「たたかう新聞 ハンギョレの12年」/伊藤千尋/2001年、岩波ブックレット

「ハンギョレが創刊される前までは、韓国ではどの新聞もほとんど同じような内容で、新聞の名前を伏せたら、どの新聞かわからないと言われるほどだった」。日本の現在の朝・毎・読の題字を隠したら、大多数の人は区別をつけられないだろう。それは論調に差がないということ、つまり言論の多様性が存在しないことを意味する。日本には「ハンギョレ21」のようなハイ・クオリティのニュース週刊誌もない。ジャーナリズムという点では、間違いなく韓国より遅れており、これは民主国家として恥ずべきことだ。これも「与えられた民主主義」の負の側面だろう。なければ、作ればいい。日本でも、作るべきだ。(2001年2月)

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 「『これを知りたかった』と読者が感動する記事、『これを伝えたい』と記者が意欲をもって書く記事。そんな記事が載っている新聞はないものか。虐げられた人々の側に立ち、民主化と社会正義を求め、権力に対して体を張って闘う新聞はないものか。なければ、作ればいい。そう考えた人々が韓国にいた。それも軍政下という厳しい社会状況の中で。民主化を主張したために新聞社を解雇された記者たちが13年の苦労の末に、『真の言論を』と自分たちの手で新聞社を創業した。それを支えたのが読者だ。創業も経営も、資金源は読者の持ち株である。…この新聞の名を、『ハンギョレ』という。『一つの民族』という意味だ。分断された民族の統一と民主化、民生を三つの目標とし、『権力と資本からの独立』を掲げる。『国民の声と民族の良心を代弁する勇気ある新聞』をモットーに、政権や企業におもねることなく理想を追求した。」

「創刊発起人大会を終えた直後の1987年11月、創刊事務局は創刊基金の50億ウォンを集めにかかった。当時の価値で日本円にして約8億6000万円である。1株は5000ウォン(約860円)に設定した。銀行に口座を開き振り込みの案内用紙を作った。…基金は、88年1月末に30億ウォンを突破した。50億ウォンの目標を完了したのは2月25日だった。このとき『国民株主』は2万7223人に達していた。形は株だが、実質は寄付である。配当を期待している人はほとんどいなかった。」

「異色なのは『世論媒体部』である。当時の韓国のメディアは権力にゴマするようなものばかりだった。権力に対抗するには、権力に追随するメディアにも対抗しなければならないとハンギョレは考え、言論の監視役を自認して常に新聞の1ページをメディア批判にあてることにしたのである。その面に『国民記者席』の欄を設けた。読者が身の回りのニュースを書くのだ。いわば読者がフリーライターとなって紙面に参加する試みである。」

「ハンギョレは社として、いっさいの贈り物の受取りを禁止した。やむを得ない事情でもらった場合は社内に公開し、ひそかに受取れば退社という厳しい処分にすることを申し合わせた。91年10月、ハンギョレは保健社会部の記者団、日本で言うと記者クラブの記者たちが企業から『寸志』をもらって海外旅行をしたことを記事で糾弾した。その反響は大きかった。言論界は動揺し、記事が出た翌日には東亜日報などの新聞社は読者に謝罪する記事を掲載したほどだ。」

「他紙にとって、民主化を主張するハンギョレは敵でしかなかったのである。彼らはハンギョレを記者クラブに入れようとしなかった。…しかし、創刊から1年ほど後に行われた民正党自身の世論調査で、ハンギョレは数ある新聞の中でも国民の信頼度がトップであることがわかった。そうなると党としても無視していられない。党の広報担当者は、いかにハンギョレに友好的な記事を書かせるかに頭を悩ませるようになった。こちらが毅然としていれば、やがて向こうからすり寄ってくることを記者たちは知った。逆に野党や反政府組織からはふんだんな情報が寄せられた。軍や政府側の中の良心派が内部告発することもあった。そこから、他紙では見られない数々の特ダネが生まれた。」

「入社試験は1988年1月から2月にかけて行われた。給料は他紙の3分の1くらいだということが採用条件に挙げられている。…試験会場となったソウルの中央大学には、8052人もの人が受験に押し寄せた。…『今いる社は記者に良心をだますよう教育している。私は欺自(キジャ)でなく記者(キジャ)になるためハンギョレを志望した』。『私の新聞社では記事を書く前に結論があり、事実をそれに合わせなければならなかった。自由な新聞で働きたい』。志望者たちは口々に答えた。これで陣容は整った。出発点での社員は200人余り、記者はその半数の約100人だった。」

「98年、経営陣選出制度改善委員会が生まれた。労組と経営側から3人ずつ、計6人の委員が集まり、社長をどう選ぶか、編集局長の選び方は今のままでいいのか、を討議したうえで改善案をまとめ、全社員に示した。社員の圧倒的な支持を受け、会社側も全面的に受入れた改善案というのは、社長も編集局長も社員が直接選挙するという画期的なものであった。しかも、社長も編集局長も自発的な立候補形式である。記者としての経歴が15年以上ありハンギョレの株を持っているなら、だれでも社長と編集局長に立候補できる、というものだ。候補は社外の人でもいい。」

「職制が民主的なら、給料も民主的である。職種による差がない。年齢によって毎年上がっていくだけの単一給与制度である。」

「ハンギョレ本社三階の玄関を入ると、受付の周囲の壁は三方にわたって赤銅色に光る83枚の銅板で埋まっている。左手には創刊号や創刊のための準備号の紙面を焼き付けたパネルが並ぶが、その他の69枚は、びっしりとハングルの名前で埋まっている。刻まれた人名の数は6万1666人。…名を刻まれた1人1人が、ハンギョレの呼びかけに応じて出資した『国民株主』である。」

「ハンギョレが創刊される前までは、韓国ではどの新聞もほとんど同じような内容で、新聞の名前を伏せたら、どの新聞かわからないと言われるほどだった。今もハンギョレ以外の有力紙はすべて保守系で、いずれも財閥の利益を代弁している。ハンギョレは唯一の革新系の新聞である。」

「新聞一筋で来たハンギョレが、創刊の6年後には雑誌の発行も開始した。94年にはニュース週刊誌『ハンギョレ21』を、95年には映画週刊誌『シネ21』を相次いで創刊した。」

「『ハンギョレ21』は売れに売れた。通常で10万部。社の期待通り、創刊後1年で黒字を出した。創刊から三年の97年には年間で500万部以上が売れ、純利益だけで15億ウォンを出した。最初から現在に至るまで、週刊誌では不動の1位を維持している。」

「成氏の笑顔はすがすがしい。取材中に会ったハンギョレの記者の中にも、ニコニコしている人がとても多かった。経歴を聞くと、いずれも投獄、解雇、失業など波乱の人生を送っている。人生の辛酸をなめながら、人はこうも笑顔になれるのかと私は不思議でならなかった。」

「企業の幹部など要職にある人を読者に想定して高級なクオリティー・ペーパーを目指すべきだという考えと、特定の読者を見込むのでなく対象を広げ『いい新聞』を作れば『いい読者』もつくとする主張に分かれた。最後に採用されたのは後者だ。なにせ韓国は保守的な社会だ。オピニオンリーダーも大半は保守的である。彼らに合わせると新聞も保守的になる、それでは創刊の精神を裏切ることになる、という論理である。…結果としてまとまったのは、『進歩的な大衆紙』という概念だ。卑俗でなく専門的でもなく、すべての人々に開かれた新聞という意味である。今後はハンギョレを説明するとき、これをコンセプトに掲げることになった。そう決まったのが96年10月で、討議に半年をかけた。若手を含めた委員会で草案を練り、全社員が下から討論して社の方針を決めたことは高く評価される。」

「メディア批評紙『メディア今日』の金編集長も『(人口約4700万人の)韓国で進歩的な意見を形成できるのはせいぜい10万人に過ぎない。進歩的と大衆的とが両立するのは難しい。金大中氏が大統領に選ばれたとはいえ、韓国ではまだ市民社会が成熟していない。それが新聞の市場にも投影している』と語る。」