誰もいない筈の空間。

何も存在しないはずの、その場所に。

 自分以外の人物を見つけ、少年は目を見開いた。

 「あっ………」

 飛び込んできたのは、冴えわたる白皙の美貌と左右異称の瞳。

右に埋められた、少年と同じ禁忌の色彩。

 見覚えのあるその姿に、心が激しくざわついた。

(オレハ…コノ人ヲ知ッテイル…)

ずっと前──…に居た頃。

 …の為に花を摘みに出掛けた花園で、自分はこの…に逢って。それから──

 「あっ…ああっ……」

 『彼』が誰だか、知っている筈なのに。

名を──言葉にしようとすると、まるで砂嵐のような雑音が脳裏を覆ってその先を封じてしまう。

 「…かっ…はぁ……」

 きりきり、と万力で心臓を締め上げられるような激痛が少年を襲う。呼吸が千々に乱れ息をする

ことすらままならない。

 苦しみに顔を歪めながら…それでも必死に微かな記憶を手繰り寄せようともがく少年の小さな

体を、力強い腕がかき抱いた。

 「…………っ」

 「無理をするな、悟空」

 ふわり、と抱き締められた逞しい体から薫る樹の匂いが、少年──悟空の鼻腔を擽る。

懐かしく…ほんのすこし切なく感じるその匂いは、悟空の意識をゆるやかに包んで痛みを薄れ

させた。

 「お前の記憶は故意に封じられているんだ。無理に思い出そうとすれば、精神が壊れてしまう」

 くせのある土色の髪を優しく撫で、静かに青年は諭す。

 「落ち着いて…心を静めろ。そうすれば苦痛は治まる」

 とつとつと語られる言葉は幼い悟空にはやや難解ではあったけれども。それでも多少は理解

したのか、悟空は抵抗を止め黙ってその腕の中に身を委ねた。

 荒かった息が、徐々に落ち着きを取り戻す。

漸く平静を取り戻し、悟空はおずおずと焔を見上げた。

 「どうして…?」

 此処にいるのか?この場所は、誰も入れない筈なのに。

 喉元まで出かかった問いを、悟空はぐっと堪える。もしそれを口にしてしまったら…この温もりが

忽ち消え去ってしまいそうで。また一人になってしまいそうで──それが怖くて、もの問いたげな

眼差しのままどうしていいのか判らなくて俯く。

 そして…伏せた瞳に移った見慣れた存在に、悟空の顔が強ばった。

鈍色の光を放つそれは、戒めの枷。自分の腕につけられたモノとまったく同じ…いや、自分のモノ

よりはるかに頑丈そうな冷たい鉄の塊。

 この人も、自分と同じ『ザイニン』なのだろうか。

でも──と、悟空は首を傾げる。

自分を見つめるこの人の瞳は優しい色をしているし、こうして抱き締めてくれる手はとても暖かい。

自分は何か『悪いこと』をしたらしいが、この綺麗な人はとてもそうは見えない。

 気になって…怯えていたのも忘れ、つい口が動いてしまった。

 「お兄ちゃんも、閉じ込められたの?」

 おそるおそる尋ねてみると、一つきりの金晴眼が困ったような光を浮かべる。

 「いや──…、そう…だな。自分の意志に反して閉じ込められている、という点では俺もお前と

変わりはないか」

 自嘲する顔は変わらず綺麗だったけれど。それはとても寂しそうで、何故だか悟空の心臓が

きゅっと縮んだ。

 「…お兄ちゃんは…」

 「焔、だ。俺の名は」

 柔らかな微笑みを口元にひいて焔が名乗る。

やはり聞き覚えのある名前に懐かしさを感じながら、悟空は再び尋ねた。

 「ほむらは、どうしてここに来たの?」

 あどけない声で作られた疑問。だがその裏に含まれたもう一つの問いを、焔は即座に感じ取った。

 『貴方が…俺が待ってた人なの…?』

まったくの無意識でありながら、悟空は二重の意味で焔に問いかけた。

期待と不安の入り交じった輝きを大きな双眸に潜ませ、じっと息をつめて焔の返事を待つ。

 そんな健気な様子に頷きたい衝動に駆られつつ──しかし、焔の口は偽りを許さなかった。

 「お前が、他の『誰か』を呼ぶ声が聞こえたから…俺は此処にきた」

 「?だれか…?それは、ほむらじゃないの?」

 頷いて欲しい──そんな声が聞こえそうなほど真剣な眼差しが焔を捕らえる。

ここで『是(そうだ)』と云えたら。そう応えてやれたら、どんなに良かっただろう。

 鈍い幻痛を心に感じながら、焔は静かに首を振った。

 「…俺ではない」

 「………そう」

 黄金の瞳がみるみる曇り、幼い顔にあからさまな落胆の色が浮かぶ。

 すまない、と続けそうになって…寸での所で焔は口を噤んだ。

謝ったところで、悟空の絶望が消えるわけではないのだから。

  じんわりと潤みはじめた眦を、慌てて小さな手が乱暴に擦る。

けれど悟空の頬を濡らす雫はそれで止まることなく、後から後から溢れ出てくる。

 「よせっ」

 躍起になって拭おうとする悟空の手を止め、その紅く腫れた目元に焔はそっと唇を寄せた。

 滲む涙を舌で丁寧にすくい取る。ほんのりと舌先を刺激するそれは焔が悟空に与えた哀しみの

味がして──少し、苦く感じられた。

 「…ぅっ……」

 焔の優しさが嬉しくもあり…けれど同時に辛く思えて。悟空は声を押し殺して泣いた。

 すると背中にまわされた手に力が込められる。

悟空は逞しい腕に更に抱き込まれる形となり──久しく忘れていた、暖かさをまざまざと思い出して。

込み上げる感情を我慢出来ずに、震える指先で焔の服を掴み、命の音を刻むその胸元に縋りついた。

 「…うっ…ぅぅ…」

 とめどない悟空の哀しみが焔の服だけでなく、彼の裡にまで染み込む。

どうしてやることも出来ないまま、焔は黙って悟空の身体を抱き締めた。

 そうするしか、今の彼にはなす術がなかった。

たとえ記憶を奪われようが…おいて逝かれた絶望は悟空の心にしっかりと焼き付いている。ここに

いる以上、それが消えることは決してないのだ。

 どうしたら、この子を癒してやれるのだろうか。

焔は、何一つ自由にならない己の境遇が今ほど歯痒いと思ったことはなかった。曲なりにも『神』と

いう名を戴きながら、こんな幼い子を救うことすら出来ない。

 (救う…?)

閃いた言葉に、焔ははっと己の手を戒める枷を見た。

 ───出来ないことはない。たとえ半分は人の血をひくとはいえ、もう半分は天帝と同じ血を受け

継いでいるのだから。菩薩の結界といえど破ることも不可能ではないだろう。

…己の命を賭ける覚悟でやれば。

 「……悟空」

 乾いた声が牢屋に響く。

己を抱く腕の微妙な力加減の変化を感じて、悟空はのろのろと顔を上げた。

 「此処から、出たいか?」

 幾分怜悧さが加わった焔の視線が問う。

質問の意味を瞬時に理解出来ず、悟空の瞼が何度も瞬きを繰り返す。

 「…出られるの?」

 漸く理解出来た悟空の呟きは、ずいぶんと掠れていた。もう長い間閉じ込められていたのだ。

信じられなくても無理はない。

 悟空の猜疑の念を打ち消すように、焔は力強く頷いた。

 「できる。お前が望むならな」

 出たいか?

無言の問いかけに、動揺を映した大きな瞳が忙しなく揺れる。

 息の詰まるような沈黙の長考を経て。

小さな唇が動いた。

 「…わかんない」

 「……………」

 「俺、ココはキライ」

 小さいが、きっぱりと悟空は言い切る。

 「でも、俺をここに連れて来た人が云ってた。ココで待ってれば、いつか俺の大事な人が迎えに

きてくれるって…」

 自分で云った『大事な人』という言葉に反応したのか、悟空の白い頬が仄かに染まる。

 ずきり、と。心臓に感じた鋭い痛み。焔はこれが幻痛だと思えなかった。

 わずかに顰めた焔の表情にも気づかず、どこか夢見るような様子で悟空は続ける。

 「だから俺、待ってる。その人に会えるまで、ずっと、ずぅっと…待ってる」

 「寂しくてもか?」

 咎めるような響きを隠してすかさず焔が尋ねる。大人気ないとは自覚しつつも、何故か悟空の

答えが気に障った。

 その心ない言葉に、ひくっと悟空の喉が震える。

だが、きゅっと唇を噛み締めこくんと小さく頷いた。

 「寂しくても…待ってる」

 それに…と、悟空は焔を見上げる。

 「『ザイニン』の俺を逃がしたら、お…焔がきっと怒られるでしょう?」

 すうっと子供特有の柔らかな手が、枷の嵌まった焔の手首に触れる。

 「これより、もっとひどいコトされるでしょ。そんなの、ダメだよ…」

 桃のように瑞々しい頬をふたたび大粒の涙が伝う。降り落ちた悟空の涙の熱さを掌に感じ、焔は

激しい目眩を覚えた。

 こんな苛酷な環境に居ながら、何故この子供は労りの心を持ち続けられるのだろう。

天界にいた時もそうだ。金蝉や天蓬といった存在がいたとはいえ、悟空を取り巻く環境は劣悪だった。

蔑みと畏怖…不変を至上とする天界人たちにとって、澱みなき時を持ち変化し続ける悟空は忌む

べき対象でしかない。当然風当たりも尋常なものではなかった。だが。

 それでもこの子はけっして笑顔を消さなかった。

傷つけられ心を足蹴にされても、次の瞬間には立ち上がる。春の日差しを受け、残雪の中から

あざやかに甦る花ように、誇り高く天を見上げるのだ。

 これが大地に愛されて生まれた者の強さなのだろうか。絶対に諦めない不屈の魂。地上に生まれた

者のみが持ち得る強かさを、焔は純粋に羨ましく思う。

 悟空を救うつもりでいながら──いつの間にか自分の方が癒された事実に、焔の口元が歪む。

しかし悪い気はしなかった。

 「──お前が望まないのなら、今は諦めよう」

 痩せ細った悟空の身体を優しく抱き直し、焔は囁く。

 「けれど、もし──どうしても辛くて…苦しくて、耐えられなくなったら」

 柔らかな頬を滑る涙を一つ一つ拭い、厳かに焔は告げた。

 「俺の名を呼べ。世界の何処にいても、お前が呼べば必ず駆けつける。俺とお前と、二人だけの

約束だ」

 返事を封じるように、桜色の小さな唇に自分の口唇を重ねる。

 「…………っ!」

 金の瞳が驚いたように大きく見開く。しかし抵抗はなく、ただ真っ赤になって悟空は口づけを受けた。

 初々しい反応にクスクスと喉を鳴らして焔は悟空から離れる。

 「いまの…ナニ?」

 「これは証しだ。俺が必ず約束を守る、というな…」

 頬を朱に染めたまま上目使いで見つめる様子に堪らなく愛しさを感じながら、焔は笑う。

それは天界では見せたことのないほど穏やかな笑みで…。

 月を思わせる焔の笑顔に、先程までの恥ずかしさも忘れ悟空は見惚れた。焔の薄衣で包まれ、

再びその腕の中に抱き寄せられたのすら気づかぬほどに。

 「もう…休め」

 「でも…」

 「次にお前が目覚めるまで、側にいるから」

 悟空の怯えを瞬時に看破し、焔は不安を取り除くようにその髪を撫でる。その言葉に偽りのない

ことを感じ取って、悟空は漸く目を閉じた。

 

 焔の手を握り締めたまま………

 

 規則正しい寝息が、夜の静寂に溶ける。

安らかな寝顔を飽くことなく凝視する焔の胸には、一つの決意が生まれていた。

 

 『異端(俺達)を不必要(いらぬ)というのであれば──禁忌のない《世界》を作ればいい…』

 

 自分たちが《異端》でない《世界》。夢でしかない世界を現実にする方法を、自分は知っている。

 あとはそれを行うだけの《力》を手にすればいいのだ。

 

 「俺は、欲しいモノは自分の力で手に入れる」

 腕の中で眠る、小さな少年。気高い魂と『力』を持つ、この世で唯一焔の心を動かす存在。

これを手に入れる為に邪魔な存在は…今はまだいない。けれど。

 どうせ己のモノにするのなら、彼らの目の前で奪う方がより楽しいはずだ。

 「早く──来いよ、金蝉」

 一番残酷な方法で、悟空(こいつ)を奪ってやるから。

 

 それに応えるように。物言わぬ月の傍らを、金色の星が一つ流れ落ちた。




■あとがき■
初の焔空です。焔さんいい人度大爆発ですね。そして無駄に長いし(苦)。なんで私の書く前後編は後編がへんに長くなるんでしょう…。相変わらず心理描写下手くそだし(>_<)。タイトルの『金烏』は焔さんから見た悟空のことです。烏ってのはカラスのことなので、ホントは鳥のほうが正しいのですが、『きんちょう』って音読みはなんか間抜けな感じがするので、響きのいい『烏』にしました。では、ちょっくら博多湾で土左衛門になって出直してきます。