Beautiful Dreamer
今日は朝からツイてなかった。
喉に絡みつく不快感で、目が覚めて。ベッドから立ち上がろうとしたところ、ふらついて床に倒れて
しまった。 物音に気づいた八戒に抱き起こされ、体温計で熱を計ってみれば……成人男性としては、 かなり危険なレベルに達していた。 「これでは寺に行けませんねぇ」 風邪薬と引き換えに体温計を受け取った八戒は僅かに眉を顰める。今日は三蔵の寺へ── といっても三蔵に会うためではなく、その養い子の悟空を前々から訪ねる約束をしていたのだ。 彼のために八戒は昨日の晩から大量の御馳走を作り、悟浄は拙いながらも手作りの玩具を 用意して。 「今日は僕だけで行きますから、悟浄は安静にしていてくださいね」 「……え〜」 台所から氷枕と卵酒を持ってきた八戒の言葉に、悟浄はあからさまに不満げな表情で唇を 尖らす。そんな彼を、八戒は呆れたように見下ろして溜め息をついた。 「『え〜』って、そんな熱で出歩けるわけないじゃないですか。悟空にうつったらどうするんです? 三蔵に殺されますよ?」 「……それは勘弁」 放任を気取っているわりに実はかなり過保護な飼い主の顔を思い出し、悟浄はうへっと顔を 顰めた。 自称岩から生まれた悟空が病気になるのか甚だ疑問だが、もし万が一自分が移したとなったら 三蔵が激怒するのは目に見えている。病の身であの鬼畜生臭坊主の射撃の的になるのは、 正直勘弁してほしい。 「なるべく早く帰ってきますから、おとなしく寝てなきゃ駄目ですよ」 反論を許さない笑顔でしっかりと釘を刺されては、それ以上不満を口にできない。悟浄に出来る ことといえば、苦くて不味い薬を喉に流し込むくらいだ。 「それじゃ、いってきます」 右手に重箱、左手に悟浄作の木製玩具を抱えて出て行く八戒を、悟浄は恨めしげなまなざしで 見送る。パタンと閉まったドアを暫く眺め、やがて諦めたように吐息を一つ吐き出した。 本当なら、今日はめいいっぱい悟空と遊んでやるつもりだったのに。ひそかに指折り数えて 待っていた楽しみを潰され、悟浄はふて腐れたままベッドに潜りこむ。ぎゅっと目を閉じると、 シンと静まり返った自室の静寂がやけに耳に障った。 コツ、コツ、コツ……と柱に掛けられた時計が、無気質な音を刻む。妙に大きく聞こえるそれに 微睡みかけた意識を揺り起こされ、悟浄はそっと寝返りをうった。 そういえば、病気で寝込むなどかなり久しぶりな気がする。妖怪だった父の血のおかげか、 幼い頃からあまり病気らしい病気をした記憶がない。この前倒れたのは、たしか……──。 そこまで思い出して、はたと悟浄は気づく。 いま、自分は相当渋い顔になっているだろう。それもそのはず、甦ってきたのは彼の人生で 一番辛かったころの記憶なのだから。 あれは……たしか、七つか八つくらいだったろうか。 村で酷い流感が流行って、村の子供ほぼ全員が病に倒れた。弱い順にバタバタと死んでいく中、 悟浄も運悪く感染し、ベッドから起き上がれない日々が続いた。命にかかわるほど重くはなかった ものの、何日も熱が下がらず苦しさに喘ぐ悟浄を、しかし、養母はけっして看病しようとはしなくて。 それどころか、近づくことすら嫌がった。 結局、家計を支えるために隣町まで働きに出ていた異母兄が噂を聞いて戻ってくるまで、悟浄は 自分の寝汗と涙で冷たく湿った布団にくるまって待つしかなかった。独りぼっちの寂しさと、病から くる悪寒に震えながら。 思い返すだけでツンと涙腺を刺激する記憶を、火照った頭で悟浄は必死にかき消す。 イヤな思い出だ。なんだって今更こんなしょっぱい記憶を呼び覚ましたりなんかしたのだろう。 たぶん、体に変調をきたしてるから駄目なのだ。気まで妙に弱くなって、思考が暗い方に傾いて しまう。だから、こんな余計な記憶を反芻してしまうのだ。 寝よう。 よく寝て、体力を回復すれば大丈夫。こんな辛い思い出などすぐに忘れる。 そう強く自分に言い聞かせ、毛布を引き寄せる。 固く瞼を瞑って、悟浄は先ほど飲んだ薬が効きだすのを静かに待つ。大概の風邪薬には解熱や 鎮痛とは別に、多少の強弱はあるにせよ催眠を誘発する物質が含まれているものだ。 だが悟浄の願いとは裏腹に、薬が引き起こす泥のような眠りはなかなか訪れてはくれなかった。 ──苦しい。 ──暗くて、何も見えない。 ここは何処だ。なぜ、こんな暗闇のなかに自分は一人居るのだろう。 手を伸ばしても指先は空しく宙をきるだけで、広いのか狭いのかもわからない。 どんなに目を凝らして見回しても、ひとすじの光さえ差さない暗黒が広がるばかりだ。 じわじわと皮膚をを這い上がる恐怖に耐え切れず、彼は叫ぶ。ありったけの力を込め、誰かが 気づいてくれるのを願って。 けれど、喉を震わす絶叫は口から飛び出した途端、掻き消えてしまう。どんなに叫んでも、 聞こえるのはヒューヒューと風が吹くような、擦れた音だけ。 どうしようもない不安に憑かれ、彼は子供のように蹲って身を震わせる。心まで幼子に還って 涙を滲ませる彼の耳元に、だからその声が届いたのは奇跡と言えるのかもしれなかった。 ──悟浄 まだ幼さの残る、舌足らずな高い声。誰だかわからないけれど、それが彼の名前を心地よく呼ぶ。 もっともっと呼んでほしい。 そう願う彼の前で突然光が弾けたのは、その瞬間だった…… 「────っプハッ!」
べっとりと顔を覆う『何か』に咽喉を塞がれ、息苦しさに悟浄は飛び起きる。その拍子にべろりと 剥がれたそれが湿った布巾だと気づき、カッとなって怒鳴った。 「俺を殺す気かっコラァァ──!っ……て、あれ?」 目眩でクラリと歪んだ視界に、居るはずのない人物を認め悟浄は首を傾げる。 「悟空?なんで……」 いるんだ、と続けようとして、けれどそれを口にのせる前に、すーっと見えない糸で手繰り寄せ られたかの如く悟浄の体がシーツの波間に沈む。 「悟浄っ」 突然起き上がった彼をきょとんとした表情で眺めていた悟空は、力無く寝台に倒れた悟浄へ顔を 寄せ心配そうに覗き込んだ。 「悟浄、だいじょうぶ?」 「あんまり……大丈夫じゃない……」 熱に浮かされ力無く答える彼を心配した悟空は、搗き立ての餅のような小さな手をそっと悟浄の 額に当てる。 柔らかな手は悟浄の体温より幾分低めで、そうやって触れていると少しひんやりとして気持ち いい。知らずうっとりと目を細めた悟浄は、その手がすぐに離れ、替わりに冷たい布が当てられた ことにあからさまに落胆した。 「なんで、お前がいるんだ?」 名残惜しく思っていることを知られたくなくて、わざと苦しげな掠れ声で一番の疑問を訊ねる。 悟浄のおでこに水で湿らせた布を当てつつ、悟空はにぱぁっと笑った。 「八戒に悟浄が病気で寝てるって聞いたから、かんびょーしに来たんだ」 「かんびょーっつったって……」 寺から此処までは、歩きで悠に三時間はかかるだろうに。それでも、わざわざ一人で来てくれた のか。悟浄を心配して。 にこにこと屈託なく笑う悟空は何も言わないが、実に楽しそうだ。いつも悟浄が見惚れてしまう 大きな黄金の目が、異様にキラキラと輝いている。普段、人に世話を焼かれることはあっても、 自分がやる側に回ることはない為か、初めての経験に悟空が過剰な期待を込めているのがいや でもわかった。 「なー、悟浄、ほしいモノとかない?俺、なんでもするよっ」 「あ……いや……」 「リンゴとか食べたくない?俺が剥いたげる」 「……や、今はいいッス」 普段より回転の悪い頭で「あ、まずいかも」と悟浄が危惧したとおり、悟空はテレビで見た看護婦 よろしくちょこまかとベッドの回りをうろつく。とにかく悟浄の世話を焼きたいのだろう、子犬のように 纏わり付く様は、いつもであればこの上なく嬉しい展開だ。少なくとも神様に感謝したいくらいには。 あの過保護な飼い主と保父さんのおかげで、二人っきりになることなど殆どないのだから。 だが体が半端じゃなく不調な時に、姦しい子供の相手は辛すぎる。ただ意味もなく騒いでいるの なら怒鳴りつけて黙らすことも出来るが、本人はいたって善意のつもりなのだ。 惚れた欲目を差し引たとしても、邪険にするのは心苦しい。 「ねー、俺に出来ることってないの?」 どうしたものかと困惑する悟浄を置いて、悟空の「看病したい」熱はますます盛り上がる。 悟浄の上に上体を重ね、間近で小首を傾げて覗き込む仕草は、別の意味で悟浄の熱を上げて しまいそうだ。 「えーと……側に居てくれるだけでいい。いまは」 「……」 ムラムラと元気になる一部分を宥め賺し、悟浄は曖昧に微笑んで濁す。あきらかに不満そうに 口を尖らせながら、それでも相手が病人だと思い出したのか、悟空は渋々引き下がった。 「んと……じゃあ、手を握っててあげる」 悟空は椅子を引き寄せ、ベッドに寄り添うように座る。節槫立った悟浄の手を自分の両手で包み 込むように握り、柔らかな頬に添えた。 「びょーきのときにね、こうして手を握ってると良く眠れるんだって、えーと……」 人に教えてもらったことなのか、悟空はその『誰か』の名前を思い出そうと首を捻る。 けれどどうしても思い出せなかったらしく、「エヘヘ」と照れたように笑った。 その顔がまた可愛らしくて、悟浄の心に不埒な熱がこみあげる。風邪でフラフラだというのに、 一部分だけ元気を取り戻す自分の体が情けないやら恥ずかしいやらで、悟浄は頭から布団を 被って寝たふりをした。無論、手は悟空に預けたままで。 どのくらいそうしていたのだろうか。ようやく胸の動悸が納まり、そーっと顔を覗かせてみれば。 悟浄の手を包んだまま、悟空はうとうとと舟をこいでいた。 そういえば、と壁の時計に目をやる。悟空は寺ではいつもこの時間に昼寝をしていたはずだ。 ずっと歩いてきた疲れも出たのだろう、すやすやと安らかな寝息をたてる様子に、悟浄は自分の 頬が緩むのを感じた。 先ほどとは違う種類の熱が、湧き水のように静かに心を満たす。それが少し照れ臭く、けれども 不思議と心地よかった。 気がつけば、不快な悪夢も切ない過去の残滓も随分と遠い。悟空が来るまで、自分をあんなに 苛んでいたというのに。 己の底無しな現金さに呆れながら、だが悟浄はそんな自分をけっこう気に入っていた。 ──きっと。 もう今日は悪夢は見ないだろう。この、小さな温もりを握り締めている限りは。 ささやかな幸福を噛みしめて、悟浄は再び目を瞑る。 今度は心まで蕩けるような、甘い夢が訪れることを望みながら。 |