「よう…」
不意にかけられた声に、彼は薄く目を開いた。
日はすでに暮れはじめ、五行山頂に建つこの天然の牢獄も闇の帳で覆われている。
鼻を摘ままれても確と判らぬ暗闇で、煩わしげに顔をあげてみれば。 彼以外誰も居ない筈の其処に、踊り子のような薄絹の衣装を纏う女が立っていた。 「貴様か──」 『それ』が人間でないのは瞭然だった。 シミ一つない乳白色の肌と、身の内から光り輝くような豊満な肉体。 見る者を一目で魅了する、典雅な顔。 絶世の美女と云ってもいいその秀麗な顔にはしかし、少々意地の悪い微笑みが薄く引かれている。 だがそれも女の美を際立たせこそすれ、いささかも損なう印象を与えない。 まさしく、人が思い描く姿そのままの女神がそこに在った。けれど天工によって整えられた絶世の 美貌も、この岩牢の主である彼には何の感銘ももたらさなかった。 寧ろ忌ま忌ましげに眉を顰め、彼は傲然と女を睥睨した。 「……如来の愛弟子が、何用だ」 高く澄んだ子供のものでありながら、殷々と響く声は硬く冷たい。 全身から立ち上る剥き出しの敵意を少しも隠そうともせず、むしろ挑むように見上げる彼の眼差しに 女はクスリと笑った。 「斉天大聖どのにはお久しゅう……チビはどうした?」 なにげないふりを装った、何かを探るような女の問いかけ。それを敏感に感じ取ったのか彼の答えは そっけなかった。 「──眠らせた。もとより、貴様などに会わせる気は毛頭ない」 「なんだ……つまらんな」 そう呟いた女の言葉がよほど気に障ったのだろう。 幼い顔を瞬時に紅潮させ、彼はその双眸に溢れんばかりの殺意を込めて睨みつけた。 「無理やり眷属から攫い、かような場所に我らを幽閉したのは誰だ?世の理も解らぬ幼子が五百年もの 孤独に耐えられると、貴様ら天神は本気で思うておるのか」 凍えるような厳しい恫喝に女は肩を竦める。 見る者がいれば恐怖に戦くそれを柳枝のように軽やかに受け流し、女は口元を歪めた。 「仕方ねぇだろ、おまえが天界で殺戮の限りを尽くしたのは事実なんだから。上層部だって面子がある からな、お咎めもなしってワケにはいかねーんだよ」 「己の命を守ってどこが悪いのだ、観世音」 彼等が云うところの『罪』に踏み込んだ、あの時。 目覚めていたのは、己ではなかったけれど。けれども、この目が──眼窩に残る映像がはっきりと 告げている。 先に仕掛けたのは天界の方だ、と。 いわれなき罪で生命の危機に晒され、それを阻もうとした庇護者を殺され──もう一人の『自分』の 発した慟哭が、封じられた筈の彼を神の戒めから解き放ったのだから。 あれほどの絶望を与え、この身を脅かそうとした者をどうして赦せよう。 あの時『もう一人の自分』の代わりに表に出たのは、けして間違いではない。そうしなければ、彼等 『二人』は消滅(けさ)れていた。 何が真実なのかも判らぬ……いや、己で考えることすら忘れた愚か者たちの手によって。 「私は己を守っただけだ」 押し殺した声でそう吐き捨て、彼は黙る。 五百の歳月を過ぎてもなお変わらぬ頑なな彼の態度に、女──観世音は柳眉を寄せ小さな溜め息を 漏らす。 はたして……自分の知る「チビ」ではない彼に告げてもいいものか。 だが、知らせぬわけにはいかない。 ふっと息をつき、観世音は口火を切る。 「先日、金蝉が地上に転生した」 「……」 「天蓬や捲簾もほどなく生まれる」 「……」 見つめる彼の顔には僅かな変化もない。 眉一つ動かすことすらせず、じっと虚空を睨む幼い姿が観世音の癇の虫を少しばかり刺激した。 「嬉しくねーのか?此処にいるのもあと十数年の我慢なんだぞ?」 せっかく教えてやったのに、と大袈裟に呆れてみせてみれば。 ふん、と鼻を鳴らし彼は額に輝く金鈷へ手を添える。 「此処から出ようと、コレがある限り私が貴様らの虜囚であることに変わりは無い」 きっぱりと言い切り、彼はすっと半眼を閉じる。 それきり、再び全てを拒絶する彼を視界に認め、観世音は此処に来てはじめて表情を変えた。 哀れむような──どこか切なげな顔に。 「……それほど天界が憎いか?お前らにとって、あそこは忌まわしいだけの過去しか残ってないのか?」 先程までの軽佻を削ぎ落とした、真摯な問いかけが観世音の唇から零れる。 けれど何時まで待っても、それにたいする答えは返ってはこなかった。 心まで凍りつくような、重苦しい沈黙以外は。 観世音が去り、また闇に包まれた牢の中。
ぽたり、と。一滴の雫が彼の掌に落ちた。 「……?」 己の手を濡らすそれに、彼は驚愕したように幾度も瞬く。 その度に、小さな──それでいて火傷しそうなほど熱い飛沫がはらはらとこぼれ落ちた。 「悟空……?目覚めたのか? 眠らせた筈の、もう一人の『自分』へ問いかける。 先ほど観世音と対峙した時とは全く違う、限りない慈愛に満ちた声で。 「聞いていたのか……あれらが転生したことを」 ならばこの涙は、彼等への思慕の想いなのか。 記憶を奪われてもなお、求めることを止められない。それほど、彼等の影は深く心に刻まれている のだ。果たされなかった約定とともに。 「『迎えに来る』という、あやつらの口約束をまだ信じておるのか……愚かな」 憐憫を含んだささやきに、胸の奥で泣き続ける子供は答えない。かわりに聞こえるのは、失われた 人の名を呼び続ける魂の声のみ。 そんなもう一人の『自分』が無性に愛しくて、彼は己の肩をそっとかき抱いた。 「……泣くな。私がいるから、もう泣くな。苦しみも悲しみも、みんな私が引き受けるから」 切ない微笑みをたたえ、彼は己の半身に語りかける。 「私が共に在るから……いつか、二人で此処を出で母上のもとに還ろう」 すぐ側に自分が在るというのに、悲しみの感情だけしか伝えてこない魂へ、精一杯の慈しみを込め 呼びかけた。 「二人では寂しいと云うのなら──もし、お前が望むのならあやつらも連れて行くから。だから、もう 泣くな」 つぶやきはどこまでも甘く、そして優しく彼の半身を包む。 だが。 もう一人の『自分』に向ける慈愛とは裏腹に、はるか彼方を見つめる黄金の双眸には不穏な光が 宿っていた。 気が遠くなるほどの歳月を重ねても、けして消えぬ想い。それを半身に抱かせた者を、その存在を、 彼は許すつもりはなかった。 『消す』ことが出来ないのなら、せめて二度と悟空を惑わせないよう縛して封じるしかない。 半身が知れば泣いて非難する──或いは命と引き換えにしてでも止めようとする決意を、このとき 彼は決めた。 それが、再び自身を『罪』に落とす結果になろうとも。 夕暮れの赤焼けを背に、一つの影が鉄格子の向こうに立ち塞がる。 不思議な懐かしさを感じさせる、紫暗の双眸で彼を見下ろしながらその男は口を開いた。 「……おい。俺のことずっと呼んでいたのはおまえか?」 「─────えっ?」 そして運命の輪は廻り始める────
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