時空の螺旋
トキノラセン



 
それは、思いがけない解放だった
 
 
この世に生をうけて、五百余年。

 その大半を、彼は自らの意志とは無関係に封じられて過ごしてきた。

 生まれ落ちて直ぐに戒めの軛をかけられ、母の元から拉致され──気がつけば、『天界』とやらに軟禁された。

『天界』―― 大地の恩恵を忘れた、恥知らずな愚者たちの楽園。

ただ天に住まうというだけで『神』を僭称し、母が慈しんだ地上の命を悪戯に奪う汚らわしい輩の巣窟。

 母を哀しませる者たちに囚われている。それだけでも、彼にとっては死に勝る屈辱であるのに。

 その『神』たちは彼に罪人の烙印を押し、地上に封印したのだ。五百年の永きにわたって。

 これほどの恥辱が、ほかにあるだろうか。

 『──赦サナイ』

身体の支配権を軛が生み出した人格に奪われ、常に抑圧され続けた彼を支えたのは、怒り。

 己をこのような目に遇わせた者たちへの激しい憎しみだけが、ともすれば悠久の時に押し潰され消滅しそうな彼の

意識を繋ぎ止めた。

 大地を傷つけ、そして彼の存在を否定する『天界』への尽きることのない憎悪──けれど、戒めは余りにも強固で。

 それが、いま解き放たれた。

ほかならぬ、もう一人の『彼』の意志で。

 瞳を閉じ、胸いっぱいに空気を吸い込む。

肺の細胞一つ一つに染み込む、命の息吹。

 自分と源を同じくするその輝きを受け、彼の中で眠っていた力が少しずつ目を覚ます。

 封じられたすべての力を取り戻すには、いま少し時が必要だけれど。

 だが、もう彼を阻むものは何もない。

色のなかった彼の唇に、かそけき微笑みが浮かぶ。

 これでやっと、あやつらに思い知らせることができる。

 そして────。

歓喜に震える、彼の頬を。

 ひゅんっと音を立てて、かすかな衝撃が走った。

感じる不快な空気に彼は目を開く。

 ゆっくりと視線を向ければ、双眸に飛び込んできたのは燃えるような深紅の瞳。

 「こいよ、猿」

 紅髪の青年が頬を引きつらせながら、それでも不敵に笑えば。

 「もう充分でしょう、悟空」

 悲壮な光を宿した緑眼の青年が、苦しげに彼を見つめる。

どうやら、二人して彼を止める気でいるらしい。

 『愚カナ………───』


 彼の口元が、嘲りに歪む。

どちらも戦わなければ力の差を見抜けぬほど、馬鹿でもあるまいに。

 何故、けして敵わぬとわかっていて立ち向かおうとするのか。

立ち塞がる青年たちを、黄金の双眸が冷ややかに睥睨する。

 …己と浅からぬ縁で結ばれた魂を宿しているのは、気配で判る。それに免じて、邪魔さえしないのなら見逃して

やったのに。

 そんな気まぐれを許せるほど、過去の彼等は気に入った存在だったのに。

惜しい、と思う。

 しかしそんな思いも、一息の間に霧散する。

 誰であろうと──たとえ大地に属する者であっても──自分の行く手を阻むのであれば、容赦はしない。

 再び瞠いた金晴眼が、あざやかな殺意に爛々と輝く。

愛すべき愚か者たちを己が手で屠る喜びに、彼の指先が仄かに光った。
 
 



 飛び散る血潮が、頬にかかる。

滴る血はどこまでも甘く、彼の喉を潤す。

 耳を擽るのは、肉の裂ける音。

 そして、骨の砕ける感触。

それらすべてが、彼を更なる殺戮へと駆り立てる。

 紙を引き裂くように易々と仲間を倒していく、少年の内で。

 『彼』は泣いていた。

自分は、こんなことを望んだのではない。

 望んだのは、大切な人を救うこと。

 大事な──かけがえのない人達を、守ること。

なのに、どうして?

 どうして、その『大切な』人を殺そうとするの。

暗闇のなか、泣き腫らした顔を上げ『彼』はもう一人の自分に叫ぶ。

 もう止めて。

 その人たちを傷つけないで。

だが、もう一人の彼は攻撃の手を緩めない。

 いや。むしろ『彼』が泣いて止める度に、魂の片割れとも云うべき彼は、ますます殺意を強めていく。

 このままでは、本当に殺してしまう。

また…一人になってしまう。

 いや。

 いや、イヤ…──嫌っ!

思い出したくない記憶の残滓と、恐怖に。

 『彼』はもがくように手を伸ばした。

闇の中、かすかに輝く光に向かって。
 

 

 全身が鉛のように重い。

くたくたに疲れて、眠たくて仕方がない。

 ほんの少し、身体の力を抜けば安らかな微睡みを得られるはずなのに。

 なのに──あと少しのところで、それは叶わない。

何かが、三蔵の眠りを邪魔するのだ。

 無視できぬほど強い《声》で。

耳をすまさずとも、響いてくるそれ。

 見れば、子供が泣いていた。

深い闇の中で、金色に輝く双眸いっぱいに涙を溜め、子供は号泣している。

 ゆっくりと近づく。

手を伸ばせば、すぐにでも触れる位置。目の前に立ったにもかかわらず、しかし子供は三蔵に気づかない。

 小さな身体を更に縮こませ、座り込んだまま泣き続ける。はらはらと、大粒の涙を散らしながら。

 きゅっ、と。三蔵の心臓が軋む。

何故、こんな痛みを覚えるのか。

 不可思議な疑問を三蔵が心に描いた、その瞬間。

覚えのない声が、闇に響いた。

 『どうして抱き締めてやらない?』

 突如背後に沸き上がった気配に反射的に振り返る。

視界に飛び込んだのは、三つの人影。

 その一人の姿に、三蔵は息を呑む。

静かに見つめるその男は驚くほど自分に似ていた。

 瞳の色も、纏う空気も…違いがあるとすれば、髪の長さと服装ぐらいなものだ。

 気味の悪いほど酷似した、その男の左。

悟浄と瓜二つの、だが漆黒の色彩を纏う男が呆然と佇む三蔵を苛立たしげに詰った。

 『テメェが不甲斐ないから悟空が泣き止まねぇじゃねえかっ』

 敵意もあらわに、軍服男が噛み付けば。

 『まぁまぁ…──のどんくささも受け継いじゃったみたいですから、仕方ないのかもしれませんね』

 八戒の面差しを持つ白衣の男が、宥めるフリをしつつ辛辣な口調で三蔵の勘気を煽る。

 ──気に入らない。

急に現れたかと思えば、したり顔で人を詰るとはいったい何様のつもりなのか。

 あからさまに自分を小馬鹿にした態度にもむかつくが、悟浄たちとそっくりで、なおかつ悟空に妙な思い入れを

持っているのも気に入らない。

 憤りが強すぎて直ぐに反論出来ない三蔵を、彼によく似た男が鼻で嗤った。

三蔵の稚気じみた怒りを見透かしたように。

 
『貴様がそんなだから、こいつが泣くはめになるんだ。…もう、貴様には任せられん』

 冷ややかに言い捨て、男は三蔵を押しのける。

 「っオイっ…!」

蹲る悟空の側に膝を折り、三蔵に対するものとはうって変わった態度で男は穏やかに囁いた。

 『泣くな、悟空』

 優しい声音に反応して子供が顔を上げる。その瞳に、三蔵の姿は映っていない。

 『──こんぜん?』

 泣き腫らした幼い顔に、ほんの少し輝きがともる。

 『ホントに、金蝉なの?』

 『ああ…天蓬も捲簾もいる。俺が側にいるから、もう泣くんじゃない』

 蕩けるような微笑みをを浮かべ男が手を差し伸べる。

当たり前のように、ごく自然に。

 『さぁ…悟空』

 いまだ不安に囚われた子供の手が、それでもおずおずと男の手に重なる、その寸前。

 ようやく、三蔵が動いた。

己のモノを奪われる恐怖と怒りに、自尊心すらかなぐり捨てて。

 「そいつに触るなっ!それは俺のだ───」
 
 
 叫んだ瞬間、含みのある笑い声が耳元で弾けるのを三蔵は確かに聞いた。
 

 
 射すような灼熱の太陽が、覚醒したばかりの三蔵の瞳を灼く。

 眩しさに何度も瞬いて、ひとつ大きく息を吐いた。

その途端、肺が鋭い痛みに震え、生暖かな液体が喉を迫り上がる。

 「グッ!ゴホッ…」

 鉄錆の味がするそれを、焼けた砂の上いっぱいにぶちまける。

 すべて吐き終えると、ようやく三蔵の意識が正常に機能しだした。

 「…まだ、生きてるな」

 身体のあちこちから伝わる痛みが、三蔵に自身の存命を認識させる。

 泥のように重い身体をそれでも少しだけ起こしてみれば、頭の痛い光景がその双眸に突き刺さった。

 「…あのバカ猿っ」

 飛び込んできたのは、凄惨な屠殺場。

額の金鈷を外し本来の姿に立ち戻った悟空が、両手を血に染め楽しげに嗤っていた。

 その足元には、無残に引き裂かれた悟浄が紅孩児がぐったりと身体を投げ出している。

 おそらく、自分が気を失っている間にかち合ったのだろう。

怪我人抱えたところを急襲され、金鈷を外さざるえなかったということか。

 「チッ…」

 小さく舌打ちし、三蔵は立ち上がる。

体を蝕む毒は依然消えておらず、こうして立つのもかなり苦しい。

 けれど、このまま呑気に寝ているわけにはいかない。

アレを止められるのは、自分だけなのだから。…他の者になど、渡してたまるものか。

 いつもより数段重く感じる小銃を構え、安全装置を外す。

 ふらつき上手く定まらぬ照準をどうにか整え、三蔵は躊躇いもなく引き金を引いた。

 「涌いてんじゃねーよ…このバカ猿」
 
 ────俺ダケ見ロ
 
 「来い──殺してみろよ、俺を」