暮れていく空



 
 三蔵は途方に暮れて天井を仰いだ。

その原因は、いまかいまかと期待に満ちた黄金の双眸で彼を見上げている。赤いチャイナ服に真っ白な

エプロンをつけた姿は子犬を思わせる幼い容姿と相俟って、なかなかに可愛いらしい。

 だが、そんな幼児愛好者垂涎の格好も今の三蔵には先ほどから苛む頭痛を酷くしこそすれ、とても

鼻の下を伸ばす気にはならなかった。
 
 
 事の起こりは数分前に溯る。

「さんぞ〜、今日は俺がごはん作ってあげる!」

 退屈な説法から帰ってきた三蔵を待っていたのは、養い子の妙に張り切った笑顔だった。

「…………ハァ?」

 ナニ言ってんだこの猿は?といった怪訝な三蔵の眼差しに悟空はえへんと胸を張る。

「だって、今日は三蔵の誕生日だろ?誕生日には御馳走作ってお祝いすんだって聞いたもん!だから

俺が作ってあげる!」

 にぱぁ〜と満面の笑顔を浮かべる悟空の言葉に、ピクリと三蔵の眉が吊り上がる。

 こんなこと、自分は教えた覚えはない。仏教行事でもない世俗の催し事を、わざわざ悟空に教える者が

この寺にいるとは思えない。

 とすれば……考えられることは一つだ。

答えは大体予想はついていた。だが、それでも確かめないと気が済まないのが三蔵の悪い癖なのかも

しれない。

「……それを、誰に聞いた?」

「八戒とごじょ」

 簡潔なまでの即答にやっぱりか、と三蔵は肩を落とす。

よんどころのない事情で知り合った件の二人は、最悪の出会いをしたにもかかわらず今では悟空の

いい遊び相手だ。呼ばなくても勝手に押しかけてくるし、掃いて捨てるほど余っている寺の僧たちとは

違い、出自の知れぬ悟空にも偏見なく接してくれる。

 三仏神の持ち込む雑務で悟空を一人残して出掛けることの多い三蔵にとって、八戒と悟浄の存在は

確かにありがたい……時もある。

 けれど、それを補ってなお目に余るのが、二人が吹き込むろくでもない入れ知恵だ。この前の説法から

帰宅した時には、ナースの格好をした悟空が執務室にピンクのハート布団を敷いて寝ていた。

 その前は体操服にブルマーという今時フィクションの中でしかお目にかかれない姿で、よりによって

寺の正門で三蔵に向かって『お帰りなさい、ア・ナ・タ』と衆人環視の中ぶちかましてくれやがった。

もちろん、どちらも教育的指導(尻叩き百回)の上、二度とやらないときつく約束させたが。

 それでも噂は瞬く間に寺内に広がり、僧侶たちの生暖かい視線が暫く三蔵の背中から剥がれない日が

続いた。

「ね〜っ、俺、さんぞーの好きなもの作るよ。だからなんでもいって!」

 現実から逃避して回想の海に浸る三蔵に焦れて、悟空は背伸びして三蔵の首に手を回す。ずしりと

かかる重みにハッと三蔵は我に返った。

 いかん。このままでは、また妙な噂を立てられかねない。

かといって、ゆで卵すらまともに作ったことがない悟空に料理などさせられるものか。どうせ厨房を

グチャグチャに汚すだけで、人が食えるものなどできる筈がない。厨房係に小言を食らうのも目に見えて

いる。

 どうすればいいのか。ちらり、と伺うと悟空の目は期待に輝いている。こういう時は要注意だ。適当に

あしらっても絶対納得しない。

 普段の三倍を越える速度で、三蔵は灰色の脳細胞をフル回転させる。……と、ある記憶が彼の脳裏に

浮かび上がった。

 にやり、と会心の笑みが口元に溢れる。

「よし、それじゃ……──」
 
 
 
 
「……なんか、ちがう」

 もくもくと立ち上る煙の前で、ポツリと悟空が呟く。それを耳聡く聞きつけ、三蔵はフンと鼻を鳴らした。

「何が違うんだ?芋を焼いて食う──これも立派な料理だろうが」

「う゛〜っ、でも……」

 違うもん、と唇を尖らせ呟いてみたものの、三蔵ほど口の回らない悟空ではどこが『違う』のか、上手く

言葉に出来ない。

 悟空の希望としては、いつも八戒が作ってくれるみたいな、綺麗にお皿に盛られた料理を作るつもり

だったのだ──作れるかどうかは別として。

 三蔵のリクエスト。それは毎日落ち葉の溢れる、今の季節にぴったりな『焼き芋』だった。これなら

野外で行うから寺の台所も汚さないし、素人でも失敗しない。まさに一石二鳥だ、三蔵的に。

「ほれっ焼けたぞ」

「えっ!うわわっ」

 ぽんっと焼けた芋を渡され、悟空はわたわたと受け取る。だがあまりの熱さに驚いて、ぽとんと地面に

取り落としてしまった。

「うぇ〜んっさんぞう〜……」

「馬鹿。そういう時は新聞紙で包んで持つんだ」

 べそをかく悟空から藁半紙を取り上げ、三蔵は落ちた芋を拾い器用に包む。焼けてパリパリになった

皮を爪で奇麗に剥がすと、香ばしい匂いとともに黄金色の身が姿を現した。

「ほら食え。今度は落とさんようにしっかり持てよ」

「うん」

 ほかほかと暖かな湯気を放つそれに、悟空はおそるおそる歯を立てる。何度か咀嚼を繰り返すうち、

みるみる悟空の瞳が大きく見開いた。

「おいしーっ!」

 舌足らずな感嘆の声に、ニッと三蔵は口の端を吊り上げる。

「──芋はこうやって食うのが一番美味いんだ」

「うんっ、すごくうまい!」

 さっきまでの不満顔もどこへやら、満面の笑みを浮かべて悟空は焼き芋にかぶりつく。うまく気を

逸らしたことに胸を撫で下ろして、三蔵も焼き上がった芋を手に取り口に運んだ。

 次々とぱくつく悟空を横目に見ながら、三蔵はぼんやりと暮れていく茜色の空を見上げる。

 師匠から『三蔵』を継承して、はや数年。日々舞い込んでくる雑務と、成り行き上面倒をみることに

なった悟空の養育に忙殺され、こんなふうにゆっくりと夕暮れを見つめることも少なくなっていた。

 無論、師匠に庇護されるだけだった幼少期と今とでは背負う責任の重さが違う。昔のように気楽に

振る舞うわけにはいかないし、またそうするには些か年を取り過ぎた。

 空も雲も、あのころ見ていたものとは変わってしまった。三蔵が、もう『紅流』ではないのとおなじように。

 それでも、やはり奇麗だと思う。たとえ、過ぎ去ったあの日と一緒ではなくても。

「……ま、たまにはこういう日もいいかもな」

 そう呟く三蔵の肩に、コツンと重たいものが当たる。

見れば、満腹になってうとうと船を漕ぎ出した悟空の頭が寄りかかっていた。

 その能天気な寝顔を眺めていると、なんだか無性に笑いが込み上げてきた。
 

 ──誰かが側にいる、というのも案外悪くない。

そう思いながら、やや重量を増した悟空を抱き上げ、明かりの灯り始めた院内へと踵を返した。