Ouroboros 3
さり、さり、と足下で枯れ葉が微かな音を立てる。
秋から冬に移り変わろうとする小径を、降り積もる赤と金の落ち葉が埋め尽くす。
色鮮やかな絨毯のごときそれを踏みしめながら、ジュリオは迷いのない足取りで
本部の裏に作られた広大な庭園を突っ切って奥へと進んだ。唯一無二の主が
待つ聖域へと。
最先端の流行を取り入れた庭の端にひっそりと佇む、小さな森。隅々まで濃い
緑に覆われているため一見するとわかりづらいが、その中央には煉瓦の壁で
囲まれた特別な庭がある。CR:5のなかでも幹部のみが入ることのできるそこは、
色とりどりの花が年中咲き誇る墓地でもあった。
既にジュリオの姿をみとめていたらしく、森番の男が聳え立つ門の鍵を開けて
恭しく跪く。その前を無言で素通りし、塵一つないほど掃き清められた石畳の道の
果てに、漸く目当てのものを見つけたジュリオは自然と顔を綻ばせた。
花の垣根の先にある、ぽっかりと空いた庭の中央。まだ真新しく荘厳な墓碑の
前に、彼はいた。ジュリオの主は体を丸めて蹲り、静かに目を閉じている。母親に
甘える幼子の如く寄り添う姿は、穏やかに眠っているようにも縋りついて泣いている
ようにも見えた。
「ジャン、さん」
そっと呼びかけると長い睫がぴくりと痙攣り、ゆっくりと黄金の瞳が開く。硝子玉の
ように透明なそれがぼんやりと宙をさ迷い、やがてジュリオの上で止まった。
瞬きもせず、ただじっと見つめる二粒の貴石。かつては太陽のようにジュリオを
魅了したそれに、以前の誰もが心奪われる鮮やかな輝きはない。ベルナルドの
死とともに永久に失われてしまった。
それでも、世界でもっとも尊く美しいとジュリオは思う。たとえその中に自分が映って
いなくても。
「今日、やっと……すべて、終わりました」
ジャンの傍らに膝をつき、ジュリオは静かに語りかける。見上げる金の双眸は
凪いだ海のように澄んでいるけれど、相変わらず何も見てはいない。誰も映さない。
魂が現身から離れ、ここではない何処かへと漂い出てしまっているから。こうなった
ジャンにいくら話しかけても無駄だ。どんなに言葉を尽くしても、話すことの半分も
理解できはしないだろう。
だがジュリオはまったく態度を変えず、いつものように語りかける。ルキーノや
イヴァンはこちらのジャンを見るに耐えないと厭うが、本当に愚かだと思う。
どんな姿だろうと、永遠に喪うことに比べれば生きているだけで充分ではないか。
ジャンが正気か壊れているかなど、自分にとっていたした意味はない。彼がジュリオの
崇拝する主人であることにかわりはないのだから。
「今日殺した、ドン・ボンドーネが裏切り者の黒幕でした。カポ・アレッサンドロをGDに
売り……あなたと、ベルナルドを陥れたのも、彼です」
自身にとっても辛い真実を、しかし包み隠さずジュリオは告白する。
祖父とその一派がGDに情報を漏洩し続けたせいでCR:5は窮地に追い込まれ、
ベルナルドは命を落とした。そしてジャンは――GDのけだもの達に長時間にわたって
輪姦された。最愛の恋人の遺体の前で、わざと見せつけるように。硬直が解けた
骸から死臭が漂いはじめてもGDの凶行は止まず、むしろその臭いにより興奮した
のか、生き餌に群がる野犬のように浅ましくジャンを貪り続けた。
ふと「あのとき」の惨状が瞼裏に蘇り、ジュリオは唇を噛みしめる。先に救出した
アレッサンドロから得た手がかりと、街中に張り巡らされた電話番たちの目撃情報を
かき集めたジュリオがアジトに乗り込んだとき、ジャンは瀕死の状態だった。
全身を血と男達の精液で汚され、絶え間なく犯され続けた身体は氷のように
冷えきっていて、とても生きているようには見えなくて。震える手で抱き寄せても
まったく反応を示さない彼に、ジュリオは心臓をナイフで貫かれたような激痛と恐怖を
覚えた。両親を失ったときよりもはるかに強烈な畏れを。
幼い頃から焦がれ続けた希望の光が、失われてしまう。仮令その瞳に映るのが
他の男でもいい、側にいられるだけで幸せだと、そう思っていたのに。自分がほんの
僅かな妬心と疑念に揺らいだせいで、今にもこの掌からすり抜けて消えようと
している。ただ一度の過ちの為に。
喪失の痛みに戦くジュリオの前で、うっすらと開いた血の気のない唇から、本当に
小さな吐息が漏れた瞬間。泣きたくなるような安堵が体中に広がり、それまで石の
ように強ばっていた四肢から力が抜けた。
よかった。ジャンさんは、まだ息がある。俺を置いていったりしない。生まれて
はじめてジュリオは神に感謝した。物言わぬ死体よりも、生きていることのほうが
嬉しい。そう思ったのもはじめてだった。あと少しジュリオが助け出すのが遅れて
いたら、ジャンもベルナルドの後を追っていただろう。
あの絶望と恐怖を思い出すたび、体中の血が沸騰するような怒りと心が凍てつく
ような感覚が複雑に絡み合い、ジュリオを冥い復讐へと駆り立てる。ジャンを
陥れた人間はけして許さない。この手で全員殺してやる。たとえそれが血の繋がった
肉親であっても。かつてないほど膨れ上がった負の感情は、それまでジュリオを
戒めていたボンドーネの呪縛すら引き千切り、屍体しか愛せないはずの狂犬を
獰猛な一匹の狗へと変えた。ジャンカルロのみに服従し隷属し、白刃の牙をもって
彼の敵を屠る猟犬へと。
胸内で渦巻く衝動のままナイフを振るう度、ひとつまたひとつとジュリオの中から
様々なものが零れ落ちてゆく。けれど不思議なことに、それを惜しむ気持ちは
沸かない。寧ろそうやって余計なものを切り捨てることで、よりジャンに近づいている
という歓喜がジュリオを甘く満たす。
もっと、もっと彼の側にいきたい。けれど、その為には沢山の血の贖いが必要だ。
GDと裏切り者たちの死でジャンに刻まれた傷口を濯がなければならない。他の誰で
もなく、ジュリオ自身の手で。きっとジャンさんもそれを望んでいるはず。狂いはじめた
思考は、敵対勢力への血の報復という大義名分を得て更に加速していった。
もはやジュリオを止められる者はいない。筆頭幹部殺害と次期カポの殺害未遂
という事実がある以上、捕らえた敵をどれほど惨たらしく切り刻もうが、それは正当な
報復と見なされる。次々に築かれていく死体の山に眉を顰める者がいたとしても、
今のジュリオを表立って批判などできようはずがない。他の幹部達と新しいカポが
彼の行為を容認しているのだ。下手に騒ぎ立ててカポ・レジームの不興を買えば、
今度は自分達が粛正の対象になりかねない。
組織内の柵から解き放たれ、復讐の執行者となったジュリオは以前にも増して
残酷に、そして容赦なく敵を殲滅した。もちろんその最初の獲物はジャンを汚した
者たちだ。直接犯行に及んだGDの連中は一人も逃さず、その場で肉塊へと変えた。
元凶であるデイヴィット・オーウェンは、ベルナルドが残したGDへの造反行為の
証拠と引き替えにイーサンから身柄を譲り受け、新築したCR:5本部に設えた地下牢で
処刑した。幹部全員で、ありとあらゆる拷問の果てに。
当然ながら一番熱心だったのはジュリオだ。少しでも苦しみが長引くよう持てる
技術のすべてを駆使して切り刻み、傷口を焼き、骨を砕き、肉を削いだ。ジャンが
味わった恥辱と苦しみを、少しでも思い知らせるために。死にそうになれば待機
させていた医者に手当をさせ、責め苦に耐えられる程度に回復すれば新たな拷問を
科す。最新の注意を払って行われたそれは、実に3ヶ月以上続いた。
自らの命が潰える瞬間、あの男は何を思ったのだろう。絶望か、後悔か、それとも
死の恐怖か。僅かでもベルナルドへの謝罪の念はあっただろうか。浅ましい命乞いや
薄っぺらい反省の言葉など聞きたくなくて、此処へ連行した当日に舌を切り落として
しまったから、ジュリオがそれを知ることはできなかったけれど。
「あなたを汚し苦しめたものは、みんな俺が殺しました。もう誰も、指一本
触れさせません。だから、もう……泣かないで、ください」
――あなたは、俺が守りますから。
木漏れ日をはじいて煌めく金髪にそっと触れながらジュリオはささやくように懇願する。
一ヶ月にも及ぶ昏睡から目覚めた後、ジャンは変わった。拷問にもひとしい
陵辱とベルナルドの無惨な死が、彼の心を砕いてしまった。残されたジュリオや
イヴァン、ルキーノが必死に欠片を拾い集めて繋げたけれど、その中心はいまも
失われたままで。どれだけ手を尽くしても、もう二度と元に戻ることはない。
幹部以外の誰かが側にいるときは辛うじて正気を保っているが、ひとりにすれば
忽ち心の弦がゆるんで屋敷中をさまよい、最後はここに辿りつく。ベルナルドが
眠るこの場所に。
魂に癒えることのない傷を負い、ほとんど喋ることもなく、虚ろな瞳に光が宿る
こともないが、それでも最愛の男が何処にいるのかは本能でわかるらしい。
ジュリオが迎えにこなければ日がな一日、飲食すら忘れて墓の前に座っている。
いとけない幼子のように泣き腫らした目で、ただベルナルドだけを見つめて。
「俺が、ずっとずっと、あなたの側に、います」
今もまた眦を潤ませるジャンの米神に唇を寄せ、音もなく溢れる滴をジュリオは
ひとつひとつ丁寧に舐めとる。舌をころがるそれは不思議と甘く、どんなドルチェ
よりも美味しい。もっと舐めたい。でもジャンさんが悲しむのは嫌だ。どうか泣き
やんでほしい。相反する感情が鬩ぎ合い、ジュリオの理性を攫う。
「あなたを、愛しています……『ハニー』」
荒れ狂う激情のまま、ジャンを強く強く抱き締めて。かつて此処に眠る男が
彼にむけて何度も囁いた言葉を、ぎこちなく口にのせる。
絞り出した声は無様なほど固く強張っていて、我ながらちっとも似てないと思う。
ベルナルドは、あの男はいつも蕩けるような甘い声でジャンに囁いて彼から笑顔を
引き出し、独り占めしていた。ただ見ているだけしかできないジュリオが嫉妬で
胸焦がすほど、眩しく輝く笑みを。
お世辞にも似ているとは言い難いはずなのに、それでも「ハニー」という呼びかけに
反応したのか、ジャンの細い肩が大きく揺れる。しっとりと濡れた蜂蜜色の瞳に
微かな輝きが灯り、そして。薄くひらいた唇が戦慄き、ひとつの名前がこぼれた。
――ベルナルド
息づまるほどの愛しさを滲ませてジャンがその名を呟く。もう何処にもいない男を
ジュリオに重ね、縋るように両手を差し伸べる。痩せ細った腕をジュリオの首に
絡ませて引き寄せると、ジャンの紅く色づいた口唇が押しつけられた。
「ん、……ふ」
するりと忍び込んできた柔らかな舌にジュリオもおそるおそる自分のそれを
絡める。その控え目な動きがもどかしく感じるのか、ジャンは噛みつくように
ジュリオの唇を塞ぎ、熱い舌先が歯列や口蓋を這う。感じるところを探るように、
ねっとりと。
「あ……ジャン……さ、ん」
ストロベリーアイスよりも甘く情熱的なキスがジュリオの理性をとろとろと
溶かしていく。このまま此処で押し倒してしまいたい。温かなジャンの中に押し
入って、やわらかな肉を思う存分擦って、自分の証でいっぱいにしたい。この人が
いますぐ欲しい。
迫り上がる衝動をギリギリで堪えて、ジュリオは残惜しげに唇を離す。だめだ。
ここにはあの男がいる。
「……?」
「もう、暗くなります。……部屋に、戻りましょう」
不満そうに小さく唸るジャンにそう言い含めると、細い体を抱きかかえて立ち
上がる。イヴァンには抵抗してみせた彼も今度は嫌がらず、おとなしくジュリオに
身を任せた。どこか楽しげに、くすくすと喉を鳴らして。
羽根のように軽くなった体を大切に抱えてジュリオは薄闇が迫りはじめた歩道を
引き返す。目を凝らしても足の先が見えないほど暗いが、人並み外れた感覚を
持つジュリオにとって闇はなんの障害にもならない。それに、この庭の造りは
既に体が覚えている。今更迷うことはない。
刻一刻と深まる暗闇の先に、ぼうっとオレンジ色の光が揺れている。よく見れば、
さきほどの森番の男が洋燈で入口を照らしてジュリオを待っていた。
ジャンを抱き抱えた姿を認めると、皺の刻まれた厳つい顔がほっとしたように
弛む。墓守が主な仕事といえ、彼は庭の管理も任されている。この中で、もし
ジャンの身になにかあればそれはすべて彼の咎になってしまうのだ。敬服すべき
主人ではあるが、正気でないときのジャンは危うすぎて手に余る。ジュリオが
連れ戻しにきてくれて良かったと、窪んだ目が口ほどに語っていた。
いつものように門を通りすぎようとした瞬間、ちりと項に微かな違和感を感じて
立ち止まる。ふと、誰かに呼ばれたような気がしてジュリオは振り返った。
「ドン・ボンドーネ?」
急に背後を顧みたジュリオを訝しんで、森番の男が声をかける。
なにか不手際があったのか。だとすれば、どんな罰を受けるのか。そんな怯えの
にじむ声も聞こえていない素振りでジュリオは真っ直ぐに暗闇を誰何する。
高い木立の奥、夜空と森の境目すらわからぬほどの漆黒の中に人影が浮かぶ。
冷静に考えればあり得ないことだ。此処に入れるのは幹部だけで、その内
ルキーノとイヴァンは屋敷にいる。それに人工的な明かりがひとつもない闇の中
では影の識別などつけようがない。
それでもジュリオにはたしかに見えた。それが誰なのかも。
生前とかわらぬ姿でベルナルドが立っていた。物言いたげな眼差しでジュリオを
――腕の中のジャンを、じっと見つめている。その唇が、微かに動いた。
――ジャン
まるで耳元で囁かれたようにはっきりとベルナルドの声が響く。生々しいその声音も、
夜の闇にまざまざと浮かぶ姿も、とても幻には見えなくて。ジャンの狂おしく求める
心が彼を黄泉路から呼び戻したのだろうか。それとも、嘆き悲しむ恋人を連れて
ゆく為に墓から這い出てきたのか。
じわり、とジュリオの胸を冷たいものがひとすじ流れ落ちる。
嫌だ。ジャンさんは渡さない。ベルナルドはずるい。ジュリオ欲しくて仕方がなかった
彼の心を持って逝ったのに、今度は体までも奪おうとするなんて、そんなことは
許せない。
つかのま驚愕で冷えた感情は瞬時に激しい炎となって噴火した。
――消えろ。あんたはもういらない。
敵に向けるよりもなお強い殺意を込めてジュリオは強く念じる。
心は、いい。それは前からベルナルドのものだったから。けれど、これ以上あんたには
何一つ渡さない。
ジュリオの強い叫びに薙払われるように、ベルナルドの幻がゆっくりと闇に溶けて
消えた。
「あの、なにか……?」
虚空を睨みつけたまま立ち尽くすジュリオに、おどおどとした野太い声がかけられる。
自分でも気づかぬうちに随分と闇を睨んだまま立ちつくしていたらしい。まるで
溺れかけた鼠のように叱責を畏れて真っ青な顔で見上げる男になんでもないと首を振り、
ジュリオは身を翻して歩き出した。
指の先が白くなるほどジャンの肩を強くかき抱いて。
先ほどのの出来事が現実なのか、それとも自分の罪の意識が生み出した幻なのか、
それはジュリオにもわからない。だがどちらであっても、いま腕の中にいる存在を手放す
気はない。最後の瞬間まで共にあると、あの時そう決めたのだから。
――たとえジャンが、それを望んでいなくても。
(09/10/05)