Ouroboros
ようやく辿りついた廃墟で、男たちに犯される彼を見つけた時。ジュリオの中で、
何かが音を立てて崩れた。
ずぶり、と。
自らの胸を貫いた刃を、信じられぬ面持ちで老人は見つめた。
「ジ、ジュリオ……」
こみ上げる鮮血とともに嗄れた声が青年を呼ぶ。
以前はこの声を聞くたび、雷に打たれように体が竦み何も考えられなくなった。
自分よりはるかに弱く、すこし力を込めて殴れば簡単に吹き飛ばすことが
できるのに、しかし老人が振り下ろす杖をただ黙って受け止めるしかなかった。
逃れることなど、まして振り払うことなど絶対出来ないと、頑なにそう思い込んで
いたのだ。
けれど今は欠片も恐怖を感じない。いや、違う。そうじゃない。感じるのは畏れ
ではなく、燃え盛るような怒りだ。最も大切な存在を傷つけられたことに対する、
激しい憎悪。血の繋がりなどなんの枷にもならぬほど荒れ狂う憤怒の炎が
ジュリオを突き動かす。
「なぜ、ファミーリアを裏切ったのですか」
自分でも驚くほど冷たい声が唇から溢れる。
あれほど恩恵を受けていたにもかかわらず何故カポ・アレッサンドロを、CR:5を
裏切ったのか。それさえなければ、ベルナルドが死ぬこともジャンがああなることも
なかったのに。
そう詰る孫を、しかし老人は悔いるどころか醜く顔を歪めて怒鳴りつけた。
「お前にっ、何がわかるッ! 忌々しいデル・サルトの血筋の者を、カポと
呼ばねばならぬ屈辱を……このボンドーネが、あれの下……に、つくなどッ」
「わかりません。俺にとって一番大事なのはボンドーネ家ではなく、
カポ・ジャンカルロです」
きれぎれに紡がれる怨嗟の言葉をぴしゃりと遮り、ジュリオは老人を睥睨する。
これはもう祖父ではない。唾棄すべき裏切り者。そしてベルナルドの仇で、
ジャンの敵だ。彼に仇なす者は排除しなければならない。絶対に。
「さよなら。ドン・ボンドーネ」
ひそやかな囁きとともに白刃が空を一閃する。その後を追うように老人の首筋
から血飛沫が舞い、巨体が床に崩れ落ちた。
足下に倒れた死体から強烈な血臭が漂い、溢れ出す鮮血が絨毯を紅く染めて
ゆく。かつては他の何よりも性的興奮を覚えたそれをさめた眼で一瞥すると
ジュリオはすぐさま踵を返した。仕事を遂行した以上ここに用ない。後の処理は
部下たちがやる。
はやく彼のもとに戻らなくては。そう思った瞬間にはもう、たったいま自分が
作りだした死体のことなどジュリオの中から綺麗に消え去ってしまった。
「ご苦労だった」
報告に戻ったジュリオを、どこか疲れたような表情でルキーノが労う。
新しい幹部筆頭になってから凡そ一年、傍目にもわかるほど彼は痩せた。
ボスの代替わり、裏切り者の粛正、そしてGDとの抗争。問題は山積みでろくに
寝る間もないのだろう。だが今日は別だ。最期まで残っていた厄介な裏切り者を、
ようやく始末することができたのだから。
「すまないな……お前に辛い役回りをさせて」
いつもは自信に溢れ人を威圧する深紅のまなざしが、今は消えかけた蝋燭の
火のように頼りない。仕方がないこととはいえ、ジュリオに実の祖父殺しを任せた
ことに幾ばくかの罪悪感を覚えているのだろう。組織にとっては許すことの
できない背信者だが、彼にとっては唯一の肉親だ。掟とはいえ惨いことを強いて
しまった、と。
ルキーノの悔いの滲んだ言葉に、ジュリオは無言で頭をふった。
「あれは……ファミーリアの敵で、ベルナルドの仇だ」
だから、生かしておくわけにはいかない。
冷ややかに言い切るその声音には、どんな感情も窺えない。いや、本当に
なにも感じていないのだろう。以前は微かにあった情も、ドン・ボンドーネ自身の
裏切りによって粉々に砕けてしまった。いまのジュリオに残っているのは、彼が
心酔する青年への狂おしいまでの執着と忠誠心のみ。そこに他の者が入る
余地はない。
様々なものを躊躇なく切り捨て、人形じみた美貌に益々拍車がかかるジュリオを
複雑な思いで見つめたまま、ルキーノはふっとため息をついた。
「……そうだ、な。これでやっとGDとの戦いに本腰で臨める」
自分に言い聞かせるようにルキーノがつぶやけば、ジュリオもこくりと頷く。
身内の膿は出し切った。あとは本当の敵を一人残らず排除、殲滅するだけだ。
このデイバンの砂粒ひとつたりとも彼奴等にくれてやるわけにはいかない。
不意に騒がしい靴音がして、勢いよく執務室の扉が開く。現れた男はジュリオを
見つけると、みるみるうちに顔を強ばらせた。
「イヴァン……ジャンはどうした」
ひとり戻ってきた彼をルキーノが目敏く咎める。
姿が見えなくなったジャンを探させに出したのに、なぜ手ぶらで帰ってきたのか。
そう問いかける視線から気まずげに眼を逸らしてイヴァンはぼそりと呟いた。
「奥庭の……アイツのとこだ」
返ってきた言葉にジュリオの眉が微かに歪み、ルキーノの喉が乾いた音を
たてる。暫しの沈黙の後、諦念の色が滲んだ吐息をひとつついてルキーノは
ゆるく首を振った。
「目を離すなと言っただろう」
「っ、役員の爺さま達との会合では普通だったんだよッ! けど俺が見送りに
少し席を外した途端、フラフラと外に抜け出して……兵隊たちも止められなくて」
拗ねたような反論の声が不意に途切れ、口ごもる。
いつもはふてぶてしい態度で周囲を威嚇するイヴァンが珍しく素の、年若い
青年らしい表情をのぞかせる。戸惑いと、諦めと、憤りと。複雑に絡み合った
感情を持て余して揺れる薄青の双眸が、ほんの少し潤んで瞬いた。
「連れ戻そうとすると、泣いて嫌がるんだ。……あ、あんなの」
――どうしていいか、わかんねぇ。
心底困り果てたような、彼らしくない弱音にルキーノが小さく唸る。自分たちは
もちろんだが、イヴァンも今のジャンに対しては腫れ物にさわる扱いで、以前の
ように強く出ることなどできるはずもない。まして彼は最年少だ。壊れてしまった
ジャンを受け入れるには心が若すぎるし、仕方ないと割り切るには情が深すぎる。
ジュリオほど狂信的ではないにせよ、イヴァンもまたジャンと出会ったことで
変わりはじめていたのだから。
手を伸ばしかけた光は、突然消えてしまった。裏切りよりももっと酷く救いようの
ない形で。粗野な見た目とは裏腹に、繊細な部分を隠し持つイヴァンがそれを
認めるにはまだ長い時間が必要だろう。
仕事で手が離せないジュリオの代わりに、とジャンの側に居させたのは間違い
だったのかもしれない。懊悩するルキーノの視界をふと黒い影が過ぎった。
「ジュリオ?」
「日が翳ってきた……ジャンさんを、迎えにいく」
それだけ言い捨ててジュリオは振り向きもせず扉へと向かう。びくりと体を
強張らせるイヴァンの横を、まるで彼などはじめから見えていないように通り
過ぎ、静かに部屋を出ていった。
残された幹部ふたりに砂を噛むような虚しさと苦さを残して。
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