※ジュリオの両親についてかなり捏造入ってます。ご注意ください
ありがとう
流し込まれた囁きに今度こそジュリオは息をとめる。いま、彼はなんと言った?
たしかに聞こえたはずなのに、耳が捉えた情報をうまく理解できない。脳が
オーバーヒートを起こして、頭が真っ白になる。
茫然とした表情で見下ろすジュリオの視線に、それまで微笑んでいたジャンの
顔から笑みが消え、ひどく静かな声でささやいた。
「お前の父さんが、お前の母さんとの結婚を反対されていたのは知ってるな?」
少しばかり言いにくそうに、けれど確かめるような口調で彼が問う。じっと
見つめる黄金色の瞳に嘘などつけるはずもなく、暫しの逡巡のあとジュリオは
小さく頷いた。知っている。いや、教え込まれたというべきだろうか。卑しい
母親から生まれたというジュリオの罪とともに。
両親の結婚は誰にも望まれていなかった。
そのことを、ジュリオは幼い頃から何度も聞かされて育ったのだ。祖父から、
或いは底意地の悪い親戚、もしくは噂好きな使用人たちから。ボンドーネ家の
次期当主でありながら身分違いの恋に落ちた父は、祖父が用意した婚約者を
嫌って母と駆け落ちした、と。
「父親――ボンドーネの爺さんが力を持ってるこの州じゃ、役所も教会も味方に
なっちゃくれない。下手すりゃ金欲しさに売られちまう。だから、お前の父さんは
わざわざボンドーネと対立する財閥の息のかかった州まで逃げて、そこで
結婚した。お前の母さんと、すでに腹にいたお前を守るために」
すげぇよ、お前の親父は。
ジャンがもらした感嘆の言葉にどう応えてよいのかわからず、ジュリオは
そっと視線を逸らす。
祖父やボンドーネ家の者以外の口から、悪意を含まずに両親のことを
語られるのは、たぶん初めてのことで。嬉しい反面、すくなからず戸惑いを
覚える。
記憶の中にある父はとても穏やかな人で、いつも優しく微笑んでいた。
怒ったところなど一度も見たことはない。母もそうだ。ジュリオが粗相を
しても、叱るよりも先に心配するような人だった。あの父と母に、すべてを
敵に回しても想いを貫こうとする烈しさがあったなんて想像できない。
他でもないジュリオ自身が、ふたりの激情の結果だとしても。
「どうあっても息子の結婚をなかったことにできないと知ったボンドーネの
爺さんは激怒して、お前の父さんを勘当した。ボンドーネから追放された
2人は、当時そこそこ賑わっていたこの街に住み着き、やがてお前が
生まれたんだ――25年前の今日、この場所で」
淡々とジャンの口から紡がれる真実が、少しずつジュリオの胸に染み
込んで積もってゆく。
ここが曾て両親が暮らしていた――そして、自分の生まれた場所。
残念ながら懐かしいと感じるほどの記憶はひとつも残っていない。けれど、
それでも家族三人で過ごした所だと思えば、ただの廃墟も違ったものに
見えてくる。
25年前、両親はどんな思いで自分を産み落としたのだろう。誰からも
祝福されることなく、たったふたりで。未来への畏れや不安はなかったの
だろうか。そんなふうに思いを馳せていたジュリオは、ふとある疑問に
突き当たった。
何故この人が両親のことをこんなにも詳しく知っているのだろう。
俺ですら初めて聞いたのに。
「……どうして、ジャンさんがそのことを?」
おずおずとジュリオが問いかると、かすかに狼狽えたような顔でジャンが
口ごもる。バツが悪そうに金色の目を伏せ、やがて躊躇いがちに呟いた。
「あ、うん……お前の誕生日が近いって知ってから、俺に何かできることは
ないかと思って……魔法使いに頼んで調べてもらった」
マーリン
魔術師――そう呼ばれてもおかしくないほど最新の技術を駆使する男
――ベルナルドの顔がジュリオの脳裏に浮かぶ。別れ際の、あの含みの
ある笑顔はすべて承知の上だったのか。ジュリオをここへ来るように
仕向けたのも、なにもかも彼の思惑どおりなのだろう。
本当にあの男はジャンさんに甘い。どんな願いもそれが彼の望みなら、
まるで魔法のように叶えてしまう。デイバンの情報網を仕切るベルナルド
ならば、ジュリオの出生の経緯を調べるのは容易いはずだ。
きっと今頃は、あの電話の王座でしてやったりとほくそ笑んでいるだろう。
ジャンから溢れるほどの感謝の言葉を貰って――もしかしたら、以前
見たときのように投げキッスつきだったかもしれない。そう思った途端、
ジュリオの眉が反射的に吊り上がった。面白くない。はっきり言えば
むかつく。ジャンさんに自分よりも頼りにしている男がいるなんて、
そんなの嫌だ。
その気持ちが顔に出ていたのだろう、上目遣いにジュリオを盗み見た
ジャンが大きく目を瞠り、恥じいるように項垂れた。
「ごめん……勝手なことして」
「っ! あ……、ち、違いますッ」
謝罪を口にする主にジュリオは慌てて首をふる。
ジャンさんはなにも悪くない。自分が身の程知らずにも嫉妬しただけで、
貴方は何の罪もない。悪いのは、欲張りで我が儘な俺のほうだ。
「俺、俺は嬉しいです……ジャンさ、……ジャンが、俺のことを知りたいって、
あ、あの、知ってくれて」
大好きな人が自分に関心を持ってくれる。知りたい、理解したいと思って
くれる。それはとても幸せなことだ。どんなに望んでも顧みられない絶望を
知っているからこそ、ジャンの気持ちが泣きたくなるほど嬉しい。
胸底から止めどなく溢れ出す感情を、拙いながらも言葉に代えて
ジュリオは必死に言い募った。
「あっ……貴方が、俺なんかのことを、気にかけて――」
「こら」
いいかけるジュリオの頬を、白く美しいジャンの指がふにっとつねる。
びっくりして瞬いたジュリオの瞳に映ったのは、すこしばかり怒ったような
まなざしで睨めつける主の顔だった。
「俺『なんか』なんて言うな」
「で……でもっ」
「お前は俺の、こっ、……恋人だろ。気になるのは当たり前じゃん、好きな
奴のことなんだから」
「ジャン、さ……ん」
「――誕生日おめでとう、ジュリオ」
照れくさそうに、それでも心からの祝福とともにジャンが微笑む。花が
咲き綻ぶように艶やかに、息をのむほど美しく。世界一綺麗だと
ジュリオが信じてやまない黄金の双眸に限りない慈しみをたたえて、
言葉よりも雄弁に彼の想いをジュリオへ伝える。
生まれてきてくれて、ありがとう。
俺が忘れても、ずっと覚えていてくれて。
俺と生きることを選んでくれて――ありがとう。
いつの間にか握りしめられていた掌から、そっと重なり合った唇から
流れ込むジャンの熱がジュリオを満たしてゆく。それはまるで乾いた
大地を潤す慈雨のように。
つきん、と。鼻の奥が鈍い痛みを訴える。眦が火傷したように熱い。
とめどなく注がれるぬくもりが、大きな奔流となってジュリオの隅々
まで行き渡り、彼の中に凝っていた不安や寂しさを溶かしていく。
気がつけばジュリオは泣いていた。嗚咽こそあげないものの、
幼子のように大粒の涙をいくつも零しながら。
あたたかくて、やさしくて、けれど胸が締めつけられるような切なさも
混じった甘い疼き。以前は理解できなかったその感情の名を、
ジュリオはもう知っている。それは『歓喜』だ。
ただひとりの運命の人が自分を必要としてくる。それだけでも
身に余る僥倖なのに、こんな壊れた狂犬にお前が愛しい、側にいて
欲しいと言ってくれた。ずっと昔からジュリオが焦がれ続けた言葉を、
ぬくもりをジャンは与えてくれた。それだけじゃない。
差し伸べられた手をとることに怯えるジュリオを、ジャンはけして
見捨てなかった。自身もひどい傷を負ったのに、それでも諦めずに
暗闇から救い上げてくれた。ボンドーネという底無しの闇に蝕まれ、
溺れて消えるはずだったジュリオを、その小さな体で。ジャンを
傷つけるという大罪を犯したのに、彼はそれすらも許してくれた。
この人がいるからこそ、自分はいま生きている。生きていたいと思う。
彼のそばで、ずっと。いつかこの心臓が動かなくなる、その瞬間まで。
泣き続けるジュリオを、細くしなやかなジャンの腕がぎゅっと抱き
締める。昔こわい夢を見て泣いたとき、父と母にこうやって抱かれ
安堵して眠ったことを思い出しながらジュリオは静かに目を閉じた。
つかのま目裏に蘇った両親の面影に、そっと胸内で囁きなから。
――俺を生んでくれてありがとう、と。
(10/03/14)