Under the Rose
いきなり連れてこられた屋敷は、幼いジャンを冷たく拒絶していた。
――ぜったい出てってやる。こんなとこ。
枯れ葉で埋め尽くされた木立の中をジャンはひとり歩く。母が
亡くなって預けられた孤児院も嫌いだったけれど、此処はもっと
嫌いだ。みんなが自分を蔑んでいる。ジャンが「教会と神様の
認めた」子供ではないから、と。たとえカポの実子であっても
私生児で、育ちが悪いから「いらない」というのだ。そんなの、
自分のせいではないのに。
ジャンの両親は正式に籍を入れていない。トスカニーニーの
幹部に昇格した父の立場を慮って母が身を引いたのだ。その時には
もうジャンを身ごもっているとも知らずに。
乳兄弟だったシスターの手配で下町の片隅に落ち着いた母は
自分の妊娠に気づき、ひとりでジャンを生み育てた。やがて居場所を
捜し当てた父が迎えに来て、結婚し一緒に暮らそうと懇願しても、
けして首を縦にはふらなかった。そのころの父は既に組織のボスへと
上り詰め、街中の有力者から縁談を持ち込まれていたから。そこに
ジャンの存在があきらかにされれば、快く思わない人間に命を
狙われる。母はそれを怖れたのだ。
けれどその抵抗も、長くは続かなかった。もともと体が丈夫では
なかった母は子育てと仕事の無理が祟って病気がちにになり、
幼いジャンが眠っている間に息を引き取った。我が子は乳兄弟の
シスターが働く孤児院へ預けるように、と遺言を残して。
引き取られた孤児院はうるさくて、厳しくて、退屈な場所だった。
ジャンの好きなことはアレもだめコレもだめと禁じられ、逆に嫌いな
ことばかり押しつけられる。また同じ年の子供より体が小さかった
から、よく苛められた。それで殴り返すと、今度はジャンがシスターに
怒られた。むこうは集団で、こっちはひとりでやり返しただけなのに。
だから、父がジャンを引き取りに来たときは嬉しかった。ここを出て、
家族と暮らせる。その頃は父の仕事がなんであるかなんて
知らなかったし、自分の立場なんてわからなかったから、素直に
喜んだ。孤児院の門をくぐるとき振り返って見た、シスターの悲しげな
顔が気にはなったけれど。
その意味を、ジャンはすぐに知ることになった。
母と暮らしたアパートを想像していたジャンが連れてこられたのは、
似ても似つかない大きなお屋敷だった。
何人もの召使いと、数え切れないほどたくさんいる黒いスーツの
男達。驚いて声も出ないジャンは取り囲むメイド達の手でピカピカに
磨かれ、前に孤児院で見た金持ちの子供のような恰好をさせられた。
そうして厳つい老人達の前に引き出されて、父によってこう宣言され
たのだ。この子は自分の子供で、これから手元で育てると。
それから始まった生活は孤児院のときより辛かった。前以上に
厳しい躾と、孤児院ではありえなかった高度な教育。出来ないと
やはりお育ちが、と馬鹿にされ、叱られる。おなじ子供に見下される
のも腹が立つが、自分よりずっと大きな大人に蔑まれるのは存在
するなと言われているようで。幼いジャンの矜恃はズタズタに引き
裂かれ、打ち砕かれた。父と暮らす嬉しさなど、吹き飛んでしまうほど。
いくら良い服や暖かい食事やふかふかとベッドがあっても、こんな
ところは嫌だ。これなら下町で物乞いでもして暮らしたほうがいい。
意を決したジャンは鞄にありったけのお菓子を詰めこむと、こっそりと
屋敷を抜け出した。正面玄関は警備が厳しいから、裏口から雑木林を
抜けて街へ出よう。小さな頭で計画をたて、ジャンは見つからないように
木立の間をこそこそと進む。ちょうど半分ほどの距離まで歩いたころ、
注意深く周囲を見回していた金色の瞳がある一点で止まった。
赤や黄色の落ち葉の中でうずくまる、小さな白いもの。子猫だ。
みゃあみゃあとか細い声で鳴いて母親を呼んでいる。胸を締めつける
ような切ない悲鳴が、まるで母を亡くした自分のように思えて。突き
動かされるようにジャンは子猫へと手を伸ばした。
「だめだ」
あと数歩で指先がふわふわの毛に触れる寸前、鋭い声とともに
強い力で後ろに引かれる。びっくりして振り返れば、見知らぬ少年が
ジャンの腕を掴み見下ろしていた。
「触れちゃいけない。子猫が死んでしまう」
低い声で囁き、突然のことに怯えるジャンを引き寄せる。年は自分
より5、6歳ほど上だろうか。整った綺麗な顔を険しく引き締めたまま、
硬い声音でつぶやいた。
「こっちにおいで」
ジャンを抱えるようにして少年は近くの茂みへと身を隠す。我に返った
ジャンが逃れようと暴れるのをなんなく封じ込めると、茂みの隙間から
息を殺して子猫を見守った。
「ほら、母猫が迎えにきただろう」
彼の言葉どおり、ジャンたちの姿が見えなくなった途端どこからか
成猫が飛び出してきた。子猫に駆け寄るとあやすように数度その顔を舌で
舐め、だがすぐに首根っこをくわえて持ち上げると、足早にその場を
去っていった。
「もし君が子猫に触っていたら、母猫がパニックになって喰い殺してた。
人間の匂いがしみついた獣は、親に拒絶され死ぬしかないんだ」
淡々とした声で紡がれる説明にジャンは青ざめる。もし、さきほど
子猫を抱き上げていたら。その行動が招いたであろう結果に震える
ジャンの顔をのぞき込んで少年が静かに訊ねた。
「ところで、どうしてこんな所にいるんだい? 君のナニーは昼寝でも
してるのか。雇い主の子供から目を離すなんて」
職務怠慢だな、という呟きにジャンはぎゅっと体を強ばらせる。
この人は、自分がどこの誰か知ってるのだ。屋敷の人間だろうか。
でも、いくら記憶を探しても見覚えはない。
「……誰?」
身を竦ませて警戒するジャンに少年は軽く目を見張り、それから
小さく口元を綻ばせた。
「はじめまして、俺はベルナルド・オルトラーニ。今日から住み込みで
君の子守をすることになったんだ」
よろしく、とゆるく微笑んで大きな手がジャンの頭を撫でる。
先ほどとはうってかわった優しい笑顔に、ジャンは逃げ出そうとしていた
ことも忘れて少年に見惚れた。脱走に気づいて探しにきたメイドと、
屋敷の兵隊達に連れ戻されるまで、ずっと。