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お名前: 塔婆守
じいくん改めちがや丸さま(なにやら美男のお小姓を彷彿とさせますね)、
フォローありがとうございます。
> > 1)「禹豆麻佐」とはいかなる意味を表す呼称か。
> ある時点で、「ヤマト政権」から「ウツマサ」という称号を得た。
まずこの点に関して、前回の続きを記します。
『日本書紀』雄略天皇十五年の条に次のような記事があります。
> 詔(みことのり)して秦(はだ)の民を聚(と)りて、秦酒公(はだのさけの
> きみ)に賜ふ。公、仍(よ)りて百八十種の勝(すぐり=村主)を領率(ひき)
> ゐて、庸調(ちからつき)の絹◎(きぬかとり/◎=[糸+兼])を奉献(た
> てまつり)て、朝庭(みかど)に充積(つ)む。因(よ)りて姓(かばね)を賜
> ひて「禹豆麻佐」と曰ふ。
> 一に云はく、禹豆母利麻佐といへるは、みな盈(み)て積める貌(かた
> ち)なり。
※訓読は岩波文庫『日本書紀』(三)による
機織りを特技とする秦の民を天皇から賜った秦酒公が、そのお礼として山
のように絹織物を献上したことに愛でて、天皇が与えたのが「禹豆麻佐」
という姓であったというわけです。
ところで上記「一に云はく」のくだりは、この姓の意味を解説した注記と
して注目されます。すなわち、ウツマサは別にウツモリマサとも言い、物
をうづ高く積み上げる意味だというのです。
これは、秦酒公が天皇への献上物を「朝庭」に積み上げたという上記の内
容に符合するような注記ですが、はたしてこれが本来の意味なのかどうか
については疑わしいところがあり、この説をウツマサのウツをウツタカシ
(後にウヅタカシと濁音化)のウツに付会させて作った後人の語源説と見
る立場もあって、この注記を全面的に信じるのは危険でしょう。
なおまた、『日本国語大辞典』「うずまさ」の項には、この語に関する語
源説が示されてあります。その中で取り上げる価値のありそうなものを摘
記いたします。
A)ウヅは珍、厳、貴の意の古語。マサは、原始的なカバネで、「勝」
字の訓釈を当用したもの[雅言考・日本書紀朝鮮関係記事考証(三
品彰英)]
B)ウは大を意味する美称。マサは帰化人の用いたカバネでマサ中の上
位という意[日本古語大辞典(松岡静雄)]
B)の解釈によれば、ウツマサのツは「まつげ」「あまつかぜ」などに残
存する古い助詞「つ」に当たることになります。
以上、「禹豆麻佐」に関する話題提供をさせて頂きました。
[2000年6月24日 6時51分39秒]
お名前: ちがや丸
こんにちは。とても面白いですね。
お話の筋をどう理解しているか、ちょっとなぞらせていただきますね。
私なりにゆがんでしまっている点は、お時間のあるときに
どなたかご指摘をいただければ。
-1) かの人(々)が、「ハタ」と呼ばれるようになったのは、機織りを
つかねていたためですね。機がなぜ「ハタ」かは、面白そうですが、
ここでは全くの横道でしょう。
> 1)「禹豆麻佐」とはいかなる意味を表す呼称か。
ある時点で、「ヤマト政権」から「ウツマサ」という称号を得た。
>2)その呼称に何故「太秦」という表記を宛てたか。
これですが、上の称号を得た時点あるいはその後に、
「秦」「太秦」という文字をつけられたとは、必ずしもいえない
ように思います。高度な技術、文化をもった渡来人であれば、
渡来したときに、すでに自らをあらわす呼称、文字をもっていた
と考えたいように思います。
3)彼らは渡来間もない時点でどう呼ばれていたか。あるいは、
自らをどう呼んでいたか。
答えられない問題かもしれませんが、この点は、切り離して
あげておく方がいいように感じました。
さて、「太(うつ?)」は美称、というヒントにもとづいて、ダジャレの
じいくん(現 ちがや丸)としては、マサは、エミシ(蝦夷)、
ミシワセ(粛慎)の「ミシ」と関係があって、よそもの、というような
意味ではなかったのかなあ、などと妄想をふくらませたのでした。
[2000年6月23日 19時37分31秒]
お名前: 海砂
後れ馳せながら薊子さまの、
>城を意味する古語は「キ」であり、後代のシロという読みには
>もともと《城》の意味はない。
そのことについて実例を見ました。『芭蕉連句集』刈かぶやの巻
の脇句に、
暮かかる日に城かゆる雁 嵐竹
とありまして、この城は城塞のシロではなく雁の採餌する田地の
ことですね。松茸のシロなどと言いますが「代」の字を用いるあ
のシロと同じ意味合いのようです。
[2000年6月22日 8時9分15秒]
お名前: 塔婆守
薊子さまのお答え、
> 宇治橋の上 → う
> 伊豆守は討たれぬ(首を取る) → づ
> 頼政は刀を取られぬ(片名を取る) → まさ(政)
>これで「うづまさ」になりますね。
いつもながらのお見事なる太刀さばき、恐れ入りました。
> 太秦っていう地名、音/表記共に、どういういわれがあるのか、
> いつも気になります。
この件については海砂さまよりもご慫慂があり、小生もこれまで深く考え
たことがありませんでしたので、これを機に多少の文献を探索してみるこ
とにいたしました。ただし、その結果はまだすっきと腑に落ちるようなも
のは得ておりません。とりあえず、かいつまんでその途中報告をいたしま
す。
「太秦」は、「山背」とは逆に、姓が先にあってその姓を持つ一族がその
地に住んだところから、そのような地名が生まれたという順序のようです。
その発端は、朝鮮半島から渡来したとされる秦氏の長であった秦酒公<ハタ
ノサケノキミ>)が、雄略天皇の時に絹を献上したことによって「禹豆麻佐
(ウツマサ)」なる姓を賜り(<『日本書紀』雄略15年)、のちにこれに
「太秦」という漢字を宛てたものと考えられます。ちなみに「禹豆麻佐」の
「豆」は日本書紀では清音を表す仮名であることから、当初は「ウツマサ」
であったようです。
ここで考えるべき問題は、次の二点にしぼられます。
1)「禹豆麻佐」とはいかなる意味を表す呼称か。
2)その呼称に何故「太秦」という表記を宛てたか。
2)は、私見では「太秦」を「ウヅマサ」と読むのは熟字訓の一種であり、
「太」は美称、「秦」は本来の姓を表すもので、この熟字をもって「ウツ
マサ」なる呼称を表したものと考えます。
まだ記すべきことどもはありますが、本日は出講日のためにとりあえずこ
こまでとさせてください。
諸賢のご意見をお待ちいたします。
[2000年6月21日 7時11分28秒]
お名前: 海砂
薊子さま、いつもながらお見事ですねえ。勝手に正解ということに
して、うづまさの所縁を拝聴したくてでてきました。
伊豆守は自害でした。家臣が伊豆守の首を平等院の床下に隠すとい
うことで、首なしの伊豆は、豆(づ)になるわけですね。
もともと伊豆守の料馬を宗盛が欲しがって、惜しがるものを無理に
召し上げたことに端を発しています。悲運の武将でした。
関係ありませんが自宅の郵便配達氏は、その名を加藤時頼と申され
まして、世が世ならひとかどの武将であったろうと愛惜しておりま
す。
本題の太秦ですが、嵐電で嵐山に行く途中に太秦駅があり、奇異な
読み方が印象に焼きついています。のちに渡来人秦氏と関係があり
そうだと思い、また聖徳太子の時代に秦氏が建立した広隆寺があり
ますので、聖徳太子の太、秦氏の秦に因んだ表記を古名うづまさに
当てたものかしらんと、想像していました。
古名うづまさとして、どのような意味を持つのか見当もつきません
ので解説を待ちましょう。
海砂
[2000年6月20日 10時41分12秒]
お名前: 薊子
宇治橋の上 → う
伊豆守は討たれぬ(首を取る) → づ
頼政は刀を取られぬ(片名を取る) → まさ(政)
これで「うづまさ」になりますね。
太秦っていう地名、音/表記共に、どういういわれがあるのか、
いつも気になります。
[2000年6月20日 3時35分39秒]
お名前: 塔婆守
こんどは「平家物語」を題材にした謎です。
(問) 宇治橋の上にて伊豆守は討たれぬ。頼政は刀を取られぬ。
(解) 太秦
源三位頼政を総大将とする軍勢が、宇治橋をはさんで平家に反旗を
翻した「橋合戦」の一場面を踏まえたもの。「伊豆守」は頼政の嫡
子仲綱の呼称にあたります。
すんなりと解けると思いますが、どうでしょうか。
[2000年6月19日 15時42分57秒]
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