「動かぬ証拠」     オークランド(ニュージーランド) '94.3

 ヘイドン宅にホームステイを始めて一週間ほど経ったある日。ヘイドンとダマリスは仕事があり、ヘイドンは私が退屈しないようにと、中心街に連れていってくれた。「日本人が沢山いるから、知り合いになれるかもしれない」というのだ。

 私は、オークランドの目抜き通りであるクイーンズストリートを歩き回ることにした。考えてみれば、私はまだ、この街を歩いていなかった。オークランドは、"CITY OF SAILS "と呼ばれる。歴史を感じるには少し物足りないくらいに、きれいに整備されていた。中心街を歩いた限り、確かに、爽やかな港町だった。

「きみ、日本人?」一通り歩いたところで、日本人が声をかけてきた。まるで既に出来上ったストーリー通りに事態は展開していく。振返ると、帽子を被った中年男性がいた。「いや〜、今、手紙を書いてるんだが、日本語を忘れそうでねえ」。いやに親しみ深く、慣れた口調で話しかけてくる。

 変ったオッサンだな、というのが第一印象だった。その男性は、白井と名乗った。職業は医者で、オーストラリアで土地を買うために来たものの、権利書の譲渡までに時間が余り、ニュージーランドに足を延して1カ月余り、滞在しているのだという。

「実は私、こうなんですよ」。帽子をとった頭は、七割方、はげていた。それもそのはず、御年六十才の初老人だったのだ。私は、そのギラギラと鋭い眼や話ぶりから、四十くらいだと思っていたのだ。これはただ者ではないな、と感じた私は、ドクター白井と話し込むことにした。

「ずいぶんと、お若いですね」

「実は私は指圧が専門なんです。自分に指圧して、ホルモンの量などを調節しているから、若さを保てるんですよ」

 ドクター白井は、次々に鋭い質問を投げかけてきた。

「きみは、腰が悪くないか?」確かに、昔から悪い。

「時々、胸に痛みが走らないか?」そう言われれば、そうだ。

「右の肩が凝るだろう」図星だ。中学生のころからずっと、右肩の後ろがすぐに凝る。

「左手を見せて。小指が短いね。内臓に欠陥がある。もしかしたら、20代後半で、ガタッと悪くなるよ。視力も、突然落ちるかもしれない」

 本当だ!確かに全部の指を伸すと、左の小指は、薬指の第一関節に届かないが、右は届いている。いよいよ不気味になってきた。彼は、長年の経験から、外見でだいたいの症状が、わかるというのだ。半信半疑ではあったが、どうも言うことが当たっている。

  ◇ ◇ ◇

 気が付くと私は、この不思議な男の話に、吸込まれるように聞き入っていた。

 戦前生まれの彼は、若い頃から、外交官を目指していた。少年時代に敗戦を経験し、多くを失った日本。とにかく地位や名誉が欲しかったのだという。幸い、IQが150を超える天才だったため、日本政府の留学生として八万人の中の七人という高倍率をくぐり、米国に留学。

 ちなみに、彼は今でも「知能指数150以上の会」の会員だそうだ。どうりで、見た目も変っているはずである。

 外交官を目指し、順風満帆とみられた彼の人生にも、転機は突然、訪れる。彼は、椎間板ヘルニアに襲われ、著しく健康を害してしまったのだ。外交官という激務に耐えるには、健康が必要条件であることは言うまでもない。当時、ヘルニアが簡単に治るような病気でないことは判っていた。彼は、悩んだ。そして遂に、自らが医者になろうと決心する。

 持ち前の頭の良さで、二年で医大を卒業、医師の免許を取る。そして、指圧による治療で、自らのヘルニアまで完治させた。その後、結局、40年近くもアメリカに居続け、30年近く医師を勤め、米国で家庭を持った。日本ではまだ普及していない指圧による治療で、数え切れない程の不治の病を治してきたという。

 そして5年前、60歳で現役を引退。とはいえ、気も体もまだまだ若いので、同年代の人とは話が合わず、若い人と話をするのが好きなのだそうだ。「私と同世代の人たちと話すと、すぐお墓の話なんかが出てくるからねえ」。確かに、この人なら100歳までは平気で生きそうな気がする。引退後は、ビジネスマンとしてホテル経営もしたという。

 私は、ドクターが載っているという新聞の切抜きなどを見せてもらうため、彼が泊っているホテルに行くことにした。

  ◇ ◇ ◇

 ドクターは、七万円もしたという頑丈そうなバックから、様々な「証拠品」を取出した。まず、指圧治療の証拠として、日本の指圧の大家、波越徳治郎氏からの感謝状を見せてくれた。波越と言えば、マスコミにも随分取上げられた、あのマリリン・モンローや歴代大統領が治療を受けたという超有名人である。

 そして、次に出てきたのが、患者からの手紙。そこには、医師と患者が一身同体で治療に取り組み、それまで原因不明だった病気が治っていく過程、そしてドクターへの感謝の気持ちなどが、生生しく綴られていた。信じないわけにはいかなかった。

 圧巻だったのは、昔の新聞記事の切抜きだ。それは、ドクター白井の若き頃の写真付きで、「日本の留学生、ケネディ大統領に進言」といった見出しのものだった。文中にもドクターが出てくるので、どう見ても間違いない。写真は、いかにも天才といったギョロっとした目にスリムな顔立ちで、額は広かったが、まだ髪の毛が随分残っていた。間違いなく本人だ。

 ドクターによれば、時代はベトナム戦争。ケネディ政権だった。彼は、ケネディ大統領の招聘を受け、アジアの若者の立場から意見を述べるよう請われたのだ。彼は、数回に渡りケネディに助言した。また、次のジョンソン大統領にも呼ばれ、同様に話をしている。

 ベトナム戦争について彼が述べたポイントは、主に2つだったという。「アジアは、極貧にあり、とにかく食べ物にありつくためにはイデオロギーは関係ない」「ベトナムが共産圏に入ったら、他地域でもバタバタと共産化が広まってしまう」。

 彼の意見がいわゆる「ドミノ理論」となり、戦争が泥沼にはまり込んで行く一助となったのかどうかは定かでないが、その人物のスケールの大きさには驚くばかりである。

 私は、彼を完全に信じてしまった。信じないわけにはいかないほどの証拠が、これだけあるのだ。彼に出会えた好運に感謝し、そして、彼の勧めで、治療してもらうことにした。料金は、すでに引退した身であるため格安だという。私は、ドクターとして認めただけでなく、人物として他にも様々な魅力を感じ、少しでも吸収したかった。

 それにしても、この「動かぬ証拠を持ち歩く」というノウハウは、何とも強力に思えた。「ビジネスの交渉でも、新聞の切抜きのお陰で、下を飛ばして、いきなりトップと交渉できるんですよ」とドクター。勿論、それだけの実績がなければどうにもならないが、自分を効率的にプレゼンテーションするノウハウを常に考えておくことは重要であり、その一つとして有効な手段であることは間違いないように思われた。