月下氷人

 

 

 オンナノコじゃ、ないから。

どんなに頑張っても、俺は男だから…。あんなにふわふわしてないし、良い匂いもしない。

身体はちっこいけど、ごつごつしてて骨ばってるし、ちっとも綺麗じゃない。

 そんな俺がこんなこと望むのは、すっごく『ブンフソウオウ』だって判ってる。

 判ってるけど…でも。

約束が欲しいって思ってしまうのは──やっぱり、ダメなんだろうか。

 言葉だけじゃなくて。キモチを疑ったコトなんて一度だってないけど、けどカタチあるモノ欲しいと

思うのは…いけないコトなんだろうか…。

 

 

 しとしとと降り続く雨の中。

漸くたどり着いた町の、寂れた安宿の一室。

もう何度目になるかわからない質問を悟空は繰り返した。

 「…ねぇ、八戒まだ帰ってこないの?」

 雨に煙る外を窓越しに睨みつつ、悟空が口を尖らす。だがそれに対する答えは返ってこない。

かわりに、ぱらりと新聞を捲る音が響くだけ。

 「ねえってばっ、…三蔵っ!」

 苛立って──今度は振り返り、新聞を読む三蔵に再び問いかける。しかしちらりと一瞥しただけで、

三蔵はまた新聞へと視線を落とす。

 「三蔵っ!」

 「…うるせぇっ」

 とうとう癇癪を起こした悟空を遮るように、怒気をはらんだ叱責が飛んだ。

 「幼稚園の遠足じゃねぇんだ。一人居ないぐらいでいちいち騒ぐな、ばか猿っ!」

 「うっ……」

 剣呑な紫の眼差しに射竦められ、びくんと悟空の身体が震える。じわりと眦を潤ませた悟空の肩に、

暖かな手が触れた。

 「そう怒鳴んなよ三蔵サマ」

 今まで成り行きを見守っていた悟浄が口元に微苦笑を貼りつけ、こわばった二人の間に割って入る。

きつい三蔵の誰何から庇うように身を屈め、悟浄は悟空の目元に光る今にも零れ出しそうな雫をそっと

拭った。

 「八戒は用事があってちょっと出てるだけなんだからよ、心配すんな」

 「…………」

 労りにみちた大きな掌が、項垂れる悟空の髪を優しく梳く。

普段なら真っ先に自分をからかって弄ぶ悟浄の思いがけない優しさに、つきんと鼻の奥に心地よい

痛みを感じながら力無く悟空は頷いた。

 泣き出しこそしなかったものの、しょんぼりと肩を落とす姿はひどく頼りなげな風情で、悟浄の裡に

潜む恋情と庇護欲を強烈にかき立て抱き締めたい衝動を煽る。しかし依然として背中に冷たく

突き刺さる三蔵の視線を感じて、辛うじて残り少ない理性が制止をかけた。

 「こんな雨じゃ、なんも出来ゃしないんだしさ…ジープと昼寝でもしてこいや。夕飯になったら起こして

やっから」

 行き場を(三蔵の殺人光線に)奪われた右手をごまかすように、くしゃりと悟空の髪をかき乱し軽く

目配せして隣室を指す。

 「…うん。そうする」

 常になく優しい悟浄の気遣いが擽ったくて。

ぎこちなく微笑んで、悟空はジープを抱いて部屋を出た。

 何時迄も戻らない八戒の不在と、今日に限って微妙におかしい三蔵たち態度を訝しく思いながら──。

 

 その後夕飯の時間になっても、八戒の姿が宿に戻ることはなかった。

 

 

 

 頬を撫でる風に起こされ、悟空は軽い微睡みから覚醒した。

どうやら夕食の後、少しうとうとしていたらしい。薄暗かった室内は更に暗く沈み、気がつけば部屋中に

闇が凝っていた。

 その闇の合間を淡い月光が弱々しく照らしている。

雨の方も漸く上がったのか、厚い雲間の切れ目に満月が所在無げに浮いていた。

 「…八戒……」

 ぽつりと呟く。

途端に一人きりの寒さが身に染みて、悟空はぶるりと身体を震わせた。

 

 『ちょっと出掛けてきますから。待っていてくださいね、悟空』

 

 「ちょっとって、いったのに…」

 実際は「ちょっと」どころか、そろそろ日付が変わろうとしている。

なのに、いまだに八戒は戻らない。

 そのことが悟空を酷く不安にさせた。

もしこのまま八戒が帰ってこなかったら…きっと三蔵は八戒がいなくても旅を続けるだろう。

でも自分は…。

 

 自分は、八戒のいない『明日』なんて考えられない。たとえいくら他の二人が優しくしてくれても──

美味しいモノをたらふく食べられても、そんなの八戒には全然敵わない。

 八戒が側にいてくれないなら、何の意味もなさないのだ。

 

 ………ぽとり

 「あ…?」

 透き通った冷たい雫が抱き抱えた膝の上に落ちる。

それが自分の目から出ているのだと気づいた時には、もう止まらなかった。

 「…ふっ…ぇん……」

 噛み締めた唇の隙間から堪え切れない嗚咽が漏れる。

温もりが恋しくて…寂しくて、溢れる想いのまま悟空は泣き続けた。

 どのくらい泣いていたのか…。濡れぼそった頬が、ひりひりと痛みを訴えはじめた頃。

 コツン…………コツン…………

小さな──何か叩いているような音が聞こえる。

 不審に思いのろのろと顔を上げた悟空は、窓の外に佇む人影をみつけ目を瞠った。

 「……はっかい?」

 一瞬の自失のあと。

悟空は慌てて窓の鍵を外す。もどかしげに硝子戸を開くと、夜の冷たい大気と一緒に八戒が部屋に滑り

込んだ。

 「なんで、窓から………」

 「あはは…宿の入口は、嫉妬深い保護者さんが張り込みしてたんで…」

 「???」

 意味が判らず途方に暮れる悟空に、ふわりと笑いかけて。八戒の腕が華奢な体を抱き込んだ。

 「ただいま、悟空」

 いままで外の外気に晒された体はとても冷たかったけれど。それとは別に心に染み込む八戒の温もりを

感じて、悟空の不安は淡雪のように消えていった。

 「…っ、もうっ。何処いってたんだよっ!」

 ようやく帰ってきた温もりが嬉しくて。でもそれを素直に表せなくて、悟空は声を荒らげる。

 「すみません」

 「こんなに遅くまで…俺…おれ…っ」

 云いたいことは沢山あるのに、様々な感情がごちゃまぜになって何を云っていいのか判らない。

 そんな自分を疎ましく感じながら…それでも、悟空は一番告げたかった言葉を口にした。

 「…………………寂しかったんだから」

 呟きは、とても弱々しくて。恥ずかしさと情けなさに悟空の頬に朱がはしる。

 そんな悟空を眩しそうに見つめて、八戒は静かに言った。

 「すみません──でも、どうしても今日じゃないとダメだったんです」

 「…?今日…?」

 「ええ…」

 愛しさをたたえた浅葱色の瞳に、わずかに悪戯な光が宿る。

何かを云いたくてうずうずしているような…そんな雰囲気に、悟空は首を傾げた。

 「悟空、今日何の日か判りますか?」

 「今日…?2月の14日って…えと、バレンタイン…?」

 「そう。一年に一度、おおっぴらに『愛』を告白できる日です。だから───」

 そこで言葉を切り、八戒は胸元をごそごそと探る。

現れた大きな掌には、ビロードで覆われた小さな箱が握られていた。

 「貴方に、どうしてもコレを渡したかったんです」

 優美な八戒の指先が器用に箱を開く。

中には銀(しろがね)の指輪が二つ、行儀よく並んでいた。

 「これ…」

 「安物ですけど…エンゲージリングです」

 鎮座する指輪の一つ──小さな方を取り出し、悟空の目前にかざす。

 「嵌めて…貰えますか?悟空…」

 八戒の真摯な眼差しが、じっと悟空を見つめる。

その灼けつくような輝きに──八戒の決意の強さを見て。悟空の双眸が再び熱く潤んだ。

 「悟空……?」

 訝しげな八戒の呼びかけなも満足に応えることが出来なくて、悟空は口元を抑える。

そうでもしないと、みっともない嗚咽が飛び出してしまいそうで…悟空は俯いた。

 どうして…どうして、この人は──八戒は悟空の望むモノを、望んだ瞬間に迷う事なく与えてくれるの

だろう。目も眩むほどの幸福に酔いしれながら、悟空はぎゅっと力いっぱい抱き着いた。

 「すき…大好き、八戒…っ!」

 まるで、他の言葉を忘れたかのように。

それ以外の言葉を知らないかのように、ただ一言を繰り返し呟く。もちろんそれだけでは足りなくて、悟空は

大好きな──世界で一番綺麗だと思う──八戒の顔に、余すことなくキスの雨を降らせた。

 「僕も──愛してます」

 お互いの瞳の色彩(いろ)を填め込んだ指輪を、互いに刻み付けるように嵌めあって。

 二人は初めてするように、厳かに口づける。

その神聖な儀式を見届ける者は誰一人としていなかった。

 ──ただ、頭上で煌めく満月以外は……

 

 

 翌日、仲良く食堂に降りてきた二人の指に輝くリングを──しっかりと目敏く──見つけた

パパ(三蔵)&お兄ちゃん(悟浄)と新郎(八戒)の間に、壮絶な諍いが繰り広げられる事になる

のだが…それはまた別の話で。