記事タイトル:「偏屈主の〜」を読んで |
ありがとうございます。 返事が遅くなってしまって申し訳ないです。 多分、これを書いたのは私が障害者になって間もないころでしたね、きっと。 今、私はある企業に勤める平社員ですが、そこでは 既に多くの障害者の方が働いています。 もう、障害をもってることなんて別に何でもないぐらいです。 それこそ、「すごく個性的」の一言で済ませられるぐらい普通に「健常者」の中に 溶け込んで暮らしています。 人の心は読む事はできませんが、そこでは少なくとも差別的な扱いは一度たりとも 受けた事はありません。 (障害をもっているために出来ない事もありますから、「無理な事はやらせない」 みたいな区別はありますが、これは合理的な区別だと思えます) やはりこれはとても嬉しい事でしたね。 最近はちょっとずつではありますけど「障害者」に対する認識も変わってきてるみたいで、 あんまり肩身の狭い思いをする事もなくなってきていますね。 (過剰に親切にされる事もないですし。そっちの方がこっちとしては気楽です) 文の方にも書いてありますが、私は「健常者」だった時期もあります。 (というか、健常者だった時期の方が今の所は長いです) ですから、生理的に受け付けない、という気持ちは分かるんですよね。 でも、もしも周囲に当たり前のように「障害者」がいる社会になったら、 『生理的に受け付けない』なんて誰も思わなくなるんじゃないか、なんて思ってます。 返事になっているかどうか怪しいですけど。 もしよかったらまたいらしてください。何もありませんが。[2005年3月13日 20時40分41秒]
面白く読ませていただきました。特に第5回の「私(Steven)の正体について」を読んでいて、「障害者」と呼ばれる人たちを、自分がどう思っているかを考えてみました。僕は今まで、「障害者」と呼ばれている人たちを、「ライフスタイルが自分と違う人間」と考えていました。そしてその考え方がそう間違っていないと(ほんの少しだけど)思えました。 何故かと言えば、僕が小学生の時に、「特別学級」というクラスがありまして、そこでは、通常の学級で授業を受けられない児童たちがいましたが、昼休みの時間に限り、他の児童も入ってその学級の児童たちと一緒に遊んだり出来るように開放されたりしていました。違和感とか全然無かったです。「ちょっと違うかな」程度の認識でした。 中学校にも似たような学級があったので、そんな人たちがいることは当たり前でした。だからそんな考え方が出来たんだと思います。 ちなみに、同じ小学校・中学校だった友人に、「『障害者』と呼ばれている人たちについてどう思う?」と質問したところ、「すごく個性的な人たち」との返答をしてきました。その答えを聞いたとき、すごくうれしく感じました。「そういう考え方があったか!」と。もし、世の中の人たちが似たように考えてくれたら、というか「障害者」ではなく、・・・いい表現が見つかりませんが。(苦笑 とにかく、俺の考えていることが、少しでも世のかなの人たちに伝わればいいな、で、少しだけでも考えを改めてくれたらいいなァなんて思ったりします それでは、また。[2005年3月2日 22時20分34秒]