四 螺旋の迷宮


 太乙が来てから三度目の朝日が、煌々と玉虚宮を照らす。

 結局、太乙はあれから一睡も出来なかった。

眠ろうと思えは思うほど、呂望のことが気になって目が冴えてしまう。

 ついに諦めて、徹夜のまま午前中の講義へと突入してしまった。

つつがなく講義が終わり、すこし遅い昼食を取ろうと講堂を出た矢先。

誰かに肩を掴まれ、振り返らされた。

 「なっ……普賢…………?」

 続く抗議の言葉は、太乙の口から発せられなかった。普賢の顔から笑顔が消えていた。

 どんな時でも絶対に絶やされることのなかったはずの微笑みが、きれいになくなって。

かわりに、その瞳には剣呑な光が見え隠れしている。

 「望ちゃんを知らない?」

 初めて目撃した同僚の不機嫌な顔に戸惑いも露な太乙へ、彼は鋭く尋ねた。

 「なに云って………」

 「望ちゃんを見なかった?」

 理解出来ずにいる太乙に、普賢はもう一度──今度は語気をややきつくして───尋ねる。

 『呂望を知らない』『見なかった』って…。

 なにを云っているのだ、彼は。

 「望ちゃんが行方不明なんだ。」

 混乱して要領を得ない太乙に業を煮やしたのか、普賢は吐き捨てるように呟いた。

 「なっ……………」

 信じられない言葉に、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走る。

そんな太乙を気遣うでもなく、普賢は淡々とした口調で先を紡ぐ。

 「昨日の午後から、望ちゃんの姿が何処にも見えない。講義にもいっさい出で来てないし、

食堂にも一度も現れない。部屋も見てきたけど、昨日から帰ってないんだ。」

 昨日の午後から姿が見えない?

 昨日から──────

では、太乙と会ったあの後、姿を消したというのか。

 「朝から南極仙翁と白鶴が探しているれど、いまだに見つかってない。望ちゃんにべったりの君なら、

何か知ってるかもと思ったんだけど…………」

 知らないんだね?

切りつけるような普賢の言外の問いに、太乙は言葉も出ない。それを肯定と受け取ったのか、

それ以上は追求せず、普賢は無言のまま去っていった。

 その後ろ姿を、ただ茫然と太乙は見送ることしか出来なかった。

 

 

 

 

 冷たい冬の空気が太乙の肌を容赦なく攻撃する。

日が傾くにつれ、それは益々ひどくなっていった。

 「何処にいったんだ…。」

 もう何度口にしたか判らない呟きが、夕闇に溶ける。

普賢と別れた後、太乙は午後の講義も忘れて飛び出していた。とても放っておけなかったのだ。

 「だめだ。此処にもいない。」

 あと数分もすれば、陽は完全に沈んでしまうだろう。そうなると、見つけるのはまず無理だ。

 「外には出てないはずなんだよね…」

 玉虚宮で学ぶ道士たちは、原則として勝手に他の修行地へ行くことは出来ない。それは、

各仙人やその弟子たちの修行の中断を避けるのと同時に、徒に脱走者及び脱落者を

出さないための配慮でもあった。

 空中に浮かぶ崑崙山から移動するためには、一部を除いて宮殿地下に常備されている

『黄巾力士』の使用を義務づけられている。

そして、その使用には元始天尊の右腕である南極仙翁の許可が必要なのだ。

 調べた限り、昨日から『黄巾力士』を使用した者の記録は無い。とすれば、呂望は

この崑崙山の何処かにいるはずだ。

 もっとも、腐っても闡教の総本山なだけあって、その範囲はとてつもなく広いのだが。

 「あと見てない所といえば、麒麟崖か………」

 麒麟崖は崑崙山の玄関口ともいえる場所で、鋭く切り立った険しい崖が駱駝の瘤のように

幾重にも重なっている。それ故、人の出入りが激しい反面、死角となっている所も多く、身を

隠すなら最適だ。ただ、高所恐怖症の太乙にとっては崑崙一苦手な場所でもあるのだが………。

 「なりふりなんて、構ってられないよね。」

 上に超が付くほど真面目な呂望が、講義をほうり出して行方不明中なのだ。

絶対、なにかあったに違いない。 少しでも可能性のある場所は探すべきだろう。

そう決心して、件の麒麟崖へと急行する。

 太乙の祈りも空しく、其処にはやはり誰もいない。

それでも諦めずに、彼は根気よく岩陰を探した。

 きょろきょろと辺りを見回す。

 「えっ………………?」

 太乙の玻璃の瞳が、きらりと煌めく。

いま、視界の端に動くものが、確かに見えたのだ。

今度は注意深く、じっと見つめる。

 薄闇のむこう、不格好な岩が突出して点在するなかに、確かに人影が見える。

地面に這いつくばるように蹲っている、あの小さな影は…

 「いたっ!」

 間違いない。呂望だ。

漸く見つけた少年の姿に、ほっと息をついて。

 けれど次の瞬間、奇妙な違和感に不安を覚える。

遠目にも感じられるほど、呂望の様子がおかしい。

 なにかを必死に探しているようだが、それにしても常軌を逸しているというか、

箍がはずれているというか、鬼気迫るような雰囲気がある。

 あんな血走った目をして…それにあの手。

呂望が腕を振り上げるたびに、両手から飛び散っている、あれは…あの飛沫は………。

 そう、あれは血だ。

はっきりと認識したとたん、太乙は少年に向かって駆け出していた。

 「止しなさいっ、呂望っ!」

体格差に物言わせ、背中から羽交い締めにする。

見れば見るほど、少年の手は酷い有り様だった。

 両手の爪はすべて剥がれ、指先からは鮮血がとめどなく滲んで先端から紫色に変色している。

固い岩肌を長時間まさぐっていたために、掌は鋭利な刃物で切り裂いたような擦傷が無数に

刻まれ、どす黒い血と砂利がこびりついていた。

 このまま放っておけば、まちがいなく壊疽を起こして腐り落ちるだろう。

 「酷い………」

 これだけ傷が深ければ相当な激痛があるはずである。痛みすら忘れるほど、捜し物は大切な物なのか。

それとも、すでに痛覚が麻痺してしまったのだろうか。

 「……っ、離せっ!」

 青年が己の手に気を取られた、一瞬の隙をついて。

少年の華奢な体が、猛然と太乙を突き放した。

肩で息を切らしながら、呂望は青年を睨みつける。

 「僕の邪魔をしないで下さいっ!」

 射殺すような激しさを秘めた双眸に宿るのは、強い拒絶と憎悪。

 ああ、やっぱりキミは…………。

ずっと燻っていた不安を裏付ける眼差しが、太乙の胸に鈍い痛みをもたらす。

 あまりの痛みに耐えられなくて、彼は俯いた。

だから、気づけなかった。

少年の瞳に映る、本当の感情を。憎悪の裏に隠れている、焦燥と渇望に。

 「もう、僕にかまわないでください。」

 感情を削ぎ落とした冷たい声。言葉よりも雄弁に、それが彼に告げていた。

 もう自分に触れるな、と。

 ゆっくりと遠ざかる靴音。けれど、彼には追いかけることはできない。

そう、太乙が感じた瞬間だった。

 ぐらりと少年の体が傾く。

太乙の視界から呂望の姿がかき消えた。

 「呂望──────────っ!!」

 咄嗟に太乙の手がのびる。

少年の身体が、麒麟崖下に引き込まれる寸前…間一髪で彼の指が血塗れの手を掴んだ。

 「くうぅぅっ……!」

 落下する呂望に引きずられるように、太乙の痩身が眼下の雲海に呑み込まれそうになる。

 だが何とか持ちこたえると、呂望を引き上げた。

ぱらぱらと音を立てて足元の小石が崖下の虚空へと消えていく。

 つかの間、忘れていた生来の持病──高所恐怖症──がまざまざと甦った。

 「うっ……………………」

 ガタガタと両膝がわらい、その場にへたり込む。

じわじわと背骨をはい上がってくる恐怖に小刻みに震えながらも、しっかりと少年の体を抱き締めた。

 「お、おちつけ………」

 目を瞑り、何度も自分に『大丈夫だ』と呟く。

白くなった指先で岩肌を掴んで、座り込んだままゆっくりと後ろへ後ずさった。

 漸く下の見えない場所まで移動すると、安堵からか、どっと疲労がのしかかる。

 こんなに心臓に負担をかけたのは、かれこれ何年ぶりだろう…などど呑気なことを考えかけて、

慌てて呂望を見下ろす。

 腕の中の少年はぐったりとしたまま、ぴくりとも動かない。許容量以上に蓄積された疲労が、

呂望から完全に意識を奪っていた。

 顔には深い疲労の色が濃厚な影を落としている。

心なしか肌も熱い。気になって、少年の小さな額に、そっと手を当ててみる。

触れた指先は、太乙に尋常じゃない熱量を伝えていた。 どうやら発熱までしいてるようだ。

こんなになるまで、彼は何を探していたのだろう。

 「やっぱり、わたしでは無理なのかい…?」

 口をつくのは、未練たらしい言葉。

呂望が目覚めている時には、恐くて絶対に聞けない────聞かない、問いかけ。

 「わたしでは…キミの力になれない?」

 あまりの情けなさに、自分でも笑いが込み上げる。

もう、答えの出されてしまった問いなのに…。

 でも認めたくなくて────信じたくなくて、つい尋ねてしまう。

応えてなど、くれるはずもないことを理解した上で。

 昏々と眠る呂望の頬に、太乙はそっと口づけた。