Mescolare
――ジャン……ジャン……
たとえようもなく優しい声が俺を呼ぶ。やわらかくて甘い、心地よい声。いつまででも
聞いていたいような、世界で一番安らぐ声。……ん? あれ、なんか違う。いつもより
高いというか……若い?
――ジャン……起きて……ジャン
遠かった呼びかけが、どんどん近づいてクリアになっていく。傍らに感じる、人の気配。
肩にかかった大きな手が俺を揺さぶり、目覚めを促す。
「ジャン、起きろ」
「んあ、あ」
突然真っ白な光がはじけて、俺の前に見慣れた光景が映る。
落ち着いた色合いの内装と、渋みのあるアンティークの家具。その中で異彩を
放つのは、大蛇のように床でうねる電線の束。ああ、俺またベルナルドの仕事場で
寝こけちまったのか。何度目だよもう。
「お目覚めかい、ハニー」
「ええ、おはようダーリ――」
ごしごしと眦を擦りながらソファから身を起こした俺は、見上げた先にある顔に声を
失った。
「えーと、……誰?」
たっぷり十数秒ほど固まった後、呻くように尋ねる。
いや、本能では誰だかわかってるんだ。でも頭と心がすぐには追いつかない。違う。
追いつけないんだ、この展開に。
「ん? まだ寝ぼけてるのかい」
しょうがない奴だな、と。眼鏡の奥の瞳がふわりと柔らかくゆるむ。それは、俺の
よく知る優しい笑顔で。やっぱり間違いない。こいつは――
「ベ、べルナルド?」
そうだ。この電話のお城の王様。でもその姿は、俺がいつも見ているのと違う。
だって髪が、あの手入れのいきとどいた艶やかな長い髪がないんだ。肩口の
あたりからばっさりと消えちまってる。それだけじゃない。
「どうした、ジャン。どこか具合が悪いのか」
心配そうに俺を覗き込む顔はたしかにベルナルドのものだけど、でも同じじゃない。
短くなった髪に縁取られたそれは見慣れたものよりも幾分幼くて、俺とはじめて
出会ったころか、下手するとそれよりも若く見える。
「二代目襲名の準備で最近忙しかったからな……もしかして疲れたのかい?
だったら、この後の予定は全部キャンセルさせるよ」
大事なボスに倒れられては困るから、と。蕩けそうな甘い声でベルナルドの顔をした
男が囁く。労るように頬を撫でる手も、注がれるまなざしも、すべてが夢のように
心地よくて。そのまま全部委ねてしまいたい衝動をなんとか堪えて、俺は少しばかり
上擦った口調で訊ねた。
「あ、あのさ、変なこと聞くけど――いま、何歳?」
「は? なんだい、藪から棒に」
脈絡のない質問に数度目を瞬いてベルナルド(たぶん)が首を傾げる。自分でも
おかしなことを聞いてるとは思う。けど今は何よりも大事なことなんだよ。俺の鬼気
迫る様子に何かを感じ取ったのか、瞳に困惑の色を浮かべつつもベルナルドは
ぼそりと呟いた。
「……もうすぐ23になるけど、それがどうかしたのか」
うん、どうかしてます。だって俺の知ってるベルナルドは三十路越えのおじさんで、
前髪と胃袋がピンチでへたれ眼鏡で、でもすっげー努力家で頼れる男前なんだよ。
23っつったら俺より年下じゃねーか。どうなってんだよチクショウ。エイプリルフール
ならとっくに過ぎてんだよ笑えない冗談はよせって!
「ジャン? 本当にどこか悪いのか? お前、真っ青だぞ」
ぎょっと目を瞠ったベルナルドが更に身を屈めて、虚けた俺を引き寄せる。
あ、なんかすごく焦ってんな。そんなに慌てるほど顔色悪いのか俺。自分じゃよく
わかんないけど。
「熱は……ないな。けど念の為、看てもらったほうが――」
恐いくらい真剣な表情で案じるベルナルドの言葉を、ふいに響いた耳障りな音が
遮った。
「おいっクソガキッ! いるんだろう」
無駄にでかい怒号と、威嚇するような重い靴音。高級ホテルにそぐわないそれが、
この部屋めざしてどんどん近づいてくる。なんだ、カチコミか?
「……チッ、あの半端者が」
心底疎ましいとった苦い表情でベルナルドが舌打ちし、扉のほうを睨む。
それで俺にもわかっちまった。この煩い声の主が誰なのか。つうか、こんな下品
きわまりない罵倒語を連発して歩くのなんて、あのバカしかいないよな。
壊れたレコードみたいに聞こえていた騒音が部屋の前で一瞬だけ止み、すぐに
三乗になる。あー、外にいるベルナルドの護衛と揉めてんのか。そりゃ止めるよ普通。
……なんて俺が思った途端、かなり重量がある筈の扉が吹っ飛ぶような勢いで開いた。
「次席の俺がわざわざ足を運んでやったんだッ! 出迎えぐらいしやがれこの
クソ眼鏡ッ!」
「……これはこれは、何の用ですか。ドン・フィオーレ」
すっ、と俺を庇うように背に隠したベルナルドが侵入者を冷ややかに睥睨する。
取り縋る兵隊ふたりを強引に振り払い、獣じみた怒声を発しながら入ってきた
男は、やっぱりというか当然というか――イヴァンだった。
(2009/7/27)