HONEY

 



いら。

いらいら。

いらいらいら……。

 

 これ以上ないというほど険悪に顔付きで、自称『暴れん坊大将(含下半身)』

捲簾はデスクワークをこなしていた。本来この手の仕事は彼のもっとも嫌いな分野

なのだが、『やらないとぶっとばいしますよv』という副官の毒を含んだ微笑みに命

の危機を感じて、仕方なく山積みの書類に判を押し署名を入れ続け──ゆうに

四時間は経つ。

 いつもは気さくな上官の滅多に見られない低気圧モードに、手伝う部下たちも

遠巻きに怖々見守るだけしか出来ない。こんな状態の捲簾は彼等の経験にもない

事なので、下手に手を出そうならどうなるのか想像もつかないのだ。

必然的に腫れ物に触るような──息をするのさえ憚られるかの様な沈黙が、どん

よりと室内を停滞する。

 周囲のそんな態度に更に苛つきを増しながら、捲簾は自棄になって署名を書き

なぐった。

 苛つきの大本──金目も可愛らしい、小さな想い人の事をしっかりと妄想しな

がら……

 

 

 ことの起こりは、一週間前。

予てより捲簾の心を占めていた、小さな小さな彼のお気に入りに、見境なくも理性

を飛ばしてしまった事がはじまりだった。……ようは、周りに誰もいないのをいいこと

にキスしたのだ。

 

 

 「…うえっ!」

 絞り出すような声を上げ、腕の中に抱かれていた幼子は捲簾を突き飛ばした。

 「うえ〜っ、ぺっぺっぺっ…」

 苦虫でも噛んだように顔を顰め、幼子──金蝉童子の養い子で名を悟空というの

だか──はツバを吐き出す。そのあんまりな態度に、流石の捲簾も頬を引きつら

せた。

 「…ヲイ」

 相手は、何も知らない子供。そんな子供に手を出して接吻(しかも舌まで入れて)

してまった自分は、間違いなく(性)犯罪者。それは判っている。…が、この態度は

あんまりじゃないか?

 ちびっこ相手に『ヲトメの恥じらい』とか『初々しさ』とか別に期待していたわけでは

ない。ないが、ムードもへったくれもない悟空には、やはり──やや理不尽とは思っ

ても怒りを抑えられなかった。

 しかし、捲簾が口を開くよりも先に

 「ケン兄ちゃんのおくち、ニガい〜〜〜っ!」

 と、えぐえぐと泣きながら出た悟空の言葉に捲簾は眼が点になった。

 「………なんですと?」

 「ケン兄ちゃんの舌、なんでそんなにニガイのぉ?」

 「な、んでって…」

 大きな金瞳いっぱいの涙を溜めた悟空に問われ、うっと捲簾は答えに窮し、無意識

に口元へ手を当てる。

 (ニガい…って、やっぱ煙草のせいか?)

肺まで真っ黒な天蓬ほどではないが、捲簾も結構なヘビースモーカーである。

色恋に慣れた天女達ならともかく、大地から生まれたばかりの悟空には煙草の味が

染み付いた捲簾の舌は、確かに苦いだろう。

 「あ〜…これはだな…大人はみんなこうなんだぞ?」

 何処かの腹黒元帥の様な巧い言い訳が咄嗟に浮かばす、捲簾はかなり苦しい

説明を繰り出す。

 しかし直球で生きてるお子様に、そんな言い逃れがあっさり通じる筈もなくて。

 「ウソだっ!だって金蝉の『ちゅう』はお茶の味がするよっ」

 ぴきっ。

ごく当たり前のように切り返された言葉に捲簾の顔が固まる。体感にして数度ほど

下がった捲簾の空気にも気づかず、むぅと口を尖らせたまま悟空は続けた。

 「観音のおばちゃんのはりんご味だし、ナタクのはイチゴ味だし………」

 小さな指を折り折り並べられる名前に反比例して、捲簾の表情が蒼白になって

いく。

眉間に信じられない数の皺が刻まれているのが自分でも判った。

 (あのケダモノ共が……)

自分も充分その『ケダモノ』に入ってるのを棚に上げ、彼は思いつく限りの罵詈雑言

を件の人物たちに(心の中で)ぶつける。そうして沸き上がる怒りをなんとか抑えよう

と努力する捲簾の耳に、止めの一撃が突き刺さった。

 「あとね、昨日の天ちゃんはモモの味っ!この前はみかんで、その前はメロンだっ

たんだよっ」

 「はぁっ!?」

 目の中に入れても痛くない可愛いこざる相手だというのも忘れ、捲簾は思わず声を

荒げる。

 それもそのはず、自分以上の愛煙家である天蓬が既に手を出していた──こと

より、自分が嫌がられているのに彼がそうじゃないことの方が驚愕だった。

 …っつーか、納得いかないのだ、捲簾的に。

 (なんでだっあんだけ吸ってんのに……)

どうにも合点がいかず、悶々と思惟を巡らす。と、捲簾の脳裏に一昨日のゴミ溜め

…もとい、天蓬の私室の映像が甦った。いつも散乱した机だが、その上には見慣れ

ない小瓶──『消臭スプレー』と書かれたモノがいくつか転がっていた。

 それに…この頃あの白衣の四次元ポケットを、煙草の他に大量の飴玉が占拠して

いたような気がする。てっきり悟空を餌付けする為のものだとばかり思い込んでいた

が……どうやら違ったらしい。

 友人とはいえ、天蓬の抜け目のなさには呆れるばかりである。嫉妬深い保護者と

は別の意味で侮れない強かさを感じ、捲簾は唇を噛み締めた。

 険しい表情のまま遠くへ行ってしまって自分を見ない捲簾に、悟空はぷうっと頬を

膨らます。原因は悟空のせいなのだが、自分自身が無意識に振り撒く天然テンプ

テーションの為と知らない彼には捲簾の態度はまったく理解出来ないのだ。

 「ケン兄ちゃん……?」

 「………」

 「ケン兄ちゃんってば」

 「………」

 幾度呼んでも袖を引っ張っても気づかない捲簾に、とうとう悟空の癇癪が爆発した。

 「…っ!ケン兄ちゃんなんかっ大っキライッ」

 「……っな、悟空っ」

 投げ付けられた絶叫に捲簾が我に返った時には、もう遅く。

だだだ…っと駆け出した悟空のキツイ一言だけが誤解という脚色つき──「ケン兄

ちゃんのキスは苦いから嫌い」という──で、残された捲簾をメッタ打ちに叩きのめ

した。

 

 

 その日以来捲簾の側から煙草の類いが消え、それに合わせるように彼の機嫌が

日に日に険悪なものへと変化していった。