Punch-Drunk Love




 突然聞こえた声に、その場にいた全員が一斉に上を見た。

 ベルナルドが押しつけられていた壁――古びたホテルの

数階上にある非常階段の踊り場に、誰かいる。日を背にして

こちらを見下ろしているため、顔はわからない。でも声から

すると、たぶん男だ。それもかなり若い。

 上から降りそそぐ陽光の眩しさにベルナルドは目を眇める。

逆光になっているからと思ったが、違う。男の金髪が光を

はじいて目に痛いほどきらめいているからだ。まるで不正を

糾す裁きの雷のように。

 突き刺さる断罪の光から隠すように手で目元を覆いながら

破落戸の1人が罵声を発した。

「降りてこいっ、卑怯者!」

「4対1でリンチやるような屑に卑怯って言われてもなぁ……

ま、いいや」

 ――そっちまで行ってやるよ。

にやりと不敵に笑う気配がして、次の瞬間には踊り場から

人影が離れた――手すりの外にむかって。

「なっ――」

 驚愕する4対の視線を釘付けにしたまま、しなやかな体が

放物線を描いて地上に落ちる。猫のように優美な跳躍に

思わず見惚れたベルナルドの前で、男は見事着地をきめた。

ちょうど真下にいた青年たちを下敷きにして。

「ギャッ!」

 鶏を絞め殺した時のような絶叫が建物の狭間に響いて

谺する。人ひとり受け止めた衝撃で地面に面をめり込ませた

青年達は、そのまま白目を剥いて気絶した。

「これで2人っと! ……あとはお前だけだな」

 3階の高さから落ちてきたにもかかわらず、脚を折るどころか

擦り傷ひとつ負うこともなく男が笑って起ち上がる。振り向いた

その顔にベルナルドは更に驚いた。若いと思ったが、どう

見てもまだ幼さの残る少年ではないか。

 私刑への乱入者があきらかに自分より年若いと知った途端、

味方をなくしてビビっていた青年がにわかに勢いづいて口汚く

怒鳴った。

「テメェ、ふざけやがって……俺たちにこんなことして、ただで

すむと思ってんのかっ」

「お前こそ、よく見てものを言えよ馬鹿が」

 居丈高な破落戸の脅しを鼻で一蹴し、少年はだらしなく

着崩したシャツの胸元を見せつけるようにぐっと広げる。

そこに印された文字に、ベルナルドだけでなく私刑に

加わっていた青年も顔色をなくした。

 ――CR:5

 白くきめ細やかな肌に綴られたそれは、このデイバンを

仕切るコーサ・ノストラの名。その一員である印が少年の

鎖骨にくっきりと刻まれていた。つまりどんなに幼く見えても、

彼は血の掟で結ばれた『家族』のひとりだということになる。

準構成員ならまだしも下町の悪ガキごときが見境なく喧嘩を

売っていい相手ではない。それはデイバンに住む者なら

誰もが知っている不文律だ。

 けれど、こんな子供が印を持つことが信じられないのだろうか、

青年は口元から侮蔑の笑みを消して少年を睨みつけた。

「ありえねぇ、テメェみたいなガキがCR:5だと? 俺を騙そうっ

たってそうはいかねぇぞっ」

 ギラついた目で少年を見下ろしながら、ズボンのポケットから

取り出したナイフをちらつかせて青年が凄む。しかし対峙する

少年のほうは驚くどころか眉一つ動かしはしなかった。寧ろ

早々に武器を見せつけて脅す青年を、心底馬鹿にしたように

冷たく嘲笑する。なまじ整った顔をしているだけにその表情は

鮮烈で、それが青年の矜持に火を点けた。

「っ、この、馬鹿にしやがってッ」

 カッと頭に血の上った青年がナイフを構えて突進する。

あと一歩で刃が少年の腹に食い込む寸前、高速で飛んできた

何かが襲いかかろうとした青年を直撃した。

「痛っ!」

 突如眉間に走った激痛に青年は武器を取り落とし、もんどり

うって倒れる。みっともなく泣き呻く彼の額から、鮮やかな

血とともに小指ほどの石がぽろりと転げ落ちた。どうやら

これが凶行を防いだらしい。

 少年が怪我しなかったことにベルナルドがほっとしたのも

束の間、ふたたび頭上から鋭い叱責が降りそそいだ。

「――ジャン!」

「ゲッ、爺様……!」

 ナイフにもまったく怯まなかった少年が、階段の踊り場に

現れた老人を見て狼狽える。下にいるベルナルドたちが

あっけにとられている間に、老人とその部下らしき数人の

男たちが非常階段をもの凄い早さで駆け降りてきた。

「まったく、お前というやつは急に消えおって!」

 倒れているゴロツキの青年たちやベルナルドにも目を

くれず、一行はまっすぐ少年へ近寄る。地上に着くなり、

老人は杖を振りあげて思い切り少年を打ち据えた。

「鞄持ちがフラフラしてどうするッ、この馬鹿もんがっ」

「痛ッ、いてぇっ! ちょ、爺様ッ」

 硬い杖の先が的確に、且つ容赦なく少年を攻め立てる。

小気味よい音の連打に、まるで自分が撲たれているような

気になって身を竦ませて。それでもベルナルドはなんとか

声を絞り出した。自分を助けてくれた少年を救うために。

「ドン・カヴァッリ」

 乾いた声音で名を呼ばれ、老人がふと我に返って振り返る。

老いても底光りする小さな双眸がギョロリと動いてベルナルドを

とらえると、びっくりしたように大きく瞠った。

「……ベルナルド? おまえ、こんなところで何をしておる」

「あ……その」

 呼び止めたのはいいものの、本物のコーサ・ノストラを前に

して咄嗟に言葉が浮かばない。しかしベルナルドの惨状に

すべてを察したのか、老人は地面で転がる青年達を一瞥した

あと呆れたように吐き捨てた。

「物知らずの阿呆どもが……相手かまわず喧嘩をふっかける

とは本当に愚かじゃのう」

「な……んだと、このジジィっ」

 言葉に滲む自分たちへの蔑みに、最初に少年の落とした

鞄に潰されたリーダー格の男がよろよろと起ち上がって老人を

睨めつける。更に罵倒しようと口を開きかけた彼を、未だ

地面に伏している仲間の1人が焦った声で制止した。

「ばっ……、止めろ! ドン・カヴァッリっていったらCR:5の

筆頭幹部だぞ!」

 悲鳴のような懇願が耳に届いたのか、男がぎくりと肩を

震わせて仲間と老人を交互に見つめる。ようやく自分たちの

失態に気づいたらしいが、すこしばかり遅かった。

「目障りじゃ――こやつらを何処か適当なところに捨ててこい」

 無情な老人の命に後ろで控えていた黒服の部下達が

一斉に動き出す。あっという間もなく破落戸の青年達を1人

残らず捕らえた彼等は、主の厳命を遂行すべくその場から

姿を消した。



 老人と少年と、ぼろぼろのベルナルドだけを置いて。


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(10/02/22)