Chi non risica non rosica



 コーサ・ノストラにとってカポの命令は絶対だ。

それがどんなに理不尽な要求であろうと、彼の口から発せられた以上は

従わなければならない。外と隔絶されたこの牢獄のなかにあっても、その

血の掟が緩むことはありえないのだ。けっして。

 現カポを代父にもち、組織の入れ墨を刻んだ時点でルキーノもそれはよく

理解している。そうでなければ、いくら血統が良くても五人と定められた幹部

まで上りつめることはできないし、その地位を維持するのは更に難しい。

 だが、なんにでも例外というのはあるもの。

渡された封書を最後まで読み終えたルキーノはくわえていた煙草を取り

落とし、小さく呻いた。

「おいおい、マジかよ」



『新しく幹部に昇格したジャンカルロとともに幹部全員で脱獄せよ。成功の

あかつきには、ジャンカルロ・ブルモン・デル・モンテを次のカポとする』


 ファミリーの紋章とカポ・デル・サルトのサインが認められたそれは、何度

確かめても正式な命令書で。冗談としか思えない、しかし間違いなくボスから

下された指令を手に、今度はひとり途方にくれるしかなかった。






 ――ジャンカルロ・ブルモン・デル・モンテ。

CR:5の構成員のひとりで、脱獄の天才。ほとんど面識のないルキーノが知る

青年の情報はその程度。だが世間ではラッキードッグの二つ名のほうが有名だ。

 ヤク中の強盗に両親を惨殺されながら、幼児だった彼だけはほぼ無傷で生き

残ったのを始まりに、その強運にまつわる話は数限りない。元幹部や役員の

爺様たちには「欲しいものは奴に探させれば必ずみつかる」といわれるほど、

ジャンの幸運は組織内でも信用されている。実際、その恩恵で命拾いした人間も

いるらしい。眉唾だとルキーノはまったく信じていないが。

 だが真偽はともかく、この刑務所から脱獄するにはジャンの協力が必要だ。

彼がここから4回も逃げおおせたのは紛れもない事実なのだから。ボスからの

封書にも「幹部全員で」デイバンまで戻れと指示されていた。ひとりだけなら

まだしも、4人も同時に逃がすとなると経験者なしには難しい。たしかにジャンが

適任だろう。本当に噂どおりならば。

 しかし、そうはいっても信用のおけない人間にすべて預けるほどルキーノも

お人好しではない。

 本当に手配を彼に任せていいのか。信頼にたる人間か。それを判断するには、

今のままでは情報が少なすぎる。ならば知っている人間に聞けばいい。ちょうど

都合良く該当者がいる。ベルナルドだ。

 彼はジャンが組織に入った当初から、ボスやカヴァッリ顧問の口利きで面倒を

見ていた。正式に部下としてベルナルドの部隊に組み込まれることはなかったが、

いまここにいる人間の中では一番親しいはず。

 思い立ったら即行動とばかりにルキーノは食事の時間にベルナルドを捕まえる

と率直に訊ねた。

「ジャンについて?」

 突然の質問に、眼鏡の奥で薄い色合いの双眸が戸惑ったように揺れる。

 この刑務所に収監されてからベルナルドの顔色は常にすぐれない。筆頭幹部

という重責にくわえて、デイバンで刻一刻と塗り変えられていく戦局が相当の

ストレスになってのしかかっているのだろう。もっとも、それだけでない別の理由が

あることもルキーノは気づいている。ただ、それを誇り高いベルナルドが自分や

他の二人に話すことは絶対にありえないだろうが。

「そうだな……風呂嫌いで気まぐれ。犬っていうより猫っぽい性格かな」

「俺が聞きたいのはそういうことじゃないんだが」

「わかってるよ。ジャンのひととなり、だろ」

 軽く苛立って睨めつけると、ベルナルドは肩を竦めた。

「ラッキードッグの二つ名ばかり有名だけれど、意外としたたかで抜け目ない。

それに機転もきく。追いつめられるほど力を発揮するタイプだな。特に、咄嗟の

判断力は目を瞠るものがある」

 書類でも読み上げるように淡々と、冷めた声が響く。だが感情のこもらない

口調とは裏腹に、暗く沈んでいたベルナルドの顔に仄かな生気がともり、瞳が

熱を帯び始める。

「欠点をあげるなら情が深いところかな。一旦懐までいれてしまうと、なかなか

見捨てられない。それで自分が損したとしてもね」

 困ったものだと苦笑するわりに、浮かべる表情は蕩けるように甘くやわらかい。

まるで溺愛する恋人のことを惚気ているようにも聞こえて、ルキーノは目を瞠る。

 ――この男は、こんな顔もできたのか。頭は切れるが執着や激情とは縁遠い

奴だと、そう思っていたのに。本人が気づいているのかわからないが、ジャンを

語る言葉に滲むのは手のかかる弟分への慈しみではない。焦がれても得られぬ

苦しさと、それでも想わずにはいられない愛しさ。意図せずして垣間見てしまった

彼の心情が、当初の目的とは違う意味でルキーノの興味をかきたてる。

 それを駄目押しするように低い声がきっぱりと言い切った。

「ほとんど面識のないお前が、今回のことで不安を感じるのはわかる。でも、

ジャンはただ運がいいだけの男じゃない。あいつには人を惹きつける力がある。

そしてそれは、必ず俺たちをデイバンまで連れ戻してくれるはずだ」

 そう告げるベルナルドの瞳に、もう疲労や苦悩の影はない。かわりに宿った

揺るぎない意志の光に、そこに込められた彼自身の想いの烈しさに、完全に

呑まれたルキーノはただ押し黙ることしかできなかった。





「人をひきつける、ね」

 ベルナルドにそう言わしめた青年を階下に見下ろしながら、ルキーノは煙草を

くゆらせる。

 人当たりは良いがどこか醒めた印象の強いあの男に、あれほど強い執着を

抱かせる存在。おもえばそれなりに顔を合わせているにもかかわらず、こうして

じっくり彼を眺めたことなどなかった気がする。ベルナルドと一緒にいるところに

何度か出会したことはあるが、眼中どころか気にも留めていなかった。話しかけた

ことすらない。いざ意識してみれば、見過ごしようがないほど存在を主張して

いるのに。特にあの髪が。

 そう、離れていても自然とルキーノの目を引き寄せるほど綺麗な金髪だ。

店の女でもあんな見事な色合いの者は滅多にいない。刑務所暮らしで多少

薄汚れているのを差し引いたとしても鮮やかで、印象に残る。あれできれいに

垢を落として櫛を通せば、さぞかし美しく輝くだろうに勿体ない。宝の持ち腐れだ。

 よく見れば顔立ちもそこそこ整っているし、あの気怠げにゆるんだ表情を

もう少し引き締めたら半端者のイヴァンなどよりよほど幹部らしく見えるだろう。

 そんな風に品定めされているとも知らぬまま、件の青年は下の房の住人と

言葉を交わし、通りかかった看守に軽口をたたく。普通なら懲罰になっても

おかしくないが、看守のほうも穏やかに受け流して通り過ぎてゆく。ジャンの

素行は知っているだろうに、随分と甘い対応だ。まあそれを言い始めたら、

そもそも脱獄したことのある受刑者をあんな野放しにしておくこと自体が

おかしいのだけれども。

「……ラッキードッグ、か」

 噂の真相はともかく人目をひく男だとは思う。デイバンにいたころも組織の

長老たちに可愛がられているのをよく見かけた。彼ら曰く「カポがヒヨッコだった

ころに似ている」らしくて、ついつい構いたくなるのだそうだ。

 ただいくら目をかけられてはいても、平の構成員なのは他の者と変わらない。

シノギを任されているわけでもなく、けれど上からの受けはいい、なんて反感を

買いそうなものだが不思議と外でも中でもトラブルを起こしたという話は聞いた

ことがない。むしろ何度か厄介事をうまく捌いたらしく、古参の受刑者や看守も

ジャンには寛容だ。また過去に幾度も脱獄したという実績のおかげで年若い

囚人にも一目置かれている。そういった諸々の要因が、誰ともつるまなくても

彼が無事でいられる現状を作りだしているのだろう。そうでなければ、若くて

そこそこ見目も良い男が無傷でなどいられない。女の代用品は、恒常的に

足りないのだから。

「ま、馬鹿ではないということか」

 敵を作らないよう立ち回るだけの賢さがあるのはわかった。脱獄に必要なコネが

あることも。けれど、決定的な「なにか」にはまだ足りない。ベルナルドのように

無条件で信じられるほどの親しさもない今の状態で、はたしてどこまで使えるのか。

すべてが未知数で心許ない。

「それでも、ここから抜け出すのにあいつは必要だ」

 自分はデイバンに戻らなければならない。このままGDの好きになどさせられ

ないし、なによりボスに問い質したいことがある。こんな所で燻ってる暇はないのだ。

「お前には頑張ってもらわなきゃならん……ラッキードッグ」

 聞こえない距離であることは承知の上で、ルキーノは青年に向けて低く囁きかける。

本当に強運の持ち主なら、ベルナルドの言葉通りの男ならば、俺たちをデイバンまで

導いてみせろ。お前の二つ名が本物だと俺に示してみろ。それができれば、俺は

お前を次のカポとして認めてやる。

 
 身の内で凝る苛立ちと怒りを、ため息とともに吐き出して。目裏に焼き付いた

鮮やかな金色を振り払い、ルキーノは自分の独房に戻るべく立ち上がった。