Punch-Drunk Love

 
 ぐるぐると視界がまわる。気道が急速に引き絞られ、うまく息が

つげない。苦しさと、足下が崩れるようなおぞましい感覚に

ベルナルドの体がぐらりと傾いた。

「おい、大丈夫か?」

 心配そうな声と肩に触れたぬくもりに顔をあげる。自分を覗き

込む鮮やかな金色の光に、ベルナルドは小さく呻いた。 

「……あっ」

 喉元を締めつけていた圧力が霧散し、呼吸が楽になる。蒼白な

顔で瞬きを繰り返すベルナルドに少年はなおも話しかけた。

「すっげー顔色悪いぞ。怪我が痛むのか?」

「ち、ちが……」

 ふるふると首を振って否定する。違う。そうじゃない。けれど

ショックが大きすぎて、うまく口が動かない。狼狽えるベルナルドの

視線を追った少年は、あっと声をあげた。

「もしかして、コレが止まったからパニくってんのか?」

 確認するような問いかけに僅かに逡巡した後、こくりと頷く。

こんなことで動揺するなんて、きっと笑われるだろう。でも、

これはベルナルドにとって

「だ……、大事な、ものなんだ」

 自分の命と、おなじくらいに。

 ようやく絞り出した声でベルナルドは弱々しくつぶやく。人に

誇れるような血統でも家柄でもない、故国のイタリアから

身一つで渡ってきたオルトラーニ家で唯一受け継がれてきた

もの。それがこの腕時計なのだ。

 祖父がまだイタリアにいた頃、猟に入った山道で自動車事故を

起こしたドイツ人を見つけ、家に連れ帰って手当をした。その男は

陸軍将校で、命を救われたことに大変感謝し、身につけていた

――当時としてはまだまだ珍しかった――腕時計を祖父に贈った。

それ以来この時計はオルトラーニの家で代々受け継がれて

きたのだ。祖父から父、そしてベルナルドへと。

 後で調べたところによると、これは当時の国王が陸軍の上級士官

への支給品として時計メーカーに作らせたものらしい。いま市販

されているような洗練された華やかなデザインとは無縁の質素な

造りだが、そういうところも含めてベルナルドは気に入っていた。

 これを貰った日のことは今でも鮮明に思い出せる。

祖父がこの時計を手に入れた経緯を聞いたあと、自分の腕に

巻かれた時計を見て幼いベルナルドはかつてないほど興奮した。

『王から臣下に下賜された品』

 そんなすごいものが、いま自分の腕にある。それは常に他人から

侮られていたベルナルドにとって、なによりも得難い誇りとなった。

 いつか、この時計に相応しい男になろう。元の持ち主のように

誰からも尊敬される人間に。学校でどんなに苛められ殴られ

蹴られても、時計を見れば苦痛を忘れられた。もう無理だと絶望

しても、これに触れれば胸にあたたかいものが溢れ、消えかけた

気力が再び体に息づいてベルナルドを奮い立たせてくれる。今まで

歯を食いしばって頑張れたのも、すべてこれがあったからだ。

 それなのに、壊れてしまった。もう動かない。その現実があまりにも

重すぎて、茫然とする彼の耳をふいに涼やかな声が掠めた。

「そんなこの世の終わりみたいに顔すんなって。ちょっと俺に貸して

みな」

「えっ……?」

 なにを言われたのか理解できなくて、ベルナルドは二三度瞬く。

座ったままぎこちなく自分を見つめる彼に少年はにっと笑った。

「俺、時計の故買屋で見習いやってんだ。道具も持ってるから簡単な

修理ならできるし、どこが悪いのか調べてやるからさ」

 な、と声をかけられてベルナルドは躊躇する。

 これを、見ず知らずの他人に渡す。そんなことできるわけない。

本当に、本当に大事なものだ。今日会ったばかりの人間に触らせる

なんて、そんな――無理にきまってる。頭ではそう拒絶しているのに、

けれど心は少年の言葉を無条件に受け入れて、彼の云うまま時計を

差し出そうと自らの腕に手を伸ばす。いけないと思っているのに、

止まらない。

 太陽のようなあの瞳に見つめられると、自らの意志すらねじ曲げて

彼に捧げたくなる。心も、体もなにもかもすべて。

 自分でも理解できない情動に突き動かされるまま、ベルナルドは

時計を少年へと手渡した。指に触れた彼のぬくもりに我知らず胸を

躍らせながら。



 
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(10/10/08)