Punch-Drunk Love
細く白い指先が慎重に、ひとつひとつの部品を外してゆく。直った
ばかりの眼鏡をかけたベルナルドは、その様子を一瞬たりとも逃す
まいと目を凝らして見守った。
「ああ、やっぱり。中の部品がずれて、うまく噛み合ってねーや」
細い金具を器用に操りながら少年がひとりごとのように呟く。軽口を
たたいていても、その手の動きは正確で淀みがない。本人は見習いと
言っていたけれど、作業の様子はいっぱしの職人のようだ。
止まった原因である歯車を所定の位置に填め直すと、少年は丁寧な
手つきで他の部品を戻していく。瞬く間に元の形に組み立てられた
それに、固唾を呑んで見つめていたベルナルドはゆっくりと吐息を
漏らした。
「レンズは割れてっから交換するしかねーけど、中は大丈夫だ。結構
古いモンなわりに頑丈に作ってあるよ、コレ」
ほい、と少年の手が伸びて時計をベルナルドに渡す。
再び時を刻みだした「誇り」をぎゅっと握りしめ、ベルナルドは唇を
戦慄かせた。
「あ……ありが、とう」
消え入りそうな声で、ようやくその言葉を絞り出す。
コレを直してくれて。俺を助けてくれて、ありがとう。泣きそうな顔で
礼を繰り返すベルナルドを、少し困ったような表情で少年は見上げ
首を振った。
「や、そんな大袈裟な……」
たいしたことしてないし、と照れたように頭をかく。甘酸っぱい
雰囲気に満たされたサロンに、不意に乱雑な靴音が響いた。
「この歩き方は……」
どんどん近づいてくる足音に、微笑ましそうに二人を見守っていた
ドン・カヴァッリが白眉を歪め小さく呟く。それとほぼ同時に重厚な
扉が豪快に開け放たれた。
「お、ここにいたか。探したぞ、ジャン」
「げっ、親父」
現れた男を見た瞬間少年は顔を顰め、ベルナルドは凍りつく。
カポ・デル・サルト。CR:5の頂点に立つ男が、いま目の前にいる。
何故、彼が此処に。デイバンの闇を統べる人物の登場にベルナルドの
体が瞬時に強張る。初対面ではないが、気安く挨拶できるほど面識が
あるわけでもない。ましてベルナルドは準構成員でもない堅気の子供だ。
恐れるなというほうに無理がある。
ぐるりとサロンを見回したアレッサンドロは、カヴァッリやジャンの
他にベルナルドを見つけると軽く目を瞠った。
「…ベルナルド? お前、なんでここに」
「あ……そ、の」
極度の緊張からベルナルドの喉が奇妙な音をたてて軋む。吃音者の
様にどもる彼を、少年が背後に庇うかのごとく前へと進み出た。
「んなの、どーでもいいだろ。で、なんの用ですかボス」
「お、そうそう。ジャン、今日夕メシ奢ってやるからカジノに付き合え」
「ハァ? なんで俺が」
唐突なボスの命令に、あろうことか少年は不快感を露わにして拒む。
しかしアレッサンドロはそれを意に介さず一方的にまくし立てた。
「お前は負け知らずのラッキードッグだろ。今日はミナとカジノで
デートなんだよ、いいとこ見せたいからお前のツキを俺に貸せ」
「いやいやいや、ミナって誰よ。つか、女口説くのに俺を使うって、
それ振られフラグなんじゃな――ぐえっ」
「ぐだぐだ言ってないでホラ来い。いくぞ」
嫌がる少年の首根っこを男の手がむんずと掴む。猫の子よろしく
少年を引きずりながら「じゃ、邪魔したな」と爽やかな笑顔を振りまいて、
カポ・デル・サルトはサロンを出ていった。
「まったく……あやつときたら幾つになっても落ち着きがなくて、旋風の
ようじゃ」
瞬く間に静寂が戻ったサロンでドン・カヴァッリが嘆息する。茫然と
立ち竦んでいたベルナルドはアレッサンドロが消えたことで漸く硬直が
解け、糸が切れたようにソファへと崩れ落ちた。
冷や汗がひとすじ、腋の下を伝う。びっくりした。まだ心臓がばくばく
いってる。それも当たり前だ。街に掃いて捨てるほどいる構成員なら
まだしも、マフィアのボスなんて庶民の子供が見慣れてるわけがない。
それでも恐怖の対象が去り、動悸が収まると今度は好奇心が疼き
だす。カヴァッリの時も感じたことだが、あの少年は本当に肝が
据わっているというか下っ端らしくない。組織のトップにも阿ることもなく、
かといって周囲が読めぬほど愚かで傲慢という感じでもなくて。カポ・
デル・サルトとの遣り取りも『血の掟』を越えた、まるで――
「……まるで、本当の親子みたいですね」
ボスと構成員。それはよく父と子に例えられるが、あのふたりは
もっと近しい――血の繋がった肉親のように見える。
ベルナルドがぽつりと漏らした感想に、ドン・カヴァッリの顔色が
あきらかに変わった。
「……お前には、そう見えるか」
「えっ? は、はい」
低い声で念を押すように問われて、戸惑いながらも頷く。なにが
老幹部の気に障ったのだろうか。自分の発言を反芻してみるけれど、
特に思い当たるような節はない。わけがわからず困惑する
ベルナルドに、カヴァッリは静かに口をひらいた。
「今日という日にお前とジャンが出会ったのも、運命かもしれんな」
「ドン・カヴァッリ?」
それは、いったいどういう意味だろう。首を傾げる子供を穏やかな
眼差しで見つめつつ、老幹部はひとりごとのように低く囁いた。
「あれは……いずれ組織の要となる子じゃ。ベルナルド、儂や
アレッサンドロはな、おぬしにあの子を支える右腕になって欲しい
のじゃよ」
「俺が、ですか……?」
思いがけない老人の言葉にベルナルドは面食らう。急にそんな
ことを言われても、困る。自分の目標はいい大学を出て、社会で
成功することだ。それを捨てて組織に入って右腕になれと言われても
『ハイわかりました』と頷けるはずがない。弱い者から搾取して生きる
マフィアなんて絶対イヤだ。
けれど、そう思う一方であの少年のことが気になって頭から
離れない。
彼のことをもっと知りたい。
そして、自分のことも知ってほしい。
このまま別れてしまいたくない。
どこから沸いてくるのかと思うほど激しい感情がベルナルドを浚って
ゆく。気がつけば自分から老人に声を掛けていた。
「ドン・カヴァッリ。あの、彼は、彼の名は……」
「ん? あやつ、名乗らんかったかの。あれはジャン、ジャンカルロ・
ブルモン・デル・モンテ。アレッサンドロの――」
甘く懐かしい夢は、固いノックの音で打ち切られた。
「――隊長、カポ・デル・モンテがお戻りです」
扉の向こうから聞こえた側近の声にベルナルドは目を開ける。軽く
頭を振って立ち上がるのと同時に扉が開き、ぱっと鮮烈な金の光が
執務室にあふれた。
「ただいま、ダーリン」
目映い輝きを纏った天使がベルナルドに微笑む。王冠のように
煌めく金髪に、自分に向けられる愛らしい笑顔に内心みっともないほど
動揺しながら、しかし表面上は穏やかな笑みを浮かべてジャンを
出迎えた。
「お帰りハニー。昼食会はどうだった」
「いつもどーりよ。お爺ちゃんたちの昔話は長くて疲れたわ」
うんざりしたような表情でジャンは肩を竦める。
既に指定席となったソファにすとんと腰を下ろし――最近ようやく
慣れてきた――葉巻の先を吸いやすい形に切り落とす。すかさず
ベルナルドが杉のマッチを擦って火を点けると、ジャンは口内に
拡がるまろやかな薫りを楽しんだ。
「あー、うめぇ。……けど、紙煙草のほうが俺には似合ってるよなぁ」
「っ、そんなことない。様になってるよ、ハニィ」
自嘲気味に零した弱音をベルナルドは即座に否定する。
変だ。ジャンが、こんな自虐的な軽口をもらすなんて。懇親会で
何かあったのだろうか。彼がこんなふうに気落ちしてるところを見せる
なんて、かなり珍しい。戯れに甘えることはあっても、本当に弱さを
晒すことは滅多にしない。力のない者がそんな真似をすれば忽ち
食い荒らされ骨までしゃぶられてしまう、と本能で知っているからだ。
野生の獣のように。
ジャンが自分を身内だと認識しているから、弱気なところを見せて
くれる。憂いの滲んだ表情に痺れるような胸の高鳴りを覚えるとともに、
激しい後悔がベルナルドの心を鋭く穿つ。
たぶん役員たちに何か言われたか、いびられたのだ。おそらくは
出自や学歴といった、彼にはどうしようもない部分のことで。
やはり無理をしてでも昼食会についていけばよかった。そうすれば、
あの性悪爺どもの悪意からジャンを守るのに。昨夜の抗争の事務
処理と、幹部最下位を理由に留守番を命じたジュリオに怒りを覚えず
にはいられない。同行したはずなのに、いったい何をしているのだ、
あの男は。
慰めたいのに、けれど上手い言葉が思いつかない。そしてジャン
自身もベルナルドの労りはさほど必要としていないのがわかる。彼は
ただ、受けた傷と痛みを塞ぐ為に静かな場所を欲して此処に来たのだ。
それを理解できるから、ベルナルドも敢えて自分から話を振ろうとは
しない。ただ沈黙には五分と絶えきれず、そっとソファから立ち上がると
側のサイドボードに鎮座する蓄音機の針を動かした。ぶつぶつっと不快な
音が弾け、やがて美しい旋律が部屋を満たす。珍しい、いやたぶん
(ここで耳にするのは)初めてといってもいい、電話のベル以外の音に
ジャンは首を傾げた。
「これ、なんて曲なのけ?」
「パンチドランク・ラヴ――十年くらい前に流行った曲だよ」
「ふーん…なんか聞き覚えがあるような、ないような」
唸るジャンの様子を眺めながら、ベルナルドは小さく喉を慣らす。
彼が思い出せないのも仕方ない。でも自分は、はっきりと記憶に焼き
付いている。だってこれは、あの日ラジオから流れていた曲だから。
ジャンが時計を直してくれている間、ずっとこの歌がサロンに響いて
いたのだ。そのタイトルのとおり、狂おしいほどの恋情をベルナルドの
心に焼き付けて。
初めてジャンと出会ったあの日から、すべてが変わった。幼いころ
思い描いた未来とは違うけれども、CR:5に入ったことに後悔はない。
少しでもジャンに近づくには――彼の側にいる為には、こうするしか
なかった。たとえ再びあの時に戻ることが出来たとしても、自分は
何度でもこの運命を選ぶだろう。
「どしたのダーリン? そんな見惚れるほど、アタシって綺麗?」
じっと見つめる視線に気づいたジャンが悪戯っぽく笑う。無邪気な、
それでいて匂いたつような色気の滲んだ微笑み。心まで蕩かす
蠱惑的な笑顔に、胸の奥に閉じ込めたはずの灼けるような想いが
喉を迫り上がる。けれど。
「……ハニィは、いつだって素敵だよ。どんな時も輝いて俺を照らして
くれる、唯一の太陽だ。誰も、お前の替わりになんてなれないんだよ」
もっとも伝えたい言葉を呑み込み、その代わりに心からの忠誠と
信頼を紡ぐ。そうだ。誰がなんと言おうと、自分が組織の主と認めるのは
ジャンカルロ、彼のみ。ベルナルドが今の地位まで上り詰めたのは、
偏にジャンの――いつか彼が二代目を引き継いだときに右腕となって
支えるため。仮令この想いを一生告げることができなくても、いい。他の
誰よりも近く、彼の側にいられるのならば。
「俺のボスはジャンだけだ」
だから、他のヤツの言葉なんて気にしないで。そんなものはただの
やっかみで、路傍の石ころほどの値打ちもないのだから。
ぎゅ、と自分の手を握って訴えるベルナルドの声音に、そのまなざしに
含まれた心を感じ取ったのだろう。誰の警戒も緩ませる笑顔がわずかに
崩れ、その下に隠された素の顔がくしゃりと歪んで――少し潤んだ
金色の瞳が、やわらかく細められる。
やがて聞こえた小さな囁きに、ベルナルドは薄く微笑んで頷いた。
耳を掠めたその言葉を、深く深く胸に刻んで。
(10/10/22)