民オンブズマン福岡」の会見に出たことがある。まだ福
岡県のカラ出張問題が明るみに出る前、そのきっかけとなった調査で、分厚い報告書
にはカラ出張疑惑の実態が詳細に記されていた。この団体の代表を務める名和田弁護
士は、正義感あふれるすばらしい人だと素直に感じた。よくも不完全な情報公開請求
制度をしつこく利用して、ここまでの報告書を作ったものだと思う。それも、時間や
費用など、かなり自腹を切ってのこと。ここまでやれば、本当に偉い人なんだと思う
。声の張りといい、目の輝きといい、自信に満ち溢れていた。彼は、日常生活でも、
聖人君子のような生活をしているに違いない。

 それに加え、ハイエナとでもいうべきなのがマスコミだ。いつもは何も言わないく
せに、いざ明るみに出ると、ここぞとばかりに騒ぎ出す。連日、徒党を組んで、落ち
こぼれを徹底的に打ちのめす。いわゆる、ガス抜きと言われる習性である。今回も、
市民オンブズマンが不正を暴いたとたんに、朝日、西日本とも「追跡・公金不正支出
」のような題でシリーズを組んだ。勿論、日経も毎週1本はそれらを追うようにして
まとめ記事を書いている。
 日経の多勢康弘氏が「上り坂組に甘い分、下り坂組には手厳しい。天国から地獄へ
落ちた格好の金丸、小沢両氏への容赦ない批判の雨は、これが同じ政治ジャーナリズ
ムか、と思うほどである」(「政治ジャーナリズムの罪と罰」より)と分析している
のもよくわかる。 
 
 マスコミは酷い。福岡県庁のタクシーチケット問題が出たとき、西日本新聞が県庁
御用足しのタクシー運転手の話として、社会面トップで大きく取り上げた。いわく、
「電車があるのに使う」「飲みに行くのに使う」「飲み代がないときにチケットで払
っている」「ホステスにチケットを渡して帰らせた」「休日に利用した」などなど。
 これを見たデスクが、良くも書けるな、とばかりに言う。「こんなの、おまえたち
がやっていることをそのまま書いたんだろう」。西日本新聞のことを言っているよう
で、実は自分らにも覚えがあるからこそ言える言葉だ。実際、私は、似たような現場
を何度も目撃している。
 私は全く参加しないが、先輩たちは、毎日のように、3千円も5千円も1日の飲み
代に平気で費やす。もちろん、歓楽街「中州」へ行くのも、そこから次の飲み屋に行
くのも、そこから帰るのも、全部タクシーチケットだ。この乱用ぶりには恐れ入る。
 こうした飲み会には、社の金がつぎ込まれる。デスクによると「部長には、交際費
としてかなりの額が会社から認められており、東京などから社員が来たり、部をあげ
て飲みに行く度に使われる」とのことだ。「支社ー本社接待」である。

 新聞は、再販制度という厚い規制に守られた、言わずと知れた「超」規制産業。公
益性も高い。お役所の建物の一部を記者クラブという名目の下、タダ同然で間借りし
、庁内電話通信網に組み込まれ、職員録には内線番号まで記してある。お役所と大し
た違いがあるとも思えない。
 それでいて、お役所だけ駄目だ、といえる神経が、傲慢といおうか、面の皮が厚い
と言おうか。結局、表面だけなのだ。サラリーマン記者が、自らの行動の免罪符替わ
りにやっているに過ぎない。

 確かに、県の国民健康福祉課の各職員が、組織ぐるみで月額7〜8万円を常時受け
取っていたというのは目に余る。これは立派な犯罪だと思う。しかし、タクシーチケ
ットに関しては、総額で年に2億円。職員は5万人以上いるので、1人あたりにすれ
ば数千円だ。その中のいくらかが不正に使用されたとしても、大した額ではない。ま
た「頑張れば日帰りが可能なところを1泊した」という程度まで重箱の隅をつつき出
すのを見るにつけ、これはもう「ちょっと、おかしいのでは」と感じるのだ。
 県とマスコミと、どちらが罪深いだろう。異様に高い給料を貰い、飲みまくる日経
はじめマスコミ各社と、その半分から2/3程度の低給料にあえぎながら、わずかな
金額をちょっとしたムダ出張で浮かせ、生活の足しにする県職員。やっていることは
、どっちもどっちだ。正義漢ぶっているだけ、マスコミの方が罪深さは高く見える。

 マスコミの「お役所粛正」は、12月に入り、私の担当する福岡市役所にも波及し
た。福岡で最大部数を誇る西日本新聞が、なんと「一面トップ」で報じたのは、『福
岡市管財一、二課、独自券を不明朗使用、「タクシーで通勤」、終電前帰宅にも』だ
った。これを受けて、緊急会見が設定される。内容は、95年度、両課40人で17
5万円分のチケットを使っていたが、そのうちの数件がどうも怪しい、ということに
過ぎなかった。財政部長などが6人くらい出てきて、神妙な面持ちで、過去2年にわ
たる全てのケースにつき調査することを言明。マスコミ各社は、徹底追及の構えだ。
 アホらしい。滑稽だった。1人あたりで計算したって、年間4万円程度。そのうち
のいくらかが不正かもしれない、という程度の問題だ。終電前にタクシーで帰ること
まで追及し始めたら、働く人全員が追及されなければならない。忙しくて疲れている
時など、たまにはタクシーで帰ることもあろう。緊急の用事で、急いで出社しなけれ
ばならないこともあろう。
 日経の西部支社では、電車があるうちは通勤定期で帰ることになっているらしいが
、誰1人として守っていない。また、守るものだとも思われていない。夜9時だろう
が、大声で平気でアルバイトの人にタクシーを呼ばせる。だから、取材活動と合わせ
、1人、年間で最低100万円以上は使っている。 
 博多駅前の朝日新聞をはじめ、マスコミ各社の所在地は、ほとんどの場合、駅前の
一等地にある。旧国鉄の払い下げ用地など国有地を優先的に手に入れたからだ。お役
所に比べても、駅からの近さに変わりはなく、交通の便は至極いいのに、不思議であ
る。

 「不正はいけない」式のマスコミの一面的な上っ面報道とは、敢えて逆の議論を進
めよう。人間は、そんなに完璧で奇麗な存在で有り得るのか。少しくらい落ちこぼれ
ているのが、人間の本質なのではないか。
 なぜ、暴力団が容認されているのかと言えば、それが日本の低犯罪率を維持する上
で重要な役目を果たしているからだという理論が、良く聞かれる。悪を徹底的に排除
することは不可能だから、悪との「微妙な安定」の上に平和な実社会が成り立ってい
る、という訳だ。自由主義社会で悪を徹底的に排除しようとすれば、返って犯罪率は
上がってしまうのだろう。
 日本研究家のウォルフレンは以下のように述べる。「組の組織がなければ反社会的
な若者は行くところがなく、社会の厄介者が増えて困ることになると自信を持って主
張する…やくざの組はひどい差別を受けている日本の少数派、被差別部落出身者や在
日韓国・朝鮮人を迎え入れる、数少ない組織の1つである。なぜ多くの組が、京都、
大阪、神戸をとりまく関西地域に生まれたかの理由の1つであろうが、この地域には
そうしたコミュニティが集中している」「システムの不文律では、やくざは、用心棒
、売春とそれに関連する不法な稼業はいいが、拳銃所持と麻薬取引は御法度とされて
いる」(『日本/権力構造の謎』より)
 売春が人類の存在する限りなくなることがないのは、歴史上でも疑いのない事実で
あり、問題は売春の是非ではなく、その「存在のさせ方」であることは、事実に裏付
けられよう。例えばドイツでは、売春は違法ではない(反道徳的行為と見られるため
、職業としては認知されていない)。日本でも不文律で認められているのは、スポー
ツ紙を読むまでもなくわかる。独の緑の党が、売春を職業として認める法案を連邦議
会に提出する動きがあるという。問題は、人間の本音の部分との共生の仕方なのだ。

 差別や落ちこぼれ、売春などがなくならないのと同様、汚職や公金乱用も、人類の
あるところ、なくなるわけがない問題である。権力は必ず腐敗するのだ。問題は、そ
ういった「悪」「人間の不の部分」との適度な共生の方法である。

 そう考えると、一面的に、すべての「悪」を根絶させようとするマスコミの姿勢に
は、疑問を持たざるを得ない。確かに、岡光容疑者らのように、巨額となると話は全
く別だ。それは明らかな犯罪である。もちろん、どこで線引きするか、という問題は
厳然として在り、そこにこそ議論のポイントはあるべきだ。

 「悪」との共生の方法で重要なのは、あくまで同じ土俵で議論することである。日
本で売春が違法なのは、「臭いものに蓋」的な発想が根強いからだ。法律の枠内に入
れて同じ土俵で議論することを避け、建て前上だけ人間らしくもない清廉潔白な国を
目指す。いじめ問題にしても同じである。学校は、いじめられた子の存在を見ようと
もせず、なかったこととして闇に葬り去ろうとする。非差別部落や皇室などの様々な
タブーにしても同様で、表で議論していないことが問題として挙げられよう。
 「臭いもの」は、常に情報公開されているべきである。蓋をされていては駄目だ。
法治国家として、あくまで法律の枠内で議論されるべきである。その意味では、マス
コミのような規制に守られた既得権公益企業は、もっと社内の金の流れなど、情報公
開される法律があっていい。しかし、蓋がないがために明らかになった「悪」に対し
、それを一面的に根絶することだけ考えるのではなく、自らを省み、また人間という
ものを正しく理解して、時には黙認する、という姿勢が、本来のジャーナリストの姿
なのではないか。自分を「棚上」するのではなく、許されぬ範囲がどこまでか、どこ
からが犯罪なのか、の「線引」できる能力が問われるのではないか。

 自らを棚に上げ、公務員にだけ、モラルを問う。自分らは公私混同のくせに、公務
員にだけ、完璧に公私を分けろという。記者が、一点の非もない聖人君子のような人
格者であれば話は別だ。しかし、それは人間である以上、在りえない。それに近づく
ような努力が必要かといえば、確かにそれは、望ましいことだが、限界がある。両面
があってこそ、人間である。みんながみんな、市民オンブズマンの名和田弁護士のよ
うな人であるべきと考えるなら、それは怪しい宗教に入信したことに他ならないので
はないか。それよりも重要なのは、悪を生来備わったものとして容認できる姿勢と、
どこまで容認するかという、その線引きができる能力だと思う。
 何も、タブーを作れと言っているわけではない。たまに公務員に、ごく小さな不正
があったとしても、それを暴くことに対し、「それくらい、人間らしくていいじゃな
いか」とせせら笑うくらいの記者が沢山いていいのだ。それを、各社こぞってハイエ
ナのごとく群がり、重箱の隅をつつくように追及する姿勢が、おかしいのだ。自らは
全く情報公開せず、同じ土俵に上がっていないくせに。

 現在の日本の記者たちには、なぜか「自分を棚に上げる能力」が求められているよ
うだ。自分ができないことを主張しなくてはならないという、大いなる矛盾を抱えて
いる。しかし、それは本質が見えていない大人気ない行為であって、本来のジャーナ
リストは、自ら「線引き」し、無視するものは無視して、その時間を、より重大な問
題についての調査報道などに充てるべきだと思うのである。

以上、新人記者の現場から(53)「棚上と線引」。全く原文そのままである。