「新聞記者を辞めたくなったときの本」/北村肇/2001年、現代人文社

 この手の本を散々読み、かつ現場で経験してきた私としてはいささか食傷ぎみではあるが、この本で述べられている新聞業界の惨状には相変わらず絶望させられる。私の読後感としては、筆者らは、あくまで現状の枠の中でどう生きるか、という視点でのみ書かれていて、物足りなさを感じた。一言で言えば、甘っちょろい。新聞業界の腐敗ぶりは相変わらずだが、改善の方向性まで相変わらず、なのである。私が何度も指摘しているように、この程度の生易しいことを言っているうちは「三蔵法師の手の上で踊らされる悟空」であり、体制の思う壺であり、コップの中の嵐でしかない。本質的な変革にはつながらない。もう『対症療法』はやめる時期ではないか。根本的な体質改善のための打ち手を実行すべきである。経営にインパクトを与えない限り、株式会社は変わる訳がない。そのためには、内部と外部の双方から本気で闘う強い意志が必要だ。私は内部における言論の自由を保証する訴訟を実行するし、外部からは、新規参入で競争原理が働くよう、努力を惜しまない。(2001年3月)
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「ネット上の情報は正確性に欠ける。少なくとも信頼度の薄い記事が紛れ込む危険性はきわめて大きい。だからこそ、いずれは必ず『確度の高いニュース』『的確な分析と解説』への渇望感が高まる。となれば、『新聞に期待』ということにならざるをえないのだ。」

竹信三恵子■出過ぎた杭は打たれない
「書きたいことを書こうとするとき困るのは、書くべき場所がない、ということでした。新聞のページ割は、政治・経済・社会・家庭などのがっちりした縦割りになっています。ところが、女性や生活などの新しい問題の多くは、これらの縦の軸を横切った形で存在しているからです。『朝日ジャーナル』に書いたことで、新しい分野を開拓しようと思ったら、それにあった新しい収容先も発掘しなければならないと気付くようになりました。」

浅野健一■中途退社しないために
「マスコミ企業の『記者になる』ということは、旧オウム真理教に入信したり、京都に本社のあるニチエイに入るのとそう変わらない点もある。組織暴力団に入るようなものかもしれない。『上』からの命令が絶対なのだ。一般市民の感覚からほど遠い、報道機関に特有な論理と倫理が支配しているからだ。」

「『日本の会社の中では憲法は及ばない』と評論家の佐高信氏は断言するが、そのとおりで、この国の賃金労働者には自由がない。メディアも例外ではないのだ。やりたいことをやれない。このままでは、自分がだめになりそうだ。人生で一番大事なときを、無駄にしたくない。こんなつらいことを続けられない。こういう深刻な悩みを持つ人は、ジャーナリスト専門学校に10年ぐらい通うつもりで仕事をしてはどうか。賃金をもらいながら、記事の書き方、写真の撮り方を覚えることができる。」

「私は、1983年末からの10年あまり、現役企業内記者でありながら、外部のメディアで、メディアのあり方を中心に言論活動をしてきたが、『共同の記者として書いているのか』と糺されたことが何度もある。家族で出かけた会社の保養所の食堂で、社会部系の幹部に取り囲まれて『マスコミで飯を食いながら、マスコミ批判をするのはけしからん。辞めてからやれ』と大声で怒鳴られたこともある。いまのメディアにもっとも欠けているのが、社内言論の自由だ。大新聞は記者が社外で発言したり、書いたりすることを嫌がる。許可制、届け出制で記者の言論活動を規制している。しかし、労働組合での活動なら会社もなかなか手を出せないはずだ。労組を大切にし、うまく使ってほしい。」

原寿雄■なぜジャーナリストを選択したのか
「記者クラブが警察や役所、大政党、大企業組織だけで、市民の記者クラブがないことも承知しておくべきだろう。」