04/08/24 Tue 9:58 pm |
『華氏911』 |
世間より2週間ぐらい遅れての夏休みをとっている。一週間チョイの休みであるが、映画を観て写真を撮るぐらいのことしかやっていない。 『キネマ旬報』を買った。 先日亡くなった映画のカメラマン、篠田昇氏の特集が組まれていたからだ。おそらくなんらかの特集が組まれるとは思っていたが、写真と追悼文の掲載のみ。 あたりまえか。 できれば篠田さんの撮影意図やフィルムやレンズについての考え方を解説してもらえたらな、と思っていたのだが、世間的にはあまり興味のない事なんだろうな。 短くはあったが岩井俊二との対談での話は非常に興味深かく読めたのでその詳しい部分を知りたいと思ったのだ。 オリンピックが盛り上がってるようだが、スポーツ全般に観るのもやるのも興味もなければ才能もないので関心が無い。 そもそもスポーツで国威を揚げようなんてのは後進国かアメリカみたいに歴史も伝統も文化も無い国のすることで、イギリスだってフランスだって金メダルの数なんてまるで興味をもってない。身体能力が知性と反比例するのはJリーグの選手をみれば分かることで、金メダルを多く獲るって事はそれだけ国の知的レベルが低い事の証明だろう。貴族は奴隷共が闘うのを見物してるものである。 というわけで『華氏911』を観てきた。 マイケル・ムーアの前作『ボーリング・フォー・コロンバイン』を観てから次作に期待していたのだ。 この映画の主役はブッシュ大統領。無能な金持ちボンボンを絵に描いたような人生を歩んできた彼。 現在のアメリカの悲劇というものがあるとしたら、ブッシュ自身が自分は無能ではないと思い込んでいること、側近参謀は無能なバカ大統領であっても自分達がサポートすればどうにでもなると思い込んでしまったこと、そしてなにより国民がまさかここまでバカな人間が大統領に立候補するとは思わなかったこと、の悲劇が重なった結果であったのだろう。 なにより9月11日の同時多発テロ、世界貿易センタービルに旅客機をつっこませるという前代未聞の愚劣な事件の下手人であるビン・ラディンを捕まえず、アメリカの脅威でもなんでもなかったイラクに侵略したアメリカ。 なぜオサマでなくサダムを潰す戦争をしかけたのか。 マイケル・ムーアはブッシュのビジネスパートナーがサウジの石油産業であり、その関係でラディン家とも親しかったということを映画の中で告発する。 はなからブッシュにビン・ラディンを捕まえる気は無かった事は、テロの後航空機が全て足止をしているなか、ビン・ラディン家−大量殺人の筆頭容疑者の親族−のジェット機だけが離陸を許可され、あっさり国外に逃げられていることから分かる。 この茶番劇の一抹の正義のかけらさえない戦争にアメリカ国民はだまされて行かされる。しかも戦争を遂行しようとする議員の子息の出兵はたった一人だけ。多くは職の無い若者達が得た職業として兵隊になっていくのである。 それにしてもアメリカという国は過去から学ぶということをしないのか?ベトナム戦争の時も共産化の脅威からノコノコアジアまで来て、文字どおりドロ沼の戦争をしていた。 『イラクの為に来てやっるのに目の敵にされる』『罪の無い民間人を殺す事なんてできない云々』全部ベトナム戦争で答える兵士と同じような事を言っている。 そして日本のリーダーはそんなアメリカに尻尾をふって追従して自衛隊を派兵してるのだ。自分達は他国のリーダーを笑っている場合ではない。 リーダーを選ぶ土壌を作ったのは、他ならぬ自分達国民である。 エラそうな事を言ってるわりには選挙にいかなかった自分を今さらながら後悔している。もう取り返しのつかない事態になっているのかもしれない。 つくづく正義の戦争などというものは無い。大義のある聖戦などというのは99%以上のバカな国民を条件付ける為のエサだ。1%以下の茶番を演出する奴らこそが自分達のやっている戦争のくだらなさを正確に理解し、それを冷ややかに利用して儲けようとしているだけなんだから。 愚劣な奴はとことん愚劣になり、クソマジメなバカは気真面目に死んで行くのが戦争だ。 取り合えず首相の子息と、某団体の子息は真っ先に前線に行ってみるといい。 というか、おまえら行って死んでこい。 |
04/08/04 Wed 11:40 pm |
中国 |
サッカーに興味がないので、まるで観ていないのだが。 通っていた高校はどちらかというと左翼に傾いた学校で、如何に第二次大戦中の日本はアジアの人たちに酷い事をしていたかということを聞かされて過ごした。 当然、3年間君が代斉唱もも国旗掲揚もなかった。 オイラとしてはある部分それに感化されて今に至っている部分と、卒業してから今に至る過程で高校での 教えを反面教師として消化した部分とがある。 中国で開催中のサッカー、アジア杯で、君が代演奏中に中国人観客がブーイングを続けたらしい。 戦中日本がやったことを思えば、君が代や日の丸を冷静に見れない人もいるだろうし、だからブーイングは仕方ないと思っている。中国が国内政策として反日教育をしていることもあるのだろうが。 これから先何十年、オイラは日本人を拉致した国として北朝鮮を憎悪するように、憎しみの連鎖と言うのは延々と続いていく筈だ。した方は忘れ、された方は絶対に忘れない。 戦争を知らないオイラとしては、戦中、日本人がアジアの人達にやったことを忘れはしないが、同様に中国・重慶の中国人観客の日本のサッカー選手に対する無礼も絶対に忘れない。 もう卑屈になってアジア諸国の人達と付き合うのはやめよう。お互いに悪口を言い合って付き合っていった方がいい。 右翼は自分の流儀ではないので、「支那人というヤツは」といった調子で、相手の民族的“欠陥”を攻め立てるのは違和感があるが、あまりに無礼な振る舞いをされたら同じように相手をムカ付かせる事を言うべきだ。 そこから始まる関係というものに望みを託したい。 |
04/08/01 Sun 11:25 pm |
『リターナー』『スパイ・ゾルゲ』 |
今年の初めに借金で購入したハッセルブラッドだが、無事完済。 夏のボーナスで完済というつもりではなかったのだが、半端な額だったので無理をしてでも返してしまおうと思ったのだ。と言うわけで今月は極端に貧乏である。 といっても、友達に誘われてダーツをやりはじめたり、映画も一本ぐらいみたいな、とか、映画にいかなければDVDをレンタルして...などとまるで貧乏の自覚なく浪費癖はおさまらない。 いつか自滅するのだろうなとちょっぴり不安があったりするのだが... そんな浪費癖を自戒しようとしてもDVDはレンタルしてしまった。 『リターナー』。鈴木杏がらみの興味がなければ観るつもりはなかったのだが、いやオモシロかった。これ、だれか批判してたけど、とんでもない。非常に良い映画だった。映画館に観にいかなかった事とDVDを買ってない事を非常に後悔している。DVDは見つけたらソッコウで買うつもりである。 設定や物語は非常にありがち。タイムトラベルもので過去を変える事で未来の災厄を未然に防ぐなんてのは『ターミネーター』だし、黒のロングコートを羽織って弾丸を避けるなんてのは『マトリックス』。歳の離れた男女の話であれば『レオン』や『グロリア』。バイクアクションは『ミッション・インポッシブル2』。この辺りは副音声で監督やプロデューサーも引用を言っていた。 だれが観てもあからさまに元ネタが分かる。設定や物語にオリジナリティは皆無だ。 しかし、この『リターナー』に関して言えば程度の低い引用であるという感想はない。 『ターミネーター』にしても『マトリックス』にしても話自体は定番と言うべき筋を下敷にしていて目新しい部分はない。つまり話はすでに形になっていたものを引用していたと言える。 では引用による作品の程度の高低を分つものは何なのだろうか? その作品毎の役者の違い、演出の違い、見せ方の違い。それらの優劣によるものなのだろうか? これについては自分では明確な答えが今の所出せないのだが、ひとつに『話』をどのように収めるのか?どう収めたのかという部分で優劣が分かれるのではないかと考える。 この『リターナー』にしてもラストの展開にこそオリジナリティがあったのではないか。奇抜なエンディングかどうかというより、自分としては『ターミネーター』のラストの写真を見た時のような感動が『リターナー』にはあった。総毛立つという意味ではすばらしいエンディングであったと思う。 『テーマ』というのか『話』というのか『筋』というのか『語り口』というのかは分からないが、もはやそれらにオリジナルなものはあり得ない。全ては過去の作品の引用から成り立つのであれば、90%の引用があっても最後10%の話の収め方、『オチ』の部分にオリジナリティがあればその話はオリジナルなものと言ってもいいのだと思う。 宮部みゆきの『蒲生邸事件』を読んだ時もそんな感じがした。あの作品と同じぐらい感動した。 それから、なにより鈴木杏の演技が良い。あの映画中学2年生の時のものらしいが、さすがである。あの丸顔も素敵だ(笑)映画から浮かずに役柄の表情をしていたのがなによりもすばらしい。 日本でこんな映画できたと言う事が励みになるなあ。 おなじく『スパイ・ゾルゲ』もDVDで観た。 面白い。 ただCGがCGに見えてしまうのは、この手の歴史物をリアルに見せる映画としては興醒めだ。 『リターナー』がSFという枠組みの中でのリアリティをある程度実現していた。それは観る側も架空の世界での物語だと言う認識があるから、あり得ないデザインのものでもリアルな物として認識しできていた。 『スパイ・ゾルゲ』は日本の第二次大戦中の話である。限りなくリアルにシリアスに見せなければ観る側の緊張感は持続しない。 『スパイ・ゾルゲ』に限らず、TVドラマでも今はない昔の街並をロングショットで見せることがあるが、観る側にしてみればそんな風景はないのは分かっているのでその風景はCGだとかマット画であると認識する。 それが観る側に分かった途端、映像の持っている力は失われるのだと思う。 そのロングショットは作った制作者への配慮か、または高い金を使ったCGを目立たせたいのか。 どのぐらいの時間でどの程度見せれば観客はリアリティを保った眼でそれを認識しうるのか。 この命題は興味深いものかもしれない。 それはともかく、3時間に及ぶ作品、まるで退屈せずに観れた。 つくづく特高警察というのは人間の弱さを具現化したものだと思った。たぶん一人一人は気の弱い家庭的な優しい男なのかもしれない。が、一度組織の中に入り人間の弱さからくる残虐性を許容されるとかくも愚劣な部分が拡大される。所謂組織暴力というものだ。 イラクの捕虜に対するアメリカ兵の下らない暴行もこれに当たる。 つくづく戦争なんてものは下らないものなのである。 映画の最後に「ゾルゲは私の恋人なんかじゃない、もっと大きな存在だったのね」などという台詞はわざとらしいなと思った。 更にエンディングにジョン・レノンの『イマジン』が流れるが、今さら『イマジン』もないだろう。 というか、『イマジン』に代わるべき言葉を今現在私を含め誰も獲得していないのが問題なのだと思う。 |
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