知らない過去と宣戦布告・八戒編


 

………ぴと。

 「……………んっ………」

 急に胸にかかった重みと温かな感触に、八戒はゆっくりと目を開けた。

 いまだ闇に包まれた部屋を、ぼんやりと見上げる。

ベットの側の時計に目をやると、ちょうど丑三つ時に差しかかったばかりだ。

 何故、こんな時間に目が覚めたのだろう…

窓に叩きつける、雨音のせいか。

 寝る前から、随分激しく降ってはいたが。

 (このぶんでは、今日も出発は無理ですね)

 そんなことを考えながら、ふと気配を感じて己の胸元に視線を落とす。

そこには──

 「…………悟空っ?」

 「……ん…………」

 今日の同室者だった少年が、気持ち良さそうに八戒に抱き着いて惰眠を貪っていた。

 (…これだったんですか…)

 漸く納得がいき、八戒は苦笑する。

確かに、昨日から急に冷え込んで肌寒くはあった。

 いまだ野生とお友達の悟空は、四人の中で一番寒さに弱い。

寝ている間に耐えられなくなって、無意識に八戒のベットに潜り込んだとしても、無理は

ない───が。

 好意を持っている相手にこんなに密着されるというのも、なかなかに考え物だ。

 (うーん、なんだか理性の限界を試されてるみたいですねぇ…)

 八戒だって─── 一見すると悟りきっていて三蔵より坊主らしく見えるが、一応成人

男性である。

 悟浄ほどあからさまでないにしろ、性欲だって人並み──かどうかは、意見が分かれる

所だが──に、ある。

 好きな相手は抱き締めたいし、それ以上の事だって勿論したい。

少し位は苛めてもみたいし、啼かせて自分だけしか知らない表情(カオ)も見てみたい。

(←けっこうマニアック…)

 でもそれは本当に想い合っていれば、の話だ。

好かれているとは思う。悟空が自分を信頼してくれているのは、疑うべくもない。

 大事な仲間として、時には相談相手として慕ってくれているのは、痛いほど感じている。

それは嬉しい。

 だが、八戒と同じ『好き』という持ちを持ってくれているかと問われると…『違う』としか

云えない──今は。

 だから、今は理性と忍耐を総動員して自戒する。

焦って無理強いをしては、これから何度でも訪れるだろう折角の機会まで潰してしまう。

 (──煩い保護者二人もいますしね)

別に三蔵と悟浄が怖いわけではない。いざとなったら、あらゆる姑息な手段を使っても二人を

出し抜き、且つ倒す自信はおおいにある。

 …が、それで悟空に嫌われるのは絶対厭だ。

啼かしたくはあるが、泣かせたいわけではないのだから。

 とりあえず、今日はこうして抱き締めて眠れるだけで良しとしよう。役得は役得だ。

 (悟浄を蹴倒して同室になった甲斐はありましたし…)

しみじみと幸せを噛み締め、小柄な身体に腕を回す。

 すっぽりと八戒の腕の中に収まったその身体からは、仄かに日の薫りがした。

 (…いい匂いです…)

悟空は日頃からよく三蔵を『太陽』だと云うが、八戒は彼の方が『太陽』だと思う。

 それも、照りつける夏の貫くような陽光ではなくて。

晴れ渡る青空に輝く、春の光。

 厚い雪を溶かし、大地に眠る魂を蘇らせる命の源。

八戒の指が、固く閉じられた悟空の瞼をそっとなぞる。

 (ここに宿る黄金(キン)の光が、僕を甦らせてくれた)

三年前───自分は紅い闇に囚われていた。

 大事な人を護れなかった後悔と憤りから、多くの人を傷つけ、また自分も傷ついて。

 闇に溺れて、死ぬのだと思った。

けれど………

 三蔵と悟浄が、八戒を呪縛していた闇を切り裂いて。

 《名前ちゃんと覚えたかんな!もう変えんなよ?!》

──そして悟空が、『自分』を照らし出してくれた。

 もう、何処にもないと思ったのに。全部闇に溶けてしまったはずなのに。

 黄金(キン)の光に照らされた自分の手は、染み一つなくて。

重ねられた小さな手は、とても温かかった。

 八戒の罪も哀しみも、すべて溶かしてしまう程に。

 (きっと…あの時から、僕は悟空が好きになっていたんでしょうね…)

 失ったものの記憶は、消えたわけではない。今でも時折、八戒を苦しめるけれど。

 新しく得たこの光が導いてくれるから、大丈夫。きっと自分は乗り越えてゆける。

 揺るぎない確信を胸に、自身も眠りにつこうとした──その、矢先に。

 熟睡してるとばかり思っていた悟空が、ぱちりと目を覚ました。

 「悟空……?」

きょろきょろと辺りを見回し、間近にある八戒の顔を視界に捕らえる。

 ぼんやりと漂っていた瞳が大きく見開き──次の瞬間、花開くような笑みがぱぁっと

顔中に広がった。

 「…ああっ、天ちゃん見つけたぁ……」

 若木の様にしなやかな両腕が、八戒の幅広い背中をぎゅっと掴む。

随分激しい悟空の包容に、八戒は柄にもなく狼狽えた。

 「…悟…空……?」

 「おれ、ずっとずぅ〜っと、探してたんだよ…」

 厚い胸元にすりすりと頬を寄せ、悟空は舌ったらずな口調で八戒に甘える。

まるで、頑是ない幼子そのもののように。

 あまりにもらしくない──というか、初めて見る悟空の行動に、違和感が八戒の心に

忍び寄る。

 なにか悪いモノに憑かれたんじゃないか…不安になって覗き込んだ悟空の瞳あった

のは………透明な雫で。

 大粒の涙で霞んだ黄金(キン)の光が、瞬時に八戒の心を捕らえた。

───なんだろう。自分は、この瞳を知っているような気がする。…もう、ずっと昔から。

 どくん、と八戒の心臓が痛む。ずきずきと、米神に激しい目眩を感じた。

 何か、大事なことを自分は忘れている。

僕は、昔…────────

 固まった八戒に、悟空は更にきつく抱き着く。

もう二度ど放すまいとするように。

 「…もう……どこにもいかないでね………」

 ずっと側にいて。どこにもいっちゃ、やだ。

縋るような、せつない眼差し。とても寝ぼけてるとは思えない程真摯な目は、祈りにも

似た輝きを湛えて、静かに八戒を映している。唯、彼だけを見つめて。

 だから…気がついたら、頷いていた。

 「──いきませんよ。ずっと、悟空の側にいます。」

 「ほんと…?」

 大きな瞳が、忙しなく揺れる。

まだ不安を拭い切れずにいる。

 だから、笑ってこの言葉を告げた。

 「ええ、『約束』です」

 何故、それを口にしたのか。自分でも判らない。

だが、この『言葉』でなければ悟空の不安を取り除けない事を、八戒は無意識の内に

認識(シ)っていた。

 「…うん、信じる…天ちゃん…だいすき…」

 そう、小さく呟いて。

悟空は安心したように笑みを浮かべ、また眠りにおちた。──八戒の腕の中で。

 寝入ってしまった悟空の頬に残る涙を拭いながら、八戒は静かに怒っていた。

 (悟空を、泣かせるなんて……)

 いったい、誰なのだ。その相手は。

悟空の交友関係は──三蔵のも込みで──全て頭の中に入っているが、『天ちゃん』

という名に聞き覚えはない。 だのに、その名は八戒の胸に妙に引っ掛かった。

 (なんだか…知ってるような気がします)

 逢ったこともない人物に憎悪を燃やすなんて、自分でも馬鹿だと思う。なのに、

むかつきが止まらない。

 むしろ段々と強くなっていく。

きり、と薄い口唇を噛み締める。

 じんわりと口内に広がる血の味は苦くて、八戒の憤怒を更に煽った。

 悔しい、と思った。

悟空の心を、掴んで放さないなんて。

 夢現つで名を呼ぶほど、悟空の心中深くにその存在が刻まれている。

それが、悔しい。

 許せない、と思った。

悟空にこんな寂しい思いをさせるなど。

 泣きながら求めるほど、悟空の胸に存在を焼き付けておきながら、側にいない

なんて。

 それが、許せない。

何処の誰かは知らないが、もし逢うことがあるのなら、その時は気孔の十発や百発は

是非お見舞いしてやらないと、絶対気が済まない。

 ほんの数十秒にも満たない間に、『天ちゃん』は八戒の『粛正リスト』の上位に組み

込まれた。

 それくらい、八戒は怒っていた。

 (三蔵や悟浄も強敵ですけど──『天ちゃん』とやらにも、負けませんよ。僕は…)

 打倒を固く心に誓い、八戒は再び眠りにつく。

その腕に、自分にとって『一番』の存在をしっかりと抱き抱えて────