雫
――油断した。
そう感じたときにはもう、鈍色の刃が脇腹に深々と食い込んでいた。
「ボンドーネの恨み、思い知ったかッ!」
嗄れた怨嗟の声が蹌踉めいた身体に容赦なく降り注ぐ。我が身を貫いた痛みに
つかのま意識をとられていたジャンは、ボンドーネの名に反応して眉を吊り上げた。
血染めのナイフを握りしめて震える老人に見覚えはない。だが家名をわざわざ
名乗るからには、その血に連なる者なのだろう。ほぼ根絶やしにしたと思っていたが、
どうやら甘かったようだ。まだ復讐なんて行動を起こせる人間が残っていたとは。
仇敵であるジャン――CR:5のボスが慈善活動の一環として教会に現れるこの日を、
虎視眈々と狙っていたということか。因果は巡るものだな、と自嘲した彼の笑みを
自らへの侮蔑と取ったのだろう、窪んだ目が一瞬で憤怒に染まった。
「貴様のような卑しい野良犬のせいで、代々続いた栄光ある我が家は、愛する我が
ボンドーネは……!」
激昂した老人が再びナイフを振りあげる。けれどその刃が肉に食い込む前に、
カポを守ろうとする無数の銃口が火を噴いた。
「ぐっ……は」
老いた男の全身を幾つもの弾丸が貫く。文字通り蜂の巣になった老人は、
血走った目でジャンを睨んだまま後ろに倒れた。
「……ッ、ジャンッ!」
悲鳴と銃声が飛び交う中、自分を呼ぶ声が聞こえる。かすかに首を傾げると、
逃げ惑う人々をかき分けて駆け寄ってくる男の姿がはっきりと見えた。
「ジャンッ、しっかりしろ! いま医者がくるからっ」
真っ青な顔をしたベルナルドが崩れ落ちたジャンの体を抱き上げる。
噴き零れる血で服が汚れるのもかまわず、大きな手で傷を押さえながら彼は
必死に呼びかけた。
「大丈夫だ、こんなのたいしたことない。お前はラッキードッグだ。こんなことで、
死んだりしないっ! 絶対助かる、助かるから……ッ」
嗚咽まじりの言葉はジャンを励ますというより、むしろベルナルド自身に言い
聞かせているようで。泣くなよ、と笑おうとして、ふいに喉をせり上がった血に噎せて
ジャンは激しく咳きこんだ。
「ジャンっ!」
悲痛な叫び声が耳をうつ。彼を哀しませたくない。けれど、それに応えるだけの
気力はもう残ってはいなかった。
――ごめん、ベルナルド
震える唇で、ただそれだけを紡いで。ジャンはゆっくりと意識を手放した。
気がつけば、暗く果てのない闇に包まれていた。
いつここに来たのか、どれほどここにいるのか。なにもわからない。標になるものが、
ここには何もない。あるのは、どこまでも続く暗闇だけ。
「……地獄って案外静かなもんだな」
自分の手足すらよく見えない黒の深淵の中で、ジャンはひとりごちる。
まだ幼かった頃、悪さをする度に『そんな子は地獄の悪魔が攫いに来る』と
叱られた。シスターたちに散々怖いところだと脅されたけれど、人を食らう悪魔も
いなければ炎獄の火柱も見あたらない。罪深き亡者の群さえも。
――ここにくれば、彼に会えると思ったのに。
落胆がジャンの胸をひそやかに満たす。あの終わりは予定外ではあったが、
心のどこかで安堵していたことも事実だ。自分で降ろすことのできなかった終幕を、
復讐に燃える老人が引いてくれた。そこだけは感謝してもいい。
けれど、半ば望んで堕ちてきた地獄がこんな侘びしいところだったなんて。拍子
抜けもいいところだ。それとも、この場所に終末まで閉じ込められるのが自分に
課せられた罰だというのだろうか。
不意に闇が揺らぎ、何もない空間に淡い輝きが生まれる。咄嗟に身構えた
ジャンは、やがて光が集まり結ぶ姿を見て息を呑んだ。
「……ジュリオ」
呻くように、その名を呼ぶ。この十年、人前では――すべてを知ったうえで見守る
ベルナルドの他には――けして口に乗せなかった、最愛の恋人の名を。
あの日となにひとつ変わらぬ姿で、彼がいた。貴方がいとしくてたまらない、と
溢れんばかりの思慕を瞳にたたえてジャンを見つめている。なにもかも十年前と
同じままで。
湧き上がる激情に突き動かされるまま、おもわず駆け寄ろうとして。けれど縫い
止められたように微動だにしない自分の体にジャンは愕然とする。何故だ。目の前に
ジュリオがいるのに、なぜ近づけない?
「ジュリオッ!」
僅かに自由になる左手を彼に向けて必死に伸ばす。藻掻くように掲げられた
ジャンの手に、しかしジュリオは応えようとせず、ただ寂しげに微笑むばかりで。
そうこうするうちに、彼の輪郭が次第にぼんやりと曖昧になってゆく。
「っ、駄目だッ! いくなっ、ジュリオ!」
いいようのない恐怖と焦燥にかられてジャンは叫ぶ。
ジュリオが、消えてしまう。呪うように幾度も繰り返し夢見て、漸く再会できたのに。
なのに触れることもできないまま彼が行ってしまう。そんなのは嫌だ。
半狂乱になって叫び続けるジャンの前で、少しずつジュリオの姿が闇に溶け
はじめる。こんなにも強く願っているのに、どうして側にいけないのか。なぜまた
自分を置いていく。やっと会えたのに、どうして。いくら身を捩っても一歩も動けない
己の身体に絶望しながら、それでもジャンは抗い続ける。もう一度ジュリオを抱き
締めるために。
幾重にも巻きついた見えない鎖がギシギシと軋み、身を縛る戒めに綻びが
生まれる。あとすこしと、そう思った瞬間ジャンの足下が突然崩れ落ちた。
「――ッ!」
一瞬の浮遊感のあと、無造作に投げ出された体は急速に奈落の底へと沈んで
ゆく。縋るもののなにひとつない闇の中では、どれほど足掻いても落下をくい止める
ことはできない。瞬く間に遠ざかるジュリオに手を伸ばしてみても、やはり彼には
届かなくて。胸を押し潰す絶望にとうとうジャンは耐えきれず、ゆっくりと瞼を閉じる。
もう無理だ。もうどんな力も残っていない。
そう諦めかけた刹那、誰かがジャンの手を掴んだ。
「……あ」
『ジャン、いくな』
耳元で聞こえた声に驚いて目をあける。けれどいくら見回してみても、誰もいない。
いつの間にかジュリオも消えていた。ジャンひとりだけを残して。
先ほど聞こえたのは幻聴だったのだろうか。落胆し、再び力を失いかけたジャンを
今度は見えない手が強く抱きしめた。
『目を覚ましてくれ、ジャン。お前は俺の命なんだ』
慈しみに溢れた囁きが胸に染みこんで、冷えきった体にぬくもりを吹き込む。
誰だろう、この人は。懐かしくて、優しくて、愛しい声。自分はこの声の主を知って
いる。ああけれど、思い出してしまったら、俺はもう――
『愛してる……ずっとずっと前から、お前だけを。お前は俺のすべてだ。だから、
おいて逝かないでくれ――ジャン』
魂から迸るその叫びが雷鳴のように響き、ジャンの周囲にあった闇を一閃する。
眩いほどの光に包まれ気が遠くなる寸前、ジャンはたしかに自分を抱き締める男の
姿を見た。
冬に克つ春の色をたたえた、その美しい双眸を。
「あ……」
痛みを感じるほどの光が弾けて世界が白で満たされる。
あまりのまぶしさに何度も瞬いて。瞼に突き刺さるような光に慣れたころ、ようやく
ジャンは目を開けた。
見覚えのない乳白色の天井。微かに鼻をつく消毒液の刺激臭。そして体中に
つけられた管と、規則的に響く機械音。ひとつひとつ脳に届く情報が、此処は病室だと
ジャンにつたえる。そして彼が命取り留めたことも。
まだ生きているのか、自分は。さすがに運も尽きたと思ったのに、あれでも死ねない
なんて。我ながら呆れるほど生きづよい奴だ。おもわず笑いがこみ上げて、その途端
脇腹に走った痛みにジャンは低く呻いた。
「うっ……」
激痛が意識を曇らせていた靄を薙ぎ払い、その拍子に動いた指がなにかを
握りしめる。わずかに感覚が残る掌からつたわる感触を不審に思ったジャンは、
少しだけ首を動かした。
「……ッ」
喉の奥が奇妙な音をたてて凍りつく。
指に触れるあたたかな温もり。それはベルナルドの大きな掌だった。ジャンの手を
しっかりと握ったまま、彼はベッドに俯せになって眠っている。ずっと付き添って
看病していたのだろうか、目の下にはうっすらと隈が浮かび、端正な顔には濃い
疲労の影が滲んでいた。眦には僅かに涙の跡も。
「……ジャン……いく、な」
不意にちいさな呟きがベルナルドの唇から零れ、眼鏡の奥の閉じられた瞼が
ぴくりと震える。ぎゅっと握る力の増したベルナルドの左手に、自分を呼ぶ寝言に、
ジャンの胸内に熱いものがじわりとひろがった。
あの暗闇の中で、自分に差し伸べられた手。つきることのない闇の底に落ちかけた
ジャンを引き上げたのは、彼だったのか。ベルナルドが自分を死の淵から引き戻して
くれたのだ。組織も幹部筆頭という立場も、なにもかも擲って。
こみあげる激しい感情がジャンの心を攫う。
どうして。どうしてベルナルドはここまで優しくしてくれるのだろう。昔から彼はそうだ。
一定の距離を測りながらも、いつだってジャンを気遣っていた。準構成員ですらない、
ただの使い走りだったガキの頃からずっと。それが不思議で少しくすぐったくて、
でも嫌じゃなかった。戸惑いはあっても、けして嫌だと思ったことはなかった。なぜ
そこまで良くしてくれるのか、わからないだけで。
「……ちがう」
本当は、もうわかってる。すべてを切り捨てても尽くし続ける彼の思いが友情では
なく、愛情であることも。ベルナルドが作り出していた壁はいつの間にか消え去り、
逆に自分のほうが殻に籠もって拒絶していただけなのだと。
気づきたくなかった。気づかなければよかった。けれど、もう駄目だ。もう自分を
誤魔化せない。己の中にジュリオ以外の存在がたしかに在ることを。頑なに
閉じていた心に綻びが生まれ、もはや無視できぬほど大きく占めていることに。
疲れ切って眠るベルナルドの手を、ジャンはそっと握り返す。ああ、やはり
間違いない。暗闇の中で抱き締めてくれたのは彼だ。
いつでも自分を支え導いてくれる、唯一のもの。この手にすべてを委ねて
しまえたら、どんなにいいだろう。きっとベルナルドなら何もかも受け入れてくれる。
ジャンの弱さも狡さも、全部。
それがわかっていても、やはりできない。自分はジュリオを忘れられない。
今でもふとした瞬間に、あらゆる場所に彼の面影を追ってしまう。ジャンの中から
ジュリオが消えることはたぶん一生ないだろう。そんな自分がベルナルドに応える
ことなどできるはずがない。
だから、ジャンからこの手を離さなければ。ベルナルドの幸せを願うなら一刻も
早くそうするべきだ。そう理解しているのに、振り解くことの出来ない自分の脆さを
ジャンは嗤った。
血の気の失せた頬に幾筋もの涙を滴らせながら。
(09/11/11)