「『知』のソフトウェア」/立花隆/84年、講談社現代新書

◆記者マニュアル的要素が強い本。ノウハウ・情報の共有化を試みる立花氏の考えに私は大賛成である。日本を代表するジャーナリストである氏の聞き取り取材の方法論は八四年の出版ながら、いまだ全く色あせていない。豊富な取材経験をもとにした普遍性の高さを物語る。これはもはや記者の必読書と言っても過言ではない。インプットとアウトプットの間のブラックボックスについての記述は、野口氏がのちに超整理法で取り上げ進化させている通り、創造力の源泉となる興味深いポイントだ。無意識下の記憶能力のポテンシャルを信じ「良質のインプットを大量に行う以外に手段は何もない」とする立花氏に対し、野口氏はより多角的な分析を加え「究極のあがき方」を説く。何と本質的な奥深い議論であろうか。「絵コンテ(スケルトン)がない方がよいものが書ける」とする氏の理論も私が思っていたことを代弁してくれている。『ヴァーバルジャーナリズム』や『針小棒大ジャーナリズム』、文章表現法なども含め、この本に無駄な文章は少なかった。私にすばらしい知恵を与え、記者の立場からも影響力が大きかった一冊である。記者でなくとも、読む価値は高い。

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「何より重要なのは、自分が何を必要としているのかを明確に認識しておくことである。なんでもないことのようだが、これが一番重要なのである。それさえはっきり認識していれば、目次、小見出し、索引を活用すれば、だいたいの見当がつく。」

「目的先行型インプットは能率はあがるが、能率を上げすぎると欠陥が出てくる。目的に関係しない部分をどんどん切り捨てていけば、自分が設定した目的から一歩も出られないことになるからである。…目的が先行しすぎると、知的インプットは貧しくかつ卑しいものになっていく。」

「先にインプットには時間がかかるといったが、アウトプットにはそれと比較にならぬほどの時間がかかる。2時間で読み終わるようなちゃちな本でも、書く側は百時間から二百時間くらいかけている。」 

「国立国会図書館が定期的に刊行している『雑誌記事索引』と『大宅文庫の分類カード』が、日本の二大雑誌索引である。固い記事なら前者、柔らかい記事なら後者の索引でたいていのものはでてくる。」 

「どういう専門誌があるかを調べるには、『日本雑誌総覧』、『学術雑誌総合目録』といったレファランス・ブックをあたってみるのが1つの方法。もっと手っとり早い方法としては、その領域の専門家に聞いてみる、専門書店に聞いてみる、専門図書館に行ってみるなどの方法がある。」

「新しい仕事に取りかかる前に、心ゆくまで存分に準備できたということは一度もない。いつも準備不足に心を残したまま、時間切れで、新しい仕事にとびこんでいる。だから、スタートしてからも、毎日毎日、準備不足だったところを学び直していくことになる。しかし、準備とは本来そういうものかもしれない。何事によらず、完璧な準備などというものはできるものではない。よしできたとしても、そのようなものは心がけるべきではない。準備に手間取り過ぎて、準備はできたが本番をやる気力も時間もなくなっていたということになりかねないからだ。」

「市民の読書生活において、図書館が中心的役割を果たすべきだなどという人がいるが、私は大反対である。公営で無料の大食堂をあちこちに作って、そこを市民の食生活の中心にすべきだなどというバカげた意見を唱える人は共産圏でも少ないだろう。」

「入門書は大切だから、予算があり、数もそんなに多くなければ、あるだけ全部の入門書を買ってしまうというのもよい。ともかく、入門書は一冊だけにせず何冊か買ったほうがよい。その際、なるべく、傾向の違うものを選ぶ。定評ある教科書的な入門書を落とさないようにすると同時に、新しい意欲的な入門書も落とさないようにする。前者は版数の重ね方でそれと知れるだろうし、後者は、はしがきなどに示された著者の気負いによってそれと知れるだろう。…一般に本を読んでいてわからないことに出会ったら、すぐに自分の頭の悪さに責を帰さないで、著者の頭が悪いか、著者の説明の仕方が悪いのではないかと疑ってみることが大事である。事実そうである場合が多い。」

「ときどき、初級書、中級書を読んだだけで、いっぱしの専門家はだしの顔をしている人がいるが、そういう人はいずれ大火傷することになる。どんな領域でも、プロとアマの間には軽々には越えられない山があり谷がある。プロをバカにしてはいけない。」

「一般に官僚は見知らぬ相手にはじめて対した時は、相手を見くびろうとする。こちらが、見くびろうにも見くびれぬ相手であることをキチンと態度で示さなければ、それで終わりである。押しても叩いても何の情報も出てこない。官僚から情報を引き出すためには、次の二点を相手に納得させなければならない。第一に、その情報が存在しており、それが相手の手元にあることをこちらは知っているのだということ。第二に、その情報を秘密にしておくべき理由は何もなく、公開されて当然であるということ。」 

「官庁情報を利用する上で注意しなければならないことは、それが特定の行政目的を達成するために作られた、客観性を装いながらも実は客観的でない資料である場合も多いということだ。最近各官庁とも、一見客観的な資料のみを用いた情報操作に実に巧みになっている。たとえば、農林水産庁が米価を抑制したいと思うときは、米価抑制の論拠となるような数字をもっぱらならべた資料を作成する。その資料をマスコミに流して書かせれば米価抑制の世論作りをすることができるわけだ。」 

「1つ1つのデータは全部正しいが、そのデータ全部をもとに判断を下すことは正しくないということがよくある。盾の一面からだけ採取したデータから盾の両面について判断は下せないということである。だから、この点の吟味にあたって重要なのは、そこに何が書かれているかではなく、何が書かれていないかをよくよく考えてみることである。」 

「普通の企業の調査部は、あくまでもその企業の私的利益追求のための調査部であるから、調査内容が非常に片寄っており、外部の人にも有用なデータというのはさほどないし、またあったとしてもたやすく利用できるわけではない。例外は、銀行と証券会社である。この2つは、その業務内容からして、ありとあらゆる業界に通じていなければならない。またミクロの経済のみならずマクロの経済も把握していなければならない。…ちなみに電力業界全体で作っている電力中央研究所は、日本で最も定評ある調査研究機関の1つである。」

「こういうときに役立つのは、NRI SEARCHという野村総合研究所が出している情報誌である。誌名は英語だが、中身は日本語。この雑誌は、ありとあらゆる調査報告を紹介するための雑誌である。」 

「最も大切なことは、自分がその相手から聞くべきことを知っておくことである。これはあまりにも当たり前のことで、人に話を聞こうとする場合の当然の前提だから、とりたてて注意を払うべきことではないと思われるかもしれない。しかし、私にいわせれば、これ以上に本質的に大切なことは何もなく、あとは大部分が瑣末なテクニック論である。『問題を正しくたてられたら、答えを半分見いだしたも同然』とよくいわれる。これはまったく正しい。同様に、聞き取りに際しても、聞くべきことがわかっていれば、半分聞き出したも同然なのである。」 

「人にものを問うということを、あまり安易に考えてはいけない、人にものを問うときには、必ず、そのことにおいて自分も問われているのである。質問を投げ返されたときに、『問うことは問われること』という二重構造がはっきり表に出てくる。こわい相手に出会うと、そのうち、どちらが問う者で、どちらが答える者かわからなくなってくる。プラトンの対話篇がその典型だろう。ソクラテスに質問した者は、逆にその質問についてソクラテスから問いただされ、質問者自身の考えが逆に問いつめられていく。」

「具体的にいえば、第一に、知ろうとしていることが、何らかの事実なのか、それとも事実以外のこと、たとえば、相手の意見や判断といったことなのかを区別することが重要である。」

「この質問メモは、インタビューをしている間、いつでも目立たぬ形で素早く参照できるようにしておく。つまり、別紙にして持っておくか、ノートあるいはメモ帳の最初のページなど、いつでもめくれるところに記載しておく。」 

「テープレコーダはあまり使わないようにしている。ただし、次のような場合には積極的に使う。後々『言った、言わない』のトラブルがありうると予想される場合。メモとりが物理的に難しい場合(歩きながら話を聞く、車の中で話を聞くなど)。あるいは英語の取材、強い方言の取材、非常に専門的な内容の取材など、あとからテープで聞き直してみないと不安な場合。相手の語り口をそのまま生かすことが有効な場合。現場の雰囲気を記録しておきたい場合などである。」

「なお、ノートに記録を取りながら、話の進行過程の中で思いついた新しい質問は、素早くノートの欄外にメモっておくとよい。そういう質問は概していい質問なのだ。」

「歴史的事実を問うときに必要な基礎的事実関係は、誰でも知るように5W1Hに要約することができる。誰でも形式的にはそれを問うことは忘れないだろう。しかし、5W1Hの1つ1つについて、どれだけ具体的事実を引き出して掘り下げていくことができるかは、人によって、千差万別である。どこで差ができるかといえば、質問者の想像力によってである。」

「内的事実を丹念に記述し表現するなどということは大半の人がやったことはないのだから、たいてい日常的な常套句ですまそうとする。そのとき、それをさらに深めた表現にするために、ヴォキャブラリーや表現法をこちらで工夫して提供してやることがしばしば有効である。」 

「論理的想像力というのは、事実をつなぐ論理を発見する能力、あるいは、人の推論をきいて、そこに論理的欠陥を発見する能力である。…論理的想像力が欠けた者同士が語り合うと、まったく論理が欠落した会話を交わしあってお互いに満足という結果に終わる。…プロのインタビュアーであれば、相手に論理的想像力が欠けている場合でも、それを補うような質問を重ねていって、相手に少しでも筋道が立ったことを語らせるように努力すべきである。ただし、その場合、誘導過剰になって、相手の本意でないことを語らせる結果に陥ってはならない。…話の筋道さえ立っていれば、論理の運びの手続きをスキップしていくことは一向にさしつかえないどころか、むしろそれが普通だろう。それは論理の欠落ではない。論理の欠落というのは、本質的に話の筋道が立っていないことをいう。ある前提から、本来導けない結論を強引に導いてしまうがごとき論法である。」 

「頭の中の発酵過程、頭の中で考えがまとまっていく過程そのものについては何も方法論がない。酒造りにおいては、桶に材料と酵母を入れたら、あとは酵母に頑張ってもらって発酵が起こるのを待つよりほかにない。それと同じように、考える素材となるものをあれこれ頭の中に詰め込んだら、あとは頭の中で何か考えが熟して、人に伝えるべき何事かが出てくるのを待つしかない。」 

「どうもスッキリしなかったら、スッキリするまで手を入れる。手を入れるうちに頭が混乱してきて、何がよいのか自分でもよくわからなくなるということがまま起こる。そういうときは、思い切って削る方向で手を入れる。スッキリしない部分は必ず長い文章である。そこでまず、修飾語を取り除き、連文、複文なら短文にし、できるだけ単純で短い文章にしてみる。それでもうまくいかないときは、文章の構造を変えてみる。具体的には、主語を変えてみる。主語を変えれば文章全体が変わらざるを得ない。主語を変えたとたんに、いままで呻吟していたことがウソのように文章が流れ出すということがよくある。もう1つの方法は、動詞的表現の文章は名詞的表現に、名詞的表現の文章は動詞的表現に変えてみることである。文節でも、句でも、文章全体でもよい。どんな文章のどんな部分でも、この書き換えが可能なのである。」

「コンテらしきものを作ったことは何度かある。いずれも週刊誌の記者をやっていた若い頃で、先輩記者の教えに従ってそうしたのである。しかし、それがまったく役に立たなかったので、以後コンテを作るのをやめてしまった。…コンテを作るのが苦手で、何度やってもうまくいかなかったり、コンテを作ってもどうしてもその通り筆が運ばないという性癖を持つ人が私の他にも少なくないような気がする。そういう人には、あえてコンテにこだわるなと言いたい。…私のように、コンテなしで、ものを書くことを習慣にしてしまっても、それはそれでやれるものである。」

「コンテがない場合、何をたよりに書くのか。私の場合は、流れである。流れに従って書く。そうとしか言いようがない。…コンテを作るというのは、いわば、執筆前にあらかじめ流れを作ることである。…コンテを作ろうが作るまいが、流れるものはそれまでに集めた材料である。よいものが書けるか書けないかという問題は、自分が集めた材料に最適の流れを発見してやれるかどうかという問題と同義である。執筆前にコンテを作るという手法は、いってみれば、これが最適と思われる流れを、はじめに思弁によって策定し、その流れに沿って人工的に運河を掘削してしまい、そこに材料を流し込むと、アーラ不思議(というか、あまりにも当然にも)、流し込まれたものは掘られた運河にそって流れていくというだけの話である。それに対して、コンテ無し派の発想は、水をして流れるにまかせるが如く、材料をして流れるに任せれば、材料自身が最適の流れを発見するだろうという考えの上に立つ。『上善は水のごとし』というではないか。材料を料理してやろうと意気込まずに、むしろ材料に料理されてやろうと思っているくらいの方が、材料を充分に生かしたよい料理ができるものである。つまり、コンテに頼るか、頼らないかの問題は、意識上層部の構成力と、意識下の無意識層の構成力と、どちらを評価するかの問題であるともいえる。知的作業はすべて明晰な意識に統合されつつ展開されるべきであるとする人もいるだろう。そういう人には、コンテが絶対的に必要である。しかし私は、前にも述べたように、意識下にポテンシャルに持っている知的能力のほうがはるかに巨大で豊かだと思っている人間である。この豊かな力を引き出す唯一の方法に、あらかじめその豊かな力の働きに制約を加えることは得策ではないから、どうしたってコンテなしで、フリーハンドで待つべきだということになる。」 

「だいたい材料を並べてコンテを作るといっても、コンテを作る段階で、すべての材料が目の前にあるわけではない。材料集めの作業がまだ済んでいないということではない。執筆段階に入ったのだから、それは済んでいるはずである。そして、この件に関して意識的に集めたかぎりの材料は目の前にあるはずである。だが、それでもすべての材料がそろっているとはいえない。というのは、知的アウトプットにおいては、目に見えない材料が極めて重要な役割を果たすからである。目に見えない材料とは、無意識層に蓄積されている膨大な既存の知識や体験の総体である。…ある材料が無意識層から意識の上にのぼってくるプロセスは、おそらく人によっていろいろちがいがあって、万人一様というわけではないだろう。私の場合でいえば、それはたいていギリギリ必要な瞬間に、ほんとに瞬間的に出てくる。ギリギリ必要な瞬間というのは、まさにその文章を書いている瞬間である。ほんの一秒前には、そんな材料が自分の無意識層に埋められていたとは思いもよらなかったものが、突然ことばとなって浮かび上がってくる。事前にコンテを作ろうと思っても、絶対にそのときには頭の中に浮かんでこないに違いないであろうような材料が突然出てくるのだ。こういうタイプの人間にはどうしてもコンテが書けないし、書いても無駄に終わるのである。」 

「アルキメデスは、風呂の中で浮力の原理が頭の中に閃いた瞬間、『ユーレカ(わかった)』と叫んで風呂から飛び出し、裸のまま街を走ったという。何かを探求していれば、必ずそのうちこの『ユーレカ』の瞬間がやってくる。『ユーレカ』は快楽である。おそらく人間が味わうことができる快楽のうちで、最も上質、かつ最も深い快楽の1つだろう。」

「さて、とはいうものの、まるで何もなしで書くというのは、私の場合、普通ではない。普通は簡単なメモを事前に作る。メモには2つの目的がある。1つは手持ちの材料の心覚え。もう1つは、閃きの心覚えである。前者は事前に作り、後者は随時書き留める。」

「どんなに書き出しにこる人でも、同じことを人に話そうとするときに話し出しに凝ったりはしない。話す時は、ストレートに重要なことが話せるものである。話してみると、書き出しへのこだわりが吹っ切れることがよくある。…ただし、このとき重要なのは、話し相手を選ぶことである。自分が想定している読者と同水準の人を選ばないと、この作業はやるだけ有害になる。」 

「どういう文体で書こうかということをすっかり忘れ、自然体で書いたときに、その人の文体が生まれるのである。稀にはピカソの画風のように、生涯の何度かにわたってスタイルが劇的変貌をとげる人が著述家にもいるが、通常は一旦確立された文体は変わらない。より洗練されていくだけである。…文章を要約すれば文体は消えるが情報は残る。」 

「まず削ることを忘れて、自分の納得がいくまで書き足しをする。それからあらためて、どこか削れる部分はないかと、今度は削ることだけを念頭に置いて読み直してみる。書き足しと削りとは平行してやらないほうがよい。この順序が大切である。削りが目的なのに、書き足しをするとは、目的に逆行することをているようだが、そうではない。削りと書き足しは全く別の目的のためになされる。削りは量的削減、書き足しは質的向上が目的である。質の水準を変えずに削ることは可能なのだから、質的向上が求められる余地があるなら、まず、その作業を先にすべきなのである。可能な限り質を上げておいてから、可能なかぎり質を下げないようにして量を減らしていくわけだ。…人は、他人のものは客観的に素早く価値判断ができるのに、自分のものについては、それがなかなかできないということである。だから、削りは人のものを削ることで練習するとよい。」

「まず第一に、読者と自分が共有している共通の前提知識が何であるかを、常に意識しておくことである。…重要なのは、この枠の設定の仕方に内部矛盾があってはいけないということである。たとえば、下位概念は詳しく説明しているのに、上位概念を無説明で用いるとか、互いに連関している同レベルの概念の片方は説明しても他方は説明しないといったことである。」 

「具体的には、論理学でいう『充足理由律』が満たされているかどうかを確認せよということだ。あることをいうために、それがいえるという充分な理由が示されているかどうかを見よということだ。それを見るためによい方法は、自分が誰かと論争をしている最中なので、スキあらばこちらの弱いどんな部分にでも相手がかみついてくるものと仮定して、もう一度自分が書いたものを読み直してみることである。いっそ論争相手になったつもりで読み直してみよということだ。あるいは、こちらにスキがあれば告訴してやろうと待ちかまえている人がいると想定してもよい。私は何度も告訴されたり告訴されそうになったり、あるいは錚々たる論客と論争を繰り返すことによってこの点だいぶ上達した。」

「一般的に、まず心がけることは、いかなる情報についても、それがオリジナルの現実から何段階のクッションを経て伝達された情報であるかを考えてみることである。…一般に、次数が上がるほど情報の質は落ちる。…プロの取材者にとっては、三次情報を含めそれ以下の情報源は、ほとんど取材に値しないといってよい。…プロの取材者が三次情報以下の情報源に接する場合、何をするのかというと、誰が一次情報の所有者で、誰が二次情報の所有者かをできる限り聞くのである。…事実を調べてものを書くという仕事は、仮説検証過程であるという認識を失わず、決してドグマチックにならないことである。別の表現をすれば、あくまで事実から結論を引き出せということだ。」 

「日本の、特に出版ジャーナリズムに蔓延している1つの悪弊は、ヴァーバル・ジャーナリズムである。私はこのことばを、ファクト・ジャーナリズムの対極にあるものとして用いようとしている。要するに、人のコメントをあれこれ集めてきてそれを面白おかしく適当につないでいくことで一本の記事を作るという、週刊誌の記事で一般的に用いられている手法のことである。…私は週刊誌の記者としてこの職業のキャリアをはじめたので、自分自身で、ヴァーバル・ジャーナリズムの作品をたくさん書いた経験を持つ。そして、これが、可能な限り少ない取材で可能な限り長い記事を書くための最良の手法であることをよく知っている。…経験者としていうのだが、ヴァーバル・ジャーナリズムは、『水増しジャーナリズム』である。」 

「ヴァーバル・ジャーナリズムが、情報の信頼度の低いジャーナリズムの1つの典型であるとするなら、もう1つの典型は、針小棒大ジャーナリズムというか、木を見ただけで森を描いてしまう手法である。よく見られる例は、どこか外国の国にちょっと住んだだけの人が、自分の身のまわりのちょっとした体験から、その国全体を論じてしまう本を書くというたぐいである。…こういう、特殊から普遍を演繹してしまうという大胆なことができる人には女性が多い。」 

「ともかく、読んでいて、これはおかしい議論だと思うものにぶつかったら、まず前提を疑ってみることだ。隠された前提を含めて、前提を全部リストアップしてみるとよい。」