知らない過去と宣戦布告・八戒編
………ぴと。 「……………んっ………」 急に胸にかかった重みと温かな感触に、八戒はゆっくりと目を開けた。 いまだ闇に包まれた部屋を、ぼんやりと見上げる。 ベットの側の時計に目をやると、ちょうど丑三つ時に差しかかったばかりだ。 何故、こんな時間に目が覚めたのだろう… 窓に叩きつける、雨音のせいか。 寝る前から、随分激しく降ってはいたが。 (このぶんでは、今日も出発は無理ですね) そんなことを考えながら、ふと気配を感じて己の胸元に視線を落とす。 「…………悟空っ?」 「……ん…………」 今日の同室者だった少年が、気持ち良さそうに八戒に抱き着いて惰眠を貪っていた。 (…これだったんですか…) 漸く納得がいき、八戒は苦笑する。 確かに、昨日から急に冷え込んで肌寒くはあった。 いまだ野生とお友達の悟空は、四人の中で一番寒さに弱い。 好意を持っている相手にこんなに密着されるというのも、なかなかに考え物だ。 (うーん、なんだか理性の限界を試されてるみたいですねぇ…) 八戒だって─── 一見すると悟りきっていて三蔵より坊主らしく見えるが、一応成人 悟浄ほどあからさまでないにしろ、性欲だって人並み──かどうかは、意見が分かれる 好きな相手は抱き締めたいし、それ以上の事だって勿論したい。 でもそれは本当に想い合っていれば、の話だ。 好かれているとは思う。悟空が自分を信頼してくれているのは、疑うべくもない。 大事な仲間として、時には相談相手として慕ってくれているのは、痛いほど感じている。 だが、八戒と同じ『好き』という持ちを持ってくれているかと問われると…『違う』としか 焦って無理強いをしては、これから何度でも訪れるだろう折角の機会まで潰してしまう。 (──煩い保護者二人もいますしね) 別に三蔵と悟浄が怖いわけではない。いざとなったら、あらゆる姑息な手段を使っても二人を …が、それで悟空に嫌われるのは絶対厭だ。 啼かしたくはあるが、泣かせたいわけではないのだから。 (悟浄を蹴倒して同室になった甲斐はありましたし…) すっぽりと八戒の腕の中に収まったその身体からは、仄かに日の薫りがした。 (…いい匂いです…) 悟空は日頃からよく三蔵を『太陽』だと云うが、八戒は彼の方が『太陽』だと思う。 それも、照りつける夏の貫くような陽光ではなくて。 晴れ渡る青空に輝く、春の光。 厚い雪を溶かし、大地に眠る魂を蘇らせる命の源。 八戒の指が、固く閉じられた悟空の瞼をそっとなぞる。 (ここに宿る黄金(キン)の光が、僕を甦らせてくれた) 三年前───自分は紅い闇に囚われていた。 大事な人を護れなかった後悔と憤りから、多くの人を傷つけ、また自分も傷ついて。 闇に溺れて、死ぬのだと思った。 けれど……… 三蔵と悟浄が、八戒を呪縛していた闇を切り裂いて。 《名前ちゃんと覚えたかんな!もう変えんなよ?!》 ──そして悟空が、『自分』を照らし出してくれた。 もう、何処にもないと思ったのに。全部闇に溶けてしまったはずなのに。 黄金(キン)の光に照らされた自分の手は、染み一つなくて。 重ねられた小さな手は、とても温かかった。 八戒の罪も哀しみも、すべて溶かしてしまう程に。 (きっと…あの時から、僕は悟空が好きになっていたんでしょうね…) 失ったものの記憶は、消えたわけではない。今でも時折、八戒を苦しめるけれど。 新しく得たこの光が導いてくれるから、大丈夫。きっと自分は乗り越えてゆける。 揺るぎない確信を胸に、自身も眠りにつこうとした──その、矢先に。 熟睡してるとばかり思っていた悟空が、ぱちりと目を覚ました。 「悟空……?」 きょろきょろと辺りを見回し、間近にある八戒の顔を視界に捕らえる。 ぼんやりと漂っていた瞳が大きく見開き──次の瞬間、花開くような笑みがぱぁっと 「…ああっ、天ちゃん見つけたぁ……」 若木の様にしなやかな両腕が、八戒の幅広い背中をぎゅっと掴む。 「…悟…空……?」 「おれ、ずっとずぅ〜っと、探してたんだよ…」 厚い胸元にすりすりと頬を寄せ、悟空は舌ったらずな口調で八戒に甘える。 あまりにもらしくない──というか、初めて見る悟空の行動に、違和感が八戒の心に なにか悪いモノに憑かれたんじゃないか…不安になって覗き込んだ悟空の瞳あった 大粒の涙で霞んだ黄金(キン)の光が、瞬時に八戒の心を捕らえた。 ───なんだろう。自分は、この瞳を知っているような気がする。…もう、ずっと昔から。 どくん、と八戒の心臓が痛む。ずきずきと、米神に激しい目眩を感じた。 何か、大事なことを自分は忘れている。 僕は、昔…──────── 固まった八戒に、悟空は更にきつく抱き着く。 もう二度ど放すまいとするように。 「…もう……どこにもいかないでね………」 ずっと側にいて。どこにもいっちゃ、やだ。 縋るような、せつない眼差し。とても寝ぼけてるとは思えない程真摯な目は、祈りにも だから…気がついたら、頷いていた。 「──いきませんよ。ずっと、悟空の側にいます。」 「ほんと…?」 大きな瞳が、忙しなく揺れる。 まだ不安を拭い切れずにいる。 だから、笑ってこの言葉を告げた。 「ええ、『約束』です」 何故、それを口にしたのか。自分でも判らない。 だが、この『言葉』でなければ悟空の不安を取り除けない事を、八戒は無意識の内に 「…うん、信じる…天ちゃん…だいすき…」 そう、小さく呟いて。 悟空は安心したように笑みを浮かべ、また眠りにおちた。──八戒の腕の中で。 寝入ってしまった悟空の頬に残る涙を拭いながら、八戒は静かに怒っていた。 (悟空を、泣かせるなんて……) いったい、誰なのだ。その相手は。 悟空の交友関係は──三蔵のも込みで──全て頭の中に入っているが、『天ちゃん』 (なんだか…知ってるような気がします) 逢ったこともない人物に憎悪を燃やすなんて、自分でも馬鹿だと思う。なのに、 むしろ段々と強くなっていく。 きり、と薄い口唇を噛み締める。 じんわりと口内に広がる血の味は苦くて、八戒の憤怒を更に煽った。 悔しい、と思った。 悟空の心を、掴んで放さないなんて。 夢現つで名を呼ぶほど、悟空の心中深くにその存在が刻まれている。 許せない、と思った。 悟空にこんな寂しい思いをさせるなど。 泣きながら求めるほど、悟空の胸に存在を焼き付けておきながら、側にいない 何処の誰かは知らないが、もし逢うことがあるのなら、その時は気孔の十発や百発は ほんの数十秒にも満たない間に、『天ちゃん』は八戒の『粛正リスト』の上位に組み それくらい、八戒は怒っていた。 (三蔵や悟浄も強敵ですけど──『天ちゃん』とやらにも、負けませんよ。僕は…) 打倒を固く心に誓い、八戒は再び眠りにつく。 その腕に、自分にとって『一番』の存在をしっかりと抱き抱えて────
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