仰げば尊し

 
 
 何処からともなく漂ってくるきな臭い匂いに、木タクは思わず立ち止まった。

民家の軒先というならともかく、此処は殷の王城──しかも奥まった後宮である。

 妾妃や宮女たちが使用する脂粉や香の匂いならまだしも、こんな所でしかも昼日中に焚き火とは

些か妙だ。

 木タクは首をかしげ、注意深く匂いの元を探す。

ほどなくその元が回廊の先──中庭から漂ってきているのを感じ、火元を探しに踏み出した。

 「えーっと…」

 一国の城らしく無意味に広い庭園を、匂いを手掛かりにうろつく。

身の丈より高い木々が鬱蒼と茂る中、ようやくその元を見つけ木タクは近づいた。

 「何してるっすか」

 「あっ木タク兄ちゃんっ!」

 木タクの出現に焚き火を囲んでいた天祥と武吉がパッと振り返る。

 「あのね、今日は鬼節でしょ」

 「うん?」

 「だから二人で紙銭を焚いていたんです」

 そう応える二人の手には幾枚かの紙の紙幣が握られている。そして火の中にも、たった今投げ

入れられたとおぼしき紙が勢いよく燃えていた。

 少年達の言葉に、『あぁ、そういえば…』と木タクは納得する。

最近いろいろと忙しくてすっかり暦を忘れていたが、云われてみれば今日は鬼節だ。

 亡くなった肉親を偲び、あの世の生活で苦労しないように…と、こうして紙幣を燃やして祀るのが

昔からの習わしだった。

 「父様や天化兄様食いしん坊だから、きっとあの世でもお金がなくて困ってると思うんだ。

だから今日は武吉兄ちゃんとたくさん紙銭を送ってあげてるの」

 無邪気な天祥の言葉の裏に隠れた哀しみを感じ、木タクの顔がかすかに曇る。

 目の前の少年は先の戦で長兄を、そしてその前の仙界大戦で父を亡くしたばかりだ。戦では

仙界・人界ともに数多の犠牲者を出し、木タク自身も師と仰ぐ人を失った。

 だがやはり立て続けに親兄弟を亡くした天祥のことを思うと、憐憫の気持ちがむくむくと沸き上がる。

本当は城内警護の立場上、後宮の庭園での焚き火など即刻止めさせるべきなのだが

──今だけは目を瞑っておこう。

 「オレもやっていいかい?」

 「…っうん、ハイっ!」

 木タクの申し出に天祥は満面の笑みを浮かべ、掌の紙幣を渡す。

それを受け取ると、木タクは燃え盛るの中にそっと投じた。

 「兄ちゃんは誰に送るの?」

 ちりちりと灰に変わるさまを見つめながら、興味津々といった様子で天祥が首を傾げる。

 「そだなぁ…オレのお師匠さんかな」

 「ふぅん…もしかしたら木タク兄ちゃんのお師匠さま、あの世で俺の父様と仲良しになってる

かもしれないね」

 「──そうだな」

 その無邪気な言葉に木タクの口元が微苦笑を刻む。

厳密に云えば、師の普賢真人は鬼(クィ)=冥府の住人になったのではない。

 それは武成王や天化も同じだ。

彼らの魂は『封神台』に収監され、すべてが終わったあかつきには『神』となり人間界の守護を

担うことになるのだ。 

 だからこの行為も、本当のことをいえば無意味に近い。

 けれど儀式をすることで天祥が肉親の死をしっかりと受け止められるのなら、敢えて真実を教える

必要もないだろう。

 「木タク兄ちゃんのお師匠さまってどんな人だったの?」

 「どんな…?うーんと…」

 仲間が出来たような気持ちになったのか、天祥は次々にたあいない質問を投げかける。

…が、その『たあいない』はずの問いに木タクは内心頭を抱えた。

 「…頭が良くて、優しい人だったよ…」

 そう、それは間違いない。

師の普賢は闡教の門戸を叩いてから、たかだか五十年ほどで崑崙十二仙(の影の元締め)に

まで上り詰めたのだから。

 その抜きん出た頭脳と才能は疑う余地はない。

それに、物腰も穏やかで非常に理知的な人柄だった。

 崑崙を纏める大仙人とはいっても、キ印と紙一重の連中が多い十二仙の中では、かなりまともな

存在だろう。

 ───ただ一つ、異常なまでの太公望への執着ぶりを除けば。

普賢の太公望への粘着ぶりは仙界でもなかば公然の秘密であったが、実際弟子となって係わって

みると…木タクの想像をはるかに越えていた。

 当事者には守秘されているが…実は崑崙全土は云うにおよばす、太公望が出没しそうなポイント

には普賢特製の隠しカメラが網の目のように知り巡らされていたのだ。

 もちろん、取り付け管理その他は木タクを筆頭とした九宮山門下の道士たちの仕事である。

 修行と称しては太公望の尾行をさせられ、普賢曰く『萌えショット』なるものをカメラに収めることを

常に要求され続けた。

 それ以外にも、少しでも太公望にちょっかいを出した仙人(主に太乙あたりだが)の所に嫌がらせの

贈り物(注:届けた弟子の証言では、箱の隅から鮮血が滴っていたそうである)を届けさせられたり、

桃好きな太公望の為に西王母の庭園に蟠桃を貰いに行かされたり──思い出すと切なくなる記憶が、

ポロポロと甦って木タクの眦を刺激する。

 いかん、これ以上思い出すと自分が惨めだ。

 「と、とにかく良いお師匠さんだったよ…うん」

 天祥に聞かせるというよりは自分に暗示をかけるように強く言い聞かせ、木タクは強引に締める。

 思い出は美しいままで保存するのが一番だ。

そうしておけば万事まるく収まるのだし、木タクの身も心も安泰なのだ。

 「そうなんだ…じゃあ、今日は夢で会えるかもしんないねっ」

 にぱっと笑う天祥とは対照的に、木タクの頬が引きつる。

 そういえば、たしかこの儀式をするとその夜死者が礼を云いに枕元にたつ、と言い伝えられて

いた──ような気がする。

 すぅっと。木タクの顔から血の気が引く。

 …来るのか、あの師匠が?

それはちょっと──いや、かなりイヤだ。

 普通に来てくれるなら、まだいい。だが恋敵を残したままで封神された普賢のこと、絶対腹の底では

怒っている筈だ。なんたって普賢曰く『躾のなってない玉鼎の馬鹿息子』の楊ゼンが以前にも増して

べったりと太公望に張り付いているのだから。

 いま来られたら…そして、その状況を目にしたら…きっとろくでもない事をしでかすに決まってる。

 普賢の居る封神台は元始天尊が作り上げたものだ。

いくらなんでも、教主が全能力を使って編み出した鉄壁の結界を破れるとは思わないが、しかし──。

 考え出すと止まらない黒い思考を強制終了し、木タクは自棄を起こした酔っ払いの如く残りの紙銭を

炎の中に次々にほうり込む。

 心の中で『師匠、成仏してください』と何度も呟きながら。
 
 
 

 「……ク…タク…」

 「う……ん…」

 「木タク」

 聞き覚えのある声が、休息を貪る木タクの耳を擽る。

自分はこの声の主を知っている…これは、この声は──。

 「起きないと核爆発させちゃうよ?」

 「っ!!うわっスイマセンッ師匠ッッ!!」

 相手が『誰』か認識した瞬間木タクは跳び起きた。

見上げた其処にいたのは、彼が師と仰ぐ人で。

 ついでに云えば、鬼籍(というか封神榜)に入った筈である。

 「ししししっ師匠…なんでここに?」

 まだ半分眠ったままの混乱した頭で、木タクはそれだけをやっと口にする。

 慌てふためく弟子に対して、普賢真人は慈悲深い微笑みを浮かべ穏やかに告げた。

 「うん、ちょっと抜け出してきちゃった」

 「ぬ…抜け出し…」

 「君が元気でやってるかなと思ってね」

 「…」
 

 「君の活躍は封神台からもよく見えるよ。頑張って太公望を助けてるみたいだね。君みたいな

いい子を弟子に持って、僕はホントに良かったよ」

 そう云って、普賢は透き通った手で木タクの頭を撫でる。

 「まだこれから辛いことがあるかもしれないけど、最後まで挫けずに頑張るんだよ。僕はいつでも

応援してるからね」

 「…ししょお…」

 おもいがけない普賢の言葉に、木タクは声を失う。

そして昼間の自分の心の狭さが、今になって無性に腹立たしく感じた。

 普賢は、こんなに良い先生だったのに。

ほんの些細な欠点だけを論い、記憶の底に葬ってしまおうなどど…どうしてそんな非道な考えを

してしまったのだろう。

 「すいません、師匠…」

 どう謝ったらいいのか、分からなくて。

ポロポロと涙を零しながら、木タクは何度も『すいません』と呟く。

 そんな木タクの頭を、もう二度と触れることの出来ない手が繰り返し撫で続ける。

 その手の暖かさに更に眦を潤ませ、木タクは静かな闇夜にいつまでも謝罪の言葉を紡ぎ続けた。
 
 
 

 燦々と差し込む朝日が目に染みる。

それもそのはず、木タクの瞼は餅のようにパンパンに膨れていた。

 昨日はあのまま泣きながら寝入ってしまったのだ。

おかげで三秒と目を開けていられない。それに、こめかみの辺りが鋭い痛みを間断なく訴えている。

 流石に二つ同時の痛みに我慢出来ず、太乙に薬を貰おうと木タクはふらつく足取りで部屋を出た。

 ゆっくりと回廊を進むと、前方に同じく重い足取りで歩く人影が現れる。

 「…師叔?」

 よく開かぬ瞼をめいいっぱい瞠いて見れば、えらく疲れた顔をした太公望が振り返った。

 「お、おう。どうしたのだ、お主?」

 「いや目が腫れちゃって、太乙師伯に薬を分けて貰おうかと…師叔こそどうしたんで?」

 「いっいや、ちょっとな…」

 そう言葉を濁しながら、太公望は始終腰をさすっている。

 訳が分からず首を傾げた途端、木タクの鼻腔を微かな香りが刺激した。

 「これは…」

 この香りには覚えがある。

洞府の書庫の黴臭さに辟易した普賢が、何処からか持って来て焚いた香の匂いだ。

 始めは書庫だけだったが、品の良い香りを気に入って私室でも使用するようになって以来、普賢の

体臭にもなっていた匂いで。

 それが何故いまごろ、太公望から感じるのだろう。

混乱した木タクの、鼓膜を突き破るような絶叫が響き渡ったのは次の瞬間だった。

 「ギャアアアアアッッ――――――――!!」

 大気を引き裂くような甲高い悲鳴のあと、凄まじい爆音が轟き煙が上がる。

 「なっななななっ……」

 「あれは、楊ゼンの部屋の…」

 驚く二人が、あっけに空を見上げれば。

ひゅるるるる…と奇妙な風の振動よりも早く、黒い物体が朝もやの残る空から着弾した。

 「っ!」

 「楊ゼン…?」

 硬い地面に半分のめり込んだまま、ぷすぷすとくすんだ煙を吐く物体は間違いなく楊ゼンだ。

 焦げて汚れた服は、彼が愛用しているパジャマの悪趣味な柄の原型を留めている。

こんなのを着るのは楊ゼンしかいない。

 しかし…それでも木タクと太公望が揃って疑問符をつけてしまったのは、その顔が余りにもいつもと

違っていたからだ。

 楊ゼンの頭には彼自慢の髪が一本も残っていなかった。

脱毛剤でも使ったのかと思うほどに、見事なつるっ剥げ。

 そして双眸を開いたまま遥か彼方にイっちゃった顔には、今時チンドン屋でも描かないような前衛的な

落書きが満載だった…誰だか判別するのに数秒の時間を必要とするほど。

 ガタガタと、木タクの肩が小刻みに震える。

これは…もしかしてでなくても、師匠の仕業なのか。

 昨夜のアレの後か前かに、これだけのことを仕込んでいたのか。あの優しげな労りの言葉の裏で。

 やっぱりあの人の腹黒さは、封神されたぐらいでは一ミリも直っていないのか…。

 死して尚レベルアップした師匠の所業にくらくらと目眩を覚え彷徨わせた、木タクの視線の先に。

 太公望の首筋に見え隠れする紅い痣と、彼を包み込むように纏わり付く普賢の幻影をしっかりと

目に入れてしまい、木タクは心の底から願った。
 


 師匠、お願いですから成仏して下さい。